エベレストBC山行(2016年110日~11月17日)
(ルクラ行きの15人乗りの飛行機)
(飛行機から見たヒマラヤ)
実はこの1ヶ月、ネパールに行っていました。
70歳になり〝そろそろ終活の準備を・・・”と思った途端、急に〝エベレストBCまで登ってみよう”という気になりました。
セニョールは、山には単独で登ることをポリシーにしています。
北アルプスの岳々、フランスのモン・ブラン(4,810m)も単独で登りました。
当然ですが単独での登山はより危険を伴います。
そこで綿密に下調べをし、緊急時の装備もパッキングし、予備日も十分に取り、出発しました。カトマンズには中国・成都経由で入り、出発点のルクラ村(2,840m)には飛行機で飛びました。
ネパールの11月は乾季の真っただ中で、雲一つない快晴が続きました。
お蔭でルクラ村へのフライトはキャンセルがなく順調に飛べました。
ネパールの国内線はまだ有視界飛行ですから、ガスが出たり天候が悪化したらフライト・キャンセルになり何日も足止めになることがあります。
このルクラ村の飛行場がまたすごい所で、標高2,800mの切り立った断崖から山に向かって上り傾斜で造られています。
ヒマラヤの谷間から着陸態勢に入るとちょうど航空母艦に着艦するような感じです。
離陸するときは山側から崖に向かって加速しますので失敗するとオーバーランはありません、谷底に落ちるだけです。
飛行場では地元民(シェルパ族)がガイドやポーターの仕事を求めてしつこく寄って来ましたが全て断りました。
ルクラ村からはもう歩くしかありません、往復19日をかけてのトレッキングの開始です。
山・谷をいくつも越えるアップ・ダウンに加えて、4,000m、5,000mの標高での酸素不足は厳しいものでした。
5,000mでの酸素量は低地の約半分です。
うまく高度順応しないと高山病になります。
セニョールは高度順応のため3,000m、4,000m、5,000mでそれぞれ2泊しました。
お蔭で頭痛・吐き気・嘔吐などの症状はなく、うまく順応しながら登りました。
この順応が上手にできないと結局は停滞や下山を余儀なくされます。
「一番心配した高山病にならなくて本当に良かったね。
主治医の先生も 『70歳にもなってそんな無茶なことは止めなさい 』 と随分心配していたから」と、ボビーが云うとセニョールも「ヒマラヤで高山病を甘くみると命を落とすことになるからね。
日本人だけでも毎年2~3人が死亡し外務省のお世話になっているらしい。
下りて来た人の中にも高山病で目的地まで行けなかったという人がいたよ」
「セニョールは単独だから全て自分で判断し、自分の面倒をみなきゃあいけないから大変だね」
「うーん、大変だけどチームを組むとメンバーにどうしても気を使うだろう。
その代わり遭難事故は絶対に起こしてはいけないから今回はパルスオキシメーターを持って行き、指先に挟んで血液中の酸素量を計りながら登ったんだよ。
その外、薬や装備もね。
長くなるから今回はここまでにしよう。
最終目的地の5,540mまで登ったお話しはまた来月にしようね」
ということでまたお話しします。
(出発点のルクラ村)
エベレスト (その二) 《2017年 1月更新分》
エベレストBCに向かう山道は60度くらいの急な山腹を這っており、谷底ではゴーゴーと白濁水が流れています。
が、幅は1~2mあり、山肌には樹やブッシュが生えているのでそんなに恐怖感はありません。
所どころ60㎝くらいの狭い所や、石車に乗って滑りやすい所もあるので注意して歩きました。
道沿いにはシェルパ族の村々が有り、トレッカー向けのロッジが有ります。
このロッジに泊まりながら登って行きます。
11月のネパールはお祭りが多く、村々ではシェルパ踊りをして楽しんでいました。
シェルパ踊りは数人が横に並び、肩や腰に腕を回して歌いながらステップを踏む素朴な踊りです。
※文中同じ山、同じ村が出てきますがその都度標高を記載しています。高度に関心のある方に分かり易いように、くどいようですが敢えて記載しました。
≪1日目≫
(村人の生活)
(荷物を運ぶヤク、見かけはほとんど牛)
ルクラ村(2,840m)からパクディン村(2,610m)までは緩やかなアップ・ダウンの下りで、谷間の農村風景を楽しみながら快適に歩きました。
環境が厳しいからでしょう、畑のキャベツは玉にならないで葉を広げ、痩せて干からびていました。
道中、荷物を運ぶ“ヤク”とよく行き交いました。
ヤクはウシ科の動物で荷物運搬として使われ、その糞は乾燥させて燃やし燃料として使われます。
そして役目を終えたヤクは食用になります。
宗教上ウシを食べないネパールではヤクを食べますが、とても硬くてアゴが壊れそうです。
また村々には必ず岩に白い文字で経文を書いたマニ石が有りました。
マニ車と共に仏教を身近に信仰している姿がうかがえます。
パクディン村で泊まったロッジは食事をすれば宿代は無料という宿でした。
通常、宿代は200円~300円なので、食事代1,000円~1,500円で儲けるという経済システムのようです。
部屋はツインルームで小ぎれいでしたが、壁・天井は薄いベニヤ板造りなので隣室の音が丸聞こえです。
また外気温がそのまま伝わり、夜は寒いです。
この宿では下りて来た30代の日本人と出会い、夕食を一緒に取りました。
彼はマウンテン・フリーターで夏は薬師岳の山小屋で、冬はスキー場で働いているとのことでした。
(マニ石)
(パクディン村で泊まったロッジのルーム)
≪2日目≫
(タムセルク 6608m)
登りながらチュモア村(2,950m)の谷間から雪に覆われたタムセルク(6,608m)の威容が見えてきました。
初めて目にするヒマラヤの高峰は月並みですがやはり神々しかったです。
2か所の滝壷で汗を拭き、深い谷にまたがる長い吊り橋をいくつも渡りました。
この吊り橋は直径5センチのワイヤロープで作られているので安心して渡れました。
道中、イタリア人グループから「何歳だ?」と聞かれ、「70歳だ」と答えると「オー」と驚き、「我々はポーターに荷物を持たせ小さなリュックなのに、一人で大きなリュックを背負って登っている、Very Strong!」と云い、「一緒に写真を撮ろう」と肩を組んで写真に納まりました。
この日はジョルサレ村(2,805m)で泊まりました。
一人なので部屋は布団部屋でしたが、その分、布団を2枚重ねて温かく寝ました。
(つり橋を渡るヤク)
≪3日目≫
(ナムチェ村)
いよいよ最初の難関、ナムチェ村(3,440m)に登る600mの急坂です。
この坂を登るとき一度呼吸が乱れ、ドキドキドキッと心臓が暴れ、苦しく、呼吸困難になりました。
荷物を下し、岩に腰かけ、何度も深呼吸をして呼吸を整えました。
まだ高度順応が十分にできていなかったが故のトラブルだと思います。
「ゼーゼー、ハーハー」と言いながらやっと登り着きました。
ナムチェ村はこのルートでは一番大きな村で、馬蹄形の山腹に階段状に建物が並んでいます。
毎週バザールが開かれ近在の人で賑わう村です。
そしてシャンボチェの丘(3,720m、この村の裏山)からはエベレスト(8,850m)が初めて遠望できるということもあり、ホテル、ロッジやお土産屋さんも多く、ちょっとした観光地です。
宿で久しぶりにシャワーを浴びましたが、浴びてるときは温かくても身体を拭き始めると寒くなり、結局シャワールームを出るときは冷え切っていました。
ポカポカと温まる日本のお風呂のありがたさをつくづく感じました。
この宿では高度順応のため2泊しました。
明日はいよいよエベレストと初対面です。
≪4日目≫
(厳しい環境の中で咲くリンドウ)
シャンボチェの丘(3,720m、ナムチェ村の裏山)を目指してナムチェ村(3,440m)の宿を出ました。
少しは身体が慣れてきましたが、それでも300mの急な登りなのでゆっくりゆっくり登りました。
道の両脇にはリンドウが咲いていました。
高山の寒さと風の強さからでしょう、茎が短く地を這うように咲いていました。
シャンボチェの丘にはあの〝エベレスト・ビュー・ホテル”があります。
このホテルはセニョールの趣味ではありませんのでコメントは差し控えます。
この丘からエベレスト(8,850m)が初めて遠望できます。
が、初めての人にはどれがエベレストか分からないと思います。
セニョールも然りで地図を拡げて方位を定め、エベレストを探していると横にいたインド人のガイドが教えてくれました。
エベレストはヌプツエ(7,861m)の稜線の上に少しだけ頭を出していました。
その姿は謙虚そのものでした。
それでも黄色い横縞のイエローバンドがはっきり見え、自己主張していました。
この丘からエベレストを見て、周辺をトレッキングして下山する人も結構います。
(わずかに見えるエベレスト、中央奥の左のピーク)
(望遠レンズで捉えたエベレスト、左のピーク)
エベレスト (その三) 《2月更新分》
先にもお話ししましたが、ネパールのロッジはルームが薄いベニヤ板で造られているので隣室の音は筒抜けで、夜は冷え込みが直接伝わって来ます。
タンボチェ村(3,860m)から上では夜は-5℃~-10℃になります。
暖房は食堂だけでルームにはないので寒くて寝れません。
そこでロッジでタトパニ(熱湯)を水筒に入れてもらい、これを湯たんぽ代わりにして寝ました。
このお湯はきれいですので翌日の飲料水になります。
ベニヤ板造りと云えば悪口を云っているようですが、富士山の山小屋の寝返りも打てない雑魚寝部屋に比べれば天国です。
やはりヨーロッパ人が多いので個室文化になっているのでしょう。
日本の山小屋は“プライバシー”や”寝室空間”についてもっと考える必要があると思います。
≪5日目≫
(アマダブラム)
(マランプーラン?)
タンボチェ村(3,860m)に向けて宿を出発しました。
しばらくはエベレストを遠望しながらの快適なトレッキングです。
この辺りからタムセルク、カンテガ、アマダブラム、マランプーランなど6,000m級の山々に囲まれながらのトレッキングになります。
そしてアップ・ダウンを繰り返し3,250mの谷まで下り、吊り橋を渡ると第二の関門である600mの急な登りになります。
この登りではバテながらも必死に登っている人もいました。
そして仲間から遅れた外人女性がセニョールと同一歩調でピッタリ付いて来ました。
セニョールが休めば彼女も休み、歩き始めると彼女も歩くというふうに・・・。
空気が薄いのでセニョールもかなり疲れました。
幾つもの山ひだを曲がり、突然タンボチェ村が目に飛び込んできたときはこの時はさすがのセニョールも「ブラボー!」と叫び、彼女と喜び合いました。
この村にはタンボチェ・ゴンバという大きな仏教寺院があります。
ここでも高度順応のため2泊しました。
(タンボチェ・ゴンバ)
(インド人女性、女性にもモテました)
≪6日目≫
(寺院のコマイヌ)
(タンボチェの祈祷旗、タルチョ)
午前中、順応のため登った山(4,000m)にはシャクナゲが一面に群生していました。
開花は3月頃らしいのでその時期には見事なお花畑になることでしょう。
※ 富士山では7月ごろ咲きます
この村には、冬季初登頂をし下山中に遭難死した加藤保男氏の慰霊碑がありました。
寺院で夕方のお勤めを見ましたが、40人位のお坊さんがドラを鳴らし、お経を上げていました。
仏教のお勤めは珍しいのでしょう、多くの西洋人トレッカーが見学していました。
ネパールはチベット仏教なので宿にはダライ・ラマの写真をよく飾っています。
≪7日目≫
(ショマレ村 馬の世話をする少女)
(乾燥中のヤクの糞、燃料にする)
ジンボチェ村(4,410m)を目指して出発しましたが、そう急ぐこともないのでショマレ村(4,050m)で宿を取りました。
この村は昼食を取るくらいで通過する村なのでロッジも少なく、設備もよくありません。
トイレも〝ぽったんトイレ”で、ネパールの田舎の民家に客室を作ったという感じです。
裏山では馬を放牧しており、荷物運びのヤクを泊める囲いもありました。
庭先では燃料にするためヤクの糞を乾燥させていました。
宿の人も純朴で、ここではネパールの田舎の素朴さを感じることができました。
庭から眺めると谷の向こうにはアマダブラム(6,856m)がそびえ、すばらしいロケーションでした。
(ショマレ村からのアマダブラム)
≪8日目≫
(ペリチェ村)
ここで困った問題が起きました、疲労の蓄積からかこの4日間〝便通”が止まったのです。
ネパールは衛生上の問題がありますので“下痢止め”はたくさん持っていましたが“下剤”は想定外で持っていませんでした。
このまま無理して登ればお腹がパンクします。
そこでジンボチェ村(4,410m)に向かう計画を変更し、診療所のあるペリチェ村(4,240m)に向かうことにしました。
エベレストBCに向かうルートはジンボチェ村経由とペリチェ村経由の2通りがあります。
ペリチェ村に向かう分岐点は分かり難く、道に迷いました。
地元の人に尋ねると親切に分岐点まで案内してくれました。
診療所に行くと英国人らしい女性ドクターがいました。
荷物の軽量化のため一番簡単な電子辞書を持って行きましたので、〝便通”とか“下剤”という単語が載っていませんでした。
「便通が止まった、下剤をください」と伝えるのに、身振り手振りにお尻の絵を描いて恥も外聞もなく必死に説明しました。
ドクターも私を理解しようと真剣でした。
多分、周りの人には滑稽な光景だったと思います。
やっと通じて、貰った下剤はよく効き一晩で解決しました。
これで上に登れると安心し、ペリチェ村でも順応のため2泊しました。
≪9日目≫
(夕日のアマダブラム)
(カンテガ)
朝、ドクターに「お蔭で明日はBCに向けて出発します、ありがとう」とお礼を云い、握手をしました。
ペリチェ村(4,240m)は広い河原にあり、ヌプツエ(7,861m)、ロブチェ・ピーク(6,119m)、メラ・ピーク(5,820m)、アマダブラム(6,856m)、カンテガ(6,685m)などに囲まれた村です。
ここでは河原から山々を眺め、ブラブラして過ごしました。
この村で面白いモノを見ました。
燃料が貴重な世界ですので出来るだけ自然エネルギーを活用しパラボラアンテナ状の集熱器で太陽熱を集め、やかんの水を沸かしていました。
エネルギーを浪費している先進国の人は参考にした方が良いと思います。
(集熱器でヤカンの水を沸かす)
エベレスト (その四) 《3月更新分》
日本の森林限界は2,500m位ですが、ヒマラヤのそれは4,000m位のようです。
この高度までは松の森林が多く、これを超えるとシャクナゲなど潅木が群生し、その上は岩と雪です。
ヒマラヤの生態系を見ると人間が住める限界高度は4,300m位のように思われます。
この高度になると野菜はほとんど育たず、食用動物もあまりいませんから下界からの食料補給に頼っているのでしょう。
では現金収入は何からというと、家畜用のヤクの繁殖やロッジ・食堂・ガイド・ポーターなどの登山関係の収入になると思われます。
≪10日目≫
(野生のヤク)
(戦闘的なツノ)
ペリチェ村(4,240m)から上は村や民家が無いので、いよいよ佳境に入って行きます。
ロブチェ(4,910m)のロッジを目指して700mの登りです。
もう身体は大分慣れ、順応しているので比較的楽に登れました。
途中にあるトウクラ(4,620m)の食堂は“不衛生で下痢をする”というブログをよく見かけましたのでパスしました。
トウクラから300m登った台地にはエベレストで亡くなったシェルパのお墓が沢山ありました。
この辺りから野生のヤクが生息しており、ヒマラヤをバックに悠然と回遊していました。
ウシと違って角が戦闘的ですが、性格はおとなしいようです。
これをカメラで追いかけるとき、一瞬疲れを忘れました。
そしてプモリ(7,165m)が初めて姿を現しました。
三角錐の尖った山は雪に覆われていました。
ロブチェに着き宿を探しますがハイシーズンなので一人を泊めてくれる宿はなかなかありません。
仕方がないので1泊1,000円という、このエリアでは法外なロッジに泊まりました。
(プモリ)
≪11日目≫
(ゴラクシェブで泊まったロッジ)
(泊まったロッジの壁に張ったロケ隊の寄書き)
ロブチェ(4,910m)からゴラクシェブ(5,140m)のロッジを目指して登りました。
200mの登りなのでそんなに高低差はありませんが、氷河から押し流された岩がごろごろありちょっと歩きにくい道でした。
距離は意外とあり、歩いても歩いてもゴラクシェプが見えて来ませんのでちょっと疲れて着きました。
ここで泊まったロッジは映画 『エベレスト~神々の山嶺~』 でロケが行われたロッジです。
ロケ隊は随分お金を落として行ったのでしょう。
最初は「一人はノー」と云っていた宿のスタッフも「日本人だ」と云うと急に態度が変わり泊めてくれました。
食堂の壁には岡田准一、阿部寛、尾野真千子などの寄せ書きが貼ってありました。
周辺を歩いていると目の前のヌプツェ(7,861m)の稜線が美しく、有明の月が出ていました。
このヌプツエはエベレスト(8,850m)の護衛隊のような山でトレッキング中、常に前に立ちはだかりエベレストを容易には見せてくれませんでした。
(ヌプツエの稜線と有明の月)
≪12日目≫
(堂々と鎮座するエベレスト)
(クンブ氷河のアイスフォールとベースキャンプ地 - 左側のふくらみ)
いよいよ最終目的地カラパタール(5,540m)を目指して400mの登りです。
これまで“エベレストBC(5,364m)を目指して”と云ってきましたが本当はカラパタールが目的地でした。
最初からカラパタールと云ってもご存じない方が多いからです。
カラパタールはプモリ(7,165m)の尾根の一部で、エベレストBCを見下ろしエベレスト(8,850m)を展望できる場所です。
5,000mを超えると酸素量は低地の約半分になりますのでアタックザックの軽装でも体力は消耗していきます。
一歩一歩登るにつれてエベレストが少しずつヌプツエ(7,861m)の稜線から姿を現してきました。
途中、何度か「ゴー、ドドドー」という不気味な地響きに最初は恐怖感を覚えました。
雪崩が山々に反響して不気味な音を発していました。
2時間かけ11月10日午前11時12分、カラパタールに到達しました。
さすがは世界の最高峰、エベレストはどっしりと鎮座していました。
雪にあまり覆われていないのは強風に吹き飛ばされているからでしょう。
眼下にはクンブ氷河のアイスフォールが見え、氷河の左側にベースキャンプ地が見えました。
今までエベレストに登る夢を何度か見ましたが、サウスコル(7,980m)から上はガスに包まれ頂上が見えませんでした。
が、これからはしっかり頂上を見ながら登って行くでしょう。
そして360度、雪に覆われたヒマラヤ連峰が見渡されました。
それは美しい世界ですがとても人間が住める世界ではありません。
人間が住めない世界だからこそ“神々しい”というのでしょう。
その絶景は言葉では表現できないのでビデオに納めました。
夜、知人から贈られた日本酒で乾杯し、一人でささやかに宴会をしました。
≪13日目~19日目≫
ダウン・アップを繰り返しながら下山して行きました。
今度は酸素量がだんだんと増えてきますので身体的には比較的ラクでした。
若い頃傷めた膝が高低差3,000mの下りによく持ち堪え、高山病にもならず、重いリュックにも堪え、「70歳にしては」と身体能力に随分自信を持ちました。
このルートの山歩きはヒマラヤの頂上に立たないので“トレッキング”と呼ばれていますがこの標高での苦しいアップ・ダウンは立派な“登山”だと思います。
「セニョール、今回の総括は?」と、ボビーが問うと「ウーン、目的地に到達したので少しは達成感はあるけど・・・感動はあまり無かったね。
むしろ『もうこれ以上登らなくてもいい、苦しい思いをしなくてもいい』というのが本音だったよ。
それと・・・、やっぱり“山屋”は見るだけではつまらないな、頂上に立たないと・・・、総括、面白かったけどつまらなかった」。
「じゃあ、どこかまた登るの?」。
「下山しながら考えたけど、次はアフリカの最高峰キリマンジャロ(5,895m)に登りたいな。
そして7大陸の最高峰に一つ一つ挑戦したいね」。
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中国からヒマラヤ山脈を越えてカトマンズに向かうときはどれがエベレストか分かりませんでしたが、帰りの飛行機からは“あれがエベレストだ”とはっきり分かりました。
このとき初めて胸が熱くなりました。
≪ナムチェ村(3,440m)まで下山してホっとして撮った写真です≫
(一人で遊ぶ子供)
(牛は神様のお使い)
カトマンズ、あれこれ (2016年11月)
(街中の人混み)
(バザール)
ネパールの11月は乾季の真っ只中で、大地は乾燥し土埃が舞い上がり、山の木々や街路樹は埃りを被り色あせた緑でした。
加えてカトマンズの道路はオートバイと車で渋滞し排気ガスと土埃が充満、交通警官や歩行者はマスクをしています。
片側2車線道路は3列で走り、センターラインは有って無きが如し、対向車がいなければ反対車線をどんどん走ります。
信号機はほとんど無いので道路の横断も人は車を避けながら、車は人を避けながら警笛音がいつも鳴り響いています。
カトマンズに居た10日間に一度も事故を見かけなかったのは不思議なくらいです。
この排気ガスと土埃が充満した街中を人がひしめく様に往来しています。
タメル地区にはホテル、レストラン、お土産店が集中しているので我々旅行者や旅行者相手の商売人がひしめき、アサン・チョーク地区では生活用品のバザールが開かれているので地元の人々でひしめいています。
その人混みの中を二人乗りしたオートバイが警笛を鳴らしながら無理やり走ります。
“喧騒”とはまさにこのような状態かと実感しました。
街中を歩いていてこの喧騒から逃れる場所はセニョールの場合“レストラン”でした。
ネパールではメニューを注文してから出てくるまでに30分くらいかかります。
レトルト食材ではなく、注文を受けてから作り始めるからです。
日本のレストランでこんなに待たされるとイライラしますが、カトマンズではこの待ち時間が喧騒から逃れてホッとできる時間でした。
(出窓の彫刻)
(ダルバール広場)
このような喧騒の街カトマンズも歴史的には高度の文明が栄えた時代がありました。
カトマンズ盆地には13世紀にネワール族によりネパール唯一の都市文明が築かれました。
カトマンズ、パタン、バクタプルに3王国が出現し、それぞれが競い合い、ネワール文化が花開きました。
ダルバール広場(王宮前の広場)には多くの寺院が建てられ、彫刻、絵画、音楽など芸術が興隆を極めました。
特に窓や出窓の彫刻に目を見張るものが多くあります。
しかし2015年4月の大地震でこれらの寺院がほとんど倒壊、半壊したのは非常に残念です。
これらは世界遺産に登録されていますので壊れていても観光客は訪れます。
外国人の入場料は1000円~1500円とネパールの物価からすれば高いですが復興資金になるでしょうから納得です。
世界遺産が再建されるにはまだまだ時間がかかることでしょう。
(大地震の爪痕:塔が壊れ土台だけが残っていた)
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ネパールはお釈迦様がお生まれになった国(南部のルンビニ)ですが、インドの影響が強く仏教徒は10%と少なく、ヒンズー教徒が80%を占めています。
カトマンズですれ違う多くの人々は額にヒンズー教のビンディー(サード・アイ)を付けています。
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代表的なネパール料理は“ダルバート・タルカリ”です。
細長いネパール米、豆のスープ、肉料理、野菜料理、漬物などがワンプレートに盛り合された定食です。
この定食は肉料理以外はおかわり自由です。
その他餃子、春巻き、麺類などのチベット料理があります。
ダルバートに飽きるとこのチベット料理をよく食べました。
そして登山隊を含めて西欧人が多く出入りしたからでしょう、どこでもピザ、パスタなどのイタリア料理が食べれます。
お酒はネパール産のビールがありますが、地酒としては家庭で造られるロクシーがあります。
米などを主原料にした焼酎に似た手造りのお酒です。
(ネパール最古の仏教寺院:スワヤンプナート)
(ヒンズー教寺院)
以上が大雑把なカトマンズですが、今回は“喧騒の街、カトマンズ”という印象を強く受けました。
【 余 談 】
世界遺産の王宮内広場で本を読んでいるとエジプト人カメラマンが近寄って来て「写真を撮らせてくれ」と言い、色々なアングルでバチバチ撮り始めました。
どうやら壊れかかった遺跡と壊れかかった人間がうまくマッチしていたようです。
ネパールではトレッキング中を含めてよくモデルになりました。
足がもっと長ければモデル料を請求できたのにと悔やまれました。