“ボビーとセニョールの小話” Back Number

高齢者に参考になるお話し

セニョールは元々近眼でメガネをかけていましたが、加齢とともに遠視が入ってきてかけなくてもピントが合いよく見えるようになりました。ところが最近視力が落ちて新聞など活字が読みにくくなりました。

天眼鏡も不自由なので〝そろそろハズキルーペに変え時かな”と思いました。

と、思いながらも窓に向かって新聞を読んでいると、紙面が窓から差し込む陽の影になってどうも読めません。

そこで窓を背にし太陽光を紙面一杯に受けてみると活字が読めることに気が付きました。

要するに明るい光の中だと活字がハッキリ見えるのです。

これにヒントを得て夜、本を読むときはLEDの小型懐中電灯で照らして読んでいます。

電気スタンドの明かりで読める人はそれでよいですが、読みにくければLEDのそれが一番です。

意外とハッキリと文字が見えます。

セニョールは当分この方法でしのぎ、メガネを作り替えることは止めました。

視力が落ちるということは〝光の吸収能力が落ちる”ということのようです。

単純で簡単なことですが、眼科やメガネ屋さんでは商売にならなくなるので教えてくれません。

アコンカグアも1年延期 (2020年3月)

アコンカグア(6,960m)はアルゼンチンとチリの国境にそびえる南米最高峰の山です。

実はこの冬、アルゼンチンの登山会社とコンタクトを取り、アコンカグア登頂の打ち合わせをしていました。

最初ネットで検索しても日本のツアー会社しかヒットせず、現地の会社と連絡を取るにはどうすればよいか悩んでいました。

フッと閃き、英語で検索してみました。

すると現地の会社にヒットしましたので、二つの会社と交渉を進めました。

日本のツアーは結局は現地の会社と提携して登りますので二重の会社を通すことになり費用が高くなります。

日本ツアーで登れば140~150万円かかりますが、現地の会社だと100万円くらいで登れることが分かりました。

(日本での募集金額は100万円くらいですが、別に入山料・登山保険料・ポーター料が必要になります)

交渉が煮詰まり、いざ契約というときにコロナウィルス問題が起きました。

国境封鎖・2週間の行動制限など先行きが見えない状況になりましたので

今年12月の計画を1年延期することにしました。

この歳で1年の延期は大きいですが仕方ありません。

今年は海外旅行にも行けそうもないので、空気のきれいな山に登り高所トレーニングをしようと思っています。

 

 近   況 (2018年 8月更新分)

カラオケが大好きなセニョールは気に入った歌に出会うとCDを買って練習します。

天眼鏡を持って・・・。

最近、レパートリー化した曲 ・・・・・ エグザイルの「蒼い龍」

 

先日、久しぶりに深酒をし酔っぱらいました。

居酒屋を出て、車に向かう途中バランスを崩して転びました。

転んで横になるとアスファルトの冷たさが心地よく、起きるのも面倒なのでしばらく寝ていました。

酔っ払いが路上で寝ている気持ちがよ~く分かりました。

 

先日、恒例の学生寮OB会を開きました。

毎年、樹の枝にメッセージを書いた垂幕をつるし歓迎していました。

例えば”来たれ屍よ、われらが青春の墓穴に”とか

今一度立て、死に花を咲かせよ”等々。

ブラックユーモアのつもりでしたが皆さん70歳を過ぎ現実味を帯びて来ましたので今年は止めました。

今後は”安らかな”メッセージに変えます。

 

これから登ろうとする海外の山は6000m~7000mあり

気温も-20℃~-30℃になります。

そこで前の冬は庭にテントを張り、-10℃~-20℃の夜テントで寝て耐寒訓練をしました。

ダウンの寝袋も改良され、暖かく寝れました。

 

同じく冬山訓練のため中央アルプス千畳敷カールに行きました。

当日は大荒れでブリザードがすごく視界は5~6m、気温も-15℃くらいに下がりました。

よい訓練になりましたが、普通の人だと遭難するでしょう。

 

今度の冬は庭に櫓を組み、水を吹き付けて凍らせ、氷壁を作り

アイスクライミングの練習をしようと思います。

道具は大体揃えました。

 

 

 

御神渡り(おみわたり) (2018年 3月更新分)

今冬は雪は多く降りませんでしたが寒さは厳しいものでした。

日本海側に大雪を降らせた寒気を伴った低気圧は山を越えて寒気だけが内陸に入ってきたからです。

1月~2月は夜-20℃前後に冷え込み、日中でも-15℃くらいでした。

自然雪は少なくてもスキー場はマシンでパウダースノーを作りますのでブランシュは早くから全面滑走が可能になりました。

ただこれだけ寒くなるとスキーは滑走面に摩擦熱による水が発生しなくなりますので滑りは悪くなります。

一方、この寒さで諏訪湖は全面凍結し、6年ぶりに〝御神渡り”が出来ました。

御神渡りは諏訪湖が全面結氷したとき膨張した氷が逃げ場がなくなり

割れて盛り上がる現象です。

この割れが諏訪大社の上社と対岸の下社を結んだとき御神渡りとなります。

御神渡りは上社の男神が下社の女神に会いに行く道として

古来から〝御柱祭”とともに諏訪大社の重要な神事になっています。

この御神渡りができるときはバキッ、バキッ、バキッ、ドーンと音を立てて割れるそうです。

これができると神主は氷の上でお神酒を捧げて神事を行い、氏子たちは喜びを分かち合います。

自然の驚異を謙虚に受けとめ、神秘性を感じる日本的な信仰だと思います。

 

 

日本の山と5,000m超の山との違い (2018年 2月更新分)

エベレストBC(カラパタール5,540m)とキリマンジャロ(5,895m)に登って

日本の山との違いを知らされました。

日本の山は富士山(3,776m)は別として、北アルプスなどの3,000m前後です。

登るときはゼーゼー、ハーハーと汗をかき、苦しいですが

頂上に到達すると達成感を感じ、パノラマを見ているとその美しさに感動します。

そしてまた来ようと思います。

それらの感受性は3,000mラインではまだ酸素量が多く、体力の回復も早く

脳も正常に働くからだと思います。

一方、5,000m超の山では酸素量が低地の半分以下になります。

1歩1歩ゆっくり登るのですが呼吸が苦しく体力の消耗が激しくなります。

〝もう下山しようか”と何度も弱気になりましたが、〝1歩登れば確実に頂上に1歩近づく”と

念じながら登りました。

そして頂上に着いたときはもう苦しいだけで達成感も感動もありませんでした。

〝もうこれ以上登らなくてもいいんだ、苦しさから解放される”というのが本音でした。

全身に酸素が十分に行き渡たらないので回復力も弱く

脳の働きも思考能力や感受性が減退するようです。

どちらの登山が楽しいかといえば、絶対に日本の山です。

にもかかわらず、また海外の山に登ろうとしている自分がよく分かりません。

じっくり考えてみたいと思います。

 

 

これほどの海鮮料理は・・・ (2017年 9月更新分)

アフリカ・タンザニアに行くため、先日”黄熱病”の予防ワクチンを打ちに新潟に行って来ました。

このワクチンは病院ではなく、横浜・名古屋・神戸などの港・空港の検疫所でしか打てないからです。

魚介類が大好きなセニョールは、”折角日本海側に行くのだから美味しい魚を食べよう”と前夜ネットで調べました。

そして、その店は大当たりでした。

新潟市中央卸売市場の中にある”中央食堂”という店です。

沢山あるメニューの中から、”鉄火丼”(930円)と”刺身の盛り合わせ”(750円)をオーダーしました。

丼には本マグロの赤身の厚切りが盛られ、新鮮でボリュームがありました。

お刺身は本マグロ、天然ブリ、スズキ、アジなどがこれも厚切りで山盛りでした。

東京築地場外でも美味しい海鮮丼を食べましたが、安くてそれ以上の美味しさでした。

セニョールは感激して、うれしくて嬉しくて、ボビーとセニョーラに電話しました。

「こんなに新鮮で美味しい本マグロは生まれて初めてだ。

この美味しさをボビーやセニョーラと分かち合いたくて電話した。

新潟に住んでいたら毎日でも通うんだけどなー。

こんな至福な時はない」

と、セニョールが注射のことは忘れて云うと

「日本海でも本マグロが揚がるから新潟では全部を築地に送らないで地元でも食べるんだね。

電話でいくら”美味しい、美味しい”と云われても分からないよ。

ボクも一緒に行きたかったなー」

と、ボビーは云いました。

手ぶらで帰って来たセニョールを見てセニョーラは

「おみやげのお寿司はないの?

注射は忘れないで打って来たでしょうね」

と、ブスッとしていました。

みなさんも新潟に行かれたらこの食堂で食べてみてください。

 

 

知らなかったーッ (2017年 8月更新分)

 

(エーデルワイス=ウスユキソウ)

皆さんは”エーデルワイス”という花を知っていますか。

♪ Edelweiss, Edelweiss, every morning you greet me♪

と、ミュージカル ”サウンド・オブ・ミュージック” の中でも歌われるヨーロッパ・アルプスに咲く花です。

白い粉を振りかけたような小さな花は、ドイツ語で ”高貴な白” という意味だそうです。

セニョールはこの花が欲しくて欲しくて、園芸店で取り寄せてもらい庭に植えました。

ところが先日、車山高原をトレッキングしていてこれによく似た花を見つけました。

写真を撮って、ネットで調べると”ウスユキソウ”(薄雪草)という花でした。

説明を読むと、なんとアルプスのエーデルワイスと同種という事でした。

「エーッ、日本にもエーデルワイスはあったのか。

アルプスに行かないと見れないと思っていたけど

案外身近なところで咲いているんだね。

山野草については相当勉強したつもりだけど、知らなかったなー」

と、これにはセニョールも驚きました。

「エーデルワイスの和名は”セイヨウウスユキソウ”(西洋薄雪草)と云うんだよ。

花言葉は ”大切な思い出” と云うんだって。

標高2000m~2900mで7月~8月に咲くんだよ」

と、ボビーが付け加えました。

 

 

7月は身体づくり (7月 更新分) 

アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロ山(5,895m)に登ることを決めました。

8月下旬から2週間の予定です。

もう航空券を取りましたので病気にならない限り決行です。

キリマンジャロは技術的にはそんなに難しくはありませんが

6,000m近い山ですので体力を必要とし、また高山病にもなり易い山です。

セニョールは昨年11月にエベレストBCエリア(5,540m)まで登って来ましたので

体力・高山病は何とかクリア出来るのではと思っています。

登山ルートやコースコンディションを頭に入れ、必要な装備も買い足しましたので

大体準備は出来ました。

あとは身体づくりです。

アチコチの山に登って足腰を鍛えるつもりです。

先日はレインウェアの防水性をチェックするため、敢えて土砂降りの中を歩きました。

防水性と通気性に優れたゴア・テックスのウェアは蒸れなくてマズマズでした。

お客さんがまだ少ない7月にしっかり身体づくりをして

忙しい8月は合間をみてのトレーニングになります。

高度順応のため富士山にも2度はトレーニングに行く予定です。

1度高山に登ると、人間の身体は3か月くらいはその高度を記憶して

高山病にかかり難いからです。

「『エベレストBCはつまらなかった、次はキリマンジャロだ』と云っていたけど

ホントに行くんだね。

でも、今回は現地人を6~7人連れての登山だから

ボクもセニョーラもちょっと安心だよ」

と、ボビーが云うと

「単独で登りたいけど1人では入山許可が出ないんだ。

タンザニアはキリマンジャロ登山やサファリの観光収入で成り立っている国だろう。

登山者1人に対して、ガイドを1人、コックを1人、ポーターを4~5人雇ってはじめて許可が下りるんだよ」

と、セニョールが云いました。

「フーン、じゃあ5人のグループだと35人~40人の行列になるんだね。

まるで大名行列だね」

と、ボビーが驚きました。

はてさて、どんな山行になることでしょう。

 

 

山菜採り (6月 更新分)  

姫木平も6月になると新緑が濃い緑に変わり春が終わります。

今年の春も山菜採りを十分楽しみました。

姫木で採れる山菜は、フキノトウ、タラの芽、ゼンマイ、コゴミ、コシアブラ、ワラビ、ヤマウド、ヤマブキなどです。

これらを天ぷら、おひたし、油イタメ煮などにして食べます。

山菜の王様といわれるタラの芽は心無い人が枝を折って採るので木が枯れ、あまり採れなくなりました。

そこでセニョール家では庭に自生するタラの木を大切に育てて採っています。

コシアブラも10年前に植え、やっと今年から採れるようになりました。

という風に庭で採って旬の味を楽しむのは、フキノトウ、タラの芽、コシアブラ、ヤマウド、ヤマブキです。

ゼンマイ、コゴミ、ワラビは山に採りに行きます。

これらはたくさん採れるアナ場を知っているので本当にたくさん採り、乾燥させたり、塩漬けにして保存します。

そしてお客さんにもご馳走します。

「セニョールは山に行くといつもスーパーの買い物袋にいっぱい採ってくるね。

セニョーラが掃除が大変だと云っているよ」

と、ボビーが云うと

「畑で栽培してるように群生しているんだよね。

先日もワラビ採りをしたんだけど、もう夢中になって両手で採ったよ」

と、セニョールが云いました。

「仙人面をしてても人間の欲がもろに出るね。

動物はお腹がいっぱいになると止めるけど、人間はため込もうとするから。

ほんの少しだけでも欲をコントロールできたら人間社会も良くなるんだけどね」

ボビーに云われてセニョールもちょっと反省しました。

 

 

春のある日の出来事 (2017年 5月更新分)

冬の間スキー三昧だったセニョールも雪が解けるとやっと仕事に目覚め、ガーデニングで動き回ります。

庭には枯葉や枝が散乱し、モグラがアチコチにトンネルを掘り、その荒れ方は半端ではありません。

一方、自然園ではフキノトウが芽を出し、フクジュソウが咲き、花壇ではクロッカスとスイセンが咲き始めていました。

セニョールは手を休めてこれらを愛で、春の平和を感じながら仕事をしていました。

すると突然「チッ、チッ、チーッ」と鳥の鋭い鳴き声がしました。

空を見上げると1羽の鳥が飛んで行き、何かが屋根にバーンと落ち、バウンドして庭に落ちました。

見るとキジバトでした。

打ち所が悪かったのか、もう死んで動きませんでした。

近くの枝にはカラスが1羽止まって「カー、カー」と鳴いていました。

キジバトをよく見ると翼の付け根から血が出ていました。

どうやらカラスに襲われたようです。

セニョールがウロウロしているのでカラスはどこかに飛んで行きました。

セニョールも“後で埋めてやろう”と一旦その場を離れました。

しばらくしてカラスが飛び立って行くのが“チラッ”と見えたのでその場に戻ってみると

羽だけが散らばって、キジバトはいませんでした。

カラスはセニョールより利口だね。

セニョールが居なくなるのをどこかで見ていて獲物を取りに戻って来るんだから。

キジバトさんは可哀そうだけどまだ早春で食べ物がないからみんな生きるのに一生懸命なんだね」

と、ボビーが云うと

「ウーン、してやられたな。

だけどね、愚直であるのも良いことだよ。

騙す”より“騙される”方がズーッと気持ちが楽だからね」

と、セニョールは宗教家のようなことを云っていました。

 

 

手長神社 ― 御柱祭 (2016年 10月更新分)

今年の諏訪地方は御柱祭が1年中続いています。

春は諏訪大社のお祭りで諏訪地方全体のお祭りでしたが

秋は各地にある神社、祠、道祖神などのお祭り(小宮の御柱祭)で賑わいます。

春とは異なり、小宮のお祭りはオラが地域のお祭りとしてそれぞれ特色を持っています。

セニョールは先日、上諏訪の山手にある『手長神社』の御柱祭に御呼ばれしました。

このお祭りは約100mの石段を「ヨイサッ、ヨイサッ」と引っ張り上げるこれまた奇祭です。

〝木遣り”や〝ラッパ隊”や〝引き綱の掛け声”を石段の中間にあるお宅で

聞きながら吞むお酒は格別でした。

「セニョールも長野に移り住んで20年になるから

色々な人間関係ができて御呼ばれされて良かったね」

と、ボビーが云うと

「そうだね、地域のお祭りに御呼ばれされるというのは有り難いことだね」

「話を聞くと、このお祭りもすごいね。他の御柱は坂を落としたり川を渡したりするのに

このお祭りは大木を引っ張り上げるんだから」

「ウン、春の御柱祭に匹敵するお祭りだったよ」

「御柱祭はどのお祭りも縄文のお祭りだね。

大木を引っ張り神に奉げるというのは文明では説明できないものね」

今年のセニョールは美味しいお酒を何度も吞んでいます。

 

 

元気になったボビー (9月 更新分)

実はこの1年、ボビーは歯槽膿漏で大変でした。

月に1~2度は歯茎が化膿し出血するので物が食べられませんでした。

セニョールも40代の頃、歯槽膿漏に随分悩まされましたので

痛くて食べられないのはよく分かります。

ドッグフードのカリカリは砕いて粉にし、牛乳を飲ませ、缶詰をペースト状にして食べさせましたが

あまり食べようとはしませんでした。

抜歯をすれば回復するのですが老犬なので医者も麻酔を怖がり

化膿止めの抗生剤を注射するくらいでした。

段々と痩せて衰弱し、立ってもふらふらし、時々貧血を起こして倒れました。

このままでは死んでしまうと思い、病院を変えて別の医者にかかりました。

するとその医者は助手にボビーを押さえさせ、口を開いて、歯を抜きました。

グラグラ動いていたのであまり痛くなかったのか「キャン」とも哭きませんでした。

それからは物が食べられるようになり、体重も戻り元気になりました。

「ボビー、良かったね、一時はもうダメかと思ったよ」

とセニョールが云うと、ボビーも

「ボクもフラフラして倒れるし、〝もう死ぬのかなー”と覚悟したんだよ。

でも、セニョールやセニョーラが物を食べやすいようにしてくれたり

病院を変えてくれたから助かったんだね、ありがとう」

「いやいや、ボビーは家族だから当然だよ。

ボビーが元気でないと家の中が明るくならないからね」

今は以前のようにセニョールの顔をペロペロと舐めに来ます。

元気になって本当に良かった。

 

 

ハングリー精神は自然界にも (8月 更新分)

当ヴィラの小さな自然園では今年もたくさんの山野草が咲いています。

草花を見ていると芽を出した環境によって同じ花でも強さが違うのを感じます。

特にカラマツソウやヤナギラン等にその傾向がよく見られます。

低草の陽当たりの良い場所に芽を出したこれらは背丈が1mくらいで花を付けます。

ところがレンゲツツジなど潅木の中の半日陰に芽を出したこれらは

太陽を求めてグングン伸び、潅木を突き抜けて上へ上へと伸びて行きます。

背が伸びると茎の太さも大きくなり、たくましい茎になります。

結局2mくらいに成長します。

「フーン、山野草が太陽を求める執念はスゴイね。

成長が倍半部になるんだから」

と、ボビーが云うとセニョールも

「その様だね。

温室育ちの人間とそうでない人間とではたくましさが違うように

草花も同じなんだな」

「そもそもハングリー精神は人間界だけでなくて自然界に存在し

これが生命力の源になっているんじゃあないの」

「アッ、そうか、進化とはそういうことなんだな」

長年山の中で生活していて気付いた事の一つです。

 

 

セニョール青春記 ≪無口な雄弁者≫ (7月 更新分)

今年も6月に寮OBが集い2晩大いに吞んで語りました。

卒業後50年経っても今だにこれだけ集まるのは

多感な若者が過ごした寮の時間を宝物のように思っているからです。

そして、よくこれだけしゃべれるなと驚くくらいよくしゃべります。

皆さん結婚して40年

家では無口なダンナ、無口なお父さんで通っているようですが

このOB会に集った途端、家で1年間相手にされなくて溜まりに溜まった話題を

堰を切ったように猛烈にしゃべり始めます。

まるで町会議員に立候補するかのように。

「〝女三人寄れば姦しい”と云うけど、男が20人も集まれば〝姦しい”どころか

〝大瀑布”のようだね」

と、ボビーが云うとセニョールが

「みんな普段無口な分、こういうときに猛烈に雄弁になるんだな。

家では虐げられてスネているだろうから。

だから

『美人薄命、私の妻は大丈夫』などと川柳を詠んで憂さを晴らしているんだ」

川柳は強い者に対する弱者の風刺文化だから

やっぱり家では粗大ゴミになっているんだね、かわいそうに!」

リタイヤーされた世の男性諸君にはよくお分かりのことと思います。

 

 

盛り上がる信州(その四) ― 御柱祭・上社建て御柱 ― (6月 更新分)

5月は御柱祭も最終イベントの〝里曳き”です。

4月に〝山出し”をした8本の御柱が前宮・本宮に曳行され、社殿の4隅に建てられる〝建て御柱”の神事です。

山出しは八ヶ岳の麓から山中・田園を曳き、木落し坂や宮川の川越えなどの難所をクリアするスぺクタルなイベントですが

里曳きは町中を曳きますので危険な個所もなくお祭りそのものです。

御柱の前を毛槍・ぞうり取り・傘持ち・長持ちなどの騎馬行列(大名行列)が練り、花笠踊りやどじょうすくいなどで盛り上げます。

そして振る舞い酒やお宿(休憩所)の接待などがあります。

一般的には木落しや川越えなどのスぺクタルなイベントに興味が向かいがちですが

やはり祭りのメインイベントは里曳きの建て御柱です。

山から曳き出されたモミの大木は建てられた瞬間に神になります。

このために氏子衆は6年間準備をし、汗を流して大木を曳っぱるのです。

「セニョールも山出しには参加したけど、里曳きはGWの期間中なのでいつも観れないね。

でも、今回は友達が集合し参加したから良かったよ」

と、セニョールが云うとボビーは

「そうだね、皆さん法被の威力に感動していたね。

このお祭りも全国区になって、混雑・混乱が予想されるから規制線を張り観光客は入場制限をされたんだけど

法被を着ていれば『さあー、どうぞ、どうぞ』と入れてもらえたらしいから」

「これも地元の悪友のお蔭だね。

みんな『頑張って次の御柱祭まで生き延びて参加しような』と言って歓んで帰っていったもんな。

セニョールも頑張って生き延びなきゃ、ボビーも頑張れよ」

ボビーとセニョールはお互いに励まし合いながら生きています。

 

※今回は上社の御柱祭について話しましたが、下社でも同じようにお祭りをしています。

諏訪地域ではこれからあちこちにある小宮の御柱祭が今年中続きます。

 

 

盛り上がる信州(その三) ― 御柱祭・上社木落し ― (5月 更新分)

4月3日に上社『本宮一』御柱の〝山出し”に飛び入りして来ました。

氏子にとって一番名誉な『本宮一』は、96年ぶりに豊田・四賀地区が抽選で当たり、大変な熱気の中で行われました。

山出しの見どころは〝木落し”です。

木落しは危険を伴うので法被を着た氏子以外は木落し坂に入れません。

セニョールはこの地区に悪友がいますので法被を借りて

間近に観ることができました。

まず坂の上に引っ張り出された御柱に向かい安全祈願の神事が行われ

木遣りが次々と唄われ、ラッパ隊が進軍ラッパで盛り上げます。

木遣りの歌詞は単純明快で

「はア~、氏子の皆さま~、お願いだ~♪」

「はア~、皆さんご無事で~、お願いだ~♪」

「はア~、力を合わせて~、お願いだ~♪」

などを唄います。

御柱がさらに引っ張り出され、木遣りに合わせて上下・左右に揺すられ

雰囲気を盛り上げ、いよいよ落とします。

上社の御柱にはメドデコといって丸太2本をV字形に取り付け、それに20人ぐらいが乗り

斜面を滑り落とします。

このV字が倒れないように落とすのが見せ場です。

土煙りを上げて落ちる様は、勇壮で、華やかで、緊張感に満ちたものでした。

「ボビー、大木も立派だったけど、3500人の氏子衆でゴッタ返していた。

これだけの人数の力ってすごいね。

セニョールなど綱を曳っぱるというより曳っぱられていたよ。

やはり『本宮一』は悲願だったんだね」

「フーン、形骸化したお祭りが多い中で

御柱祭は7年に一度だから気合いの入れようが違うんだね」

と、ボビーも云いました。

「聞くところによると、大総代(地区の最高責任者)になると諏訪大社への寄進や

6年間の氏子衆の寄合、慰労などで億のお金を使うらしいよ。

資産家でないととても引き受けられないね」

「フーン・・・、セニョールは貧乏人で良かったね」

トホホ・・・、ボビーが慰めてくれました。

 

 

盛り上がる信州 (その二) ・・・ 御柱祭 (4月 更新分)

今年の4月~5月は諏訪大社の7年に一度の祭礼・御柱祭があります。

セニョール一家が信州に移り住んで、もう4回目になります。

諏訪大社には上社と下社があり、上社には前宮と本宮が、下社には春宮と秋宮があり、計4宮のお祭りです。

それぞれの宮の社殿の四隅に御柱を建てますので氏子衆は16本の御柱を綱で曳いて運びます。

見どころは山の斜面から御柱を落とす『木落とし』、社殿に建てる『建て御柱』、上社の『川越し』などでしょう。

毎回けが人、ときには死人まで出る豪快なお祭りです。

これらの御柱はモミの木で、樹齢150年を超え、目の高さの幹回りが3mを越える大木です。

それぞれの宮で『一』から『四』の御柱が決められており

上社では『本宮一』の、下社では『秋宮一』の御柱が一番大きく

氏子衆は『一』の御柱を曳くことを一番の名誉としています。

上社の場合、どの御柱を曳くかは〝抽選”で決まるのでそれぞれの地区では〝くじ運”の強い人を抽選総代に選び、くじ引きをします。

(下社の場合、曳く御柱は地区で決まっています)

抽選総代になった人は重責を担っているので毎朝5時に宮に参り『本宮一』の御柱を引くよう祈願するそうです。

昔は抽選で『前宮四』の御柱(一番小さな柱)でも引こうものならその人の家には石が投げられたり

玄関先に墓石が置かれたそうです。

「今年は初めて上社の『木落し』と『川越し』を観に行くんだって」

と、ボビーが云いました。

「ウン、諏訪に友達がいて御柱の曳行に入れてくれるから大木を引っ張って来るよ。

諏訪大社は〝出雲の国譲り神話”に関係したお宮だから出雲文化圏で生まれ育ったセニョールには

この大祭に参加する資格が少しはあるかも知れないね」

と、セニョールが云いました。

「マアー、それはこじ付けだけど、次の御柱祭まで生きているかどうか分からないから

参加できるんなら楽しんでおいでよ。

祭りは参加しないと観てるだけでは面白ろくないもんね」

ということで4月3日の御柱祭に行って来ます。

次回はこの模様をお話ししましょう。

 

 

盛り上がる信州 (その一) ・・・ “真田丸” (3月 更新分)

今年の信州、特に上田と松代は大河ドラマ“真田丸”で盛り上がっています。

上田城は真田昌幸(幸村の父)が築城した難攻不落の城であり

松代城は真田信之(幸村の兄)が上田から国替えで領した城です。

関ヶ原の合戦では昌幸・幸村は西軍(石田方)に、信之は東軍(徳川方)に味方して

親子が戦いました。

昌幸・幸村は上田城に籠り、よく戦って関が原に向かう東軍(秀忠軍)を足止めにしましたが

西軍が敗れたので和歌山県・九度山に幽閉されました。

勝組の信之は松代に移封され、以後真田家は松代藩主として明治まで存続しました。

したがって松代の方が真田文化が色濃く残っていますが、上田は真田家興隆の地であり、

また武将幸村の人気が高いこともあって上田の方が真田人気が高いようです。

この幸村は大阪冬の陣、夏の陣で勇名を轟かせ、『日の本一の兵』(ひのもといちのつわもの)と家康に言わしめました。

「幸村は”赤備え”の甲冑軍団を率いて戦ったけど

セニョールも赤備えの甲冑を持っているよね」

と、ボビーが云いました。

「ウン、兜に立派なシカの角がついた甲冑を浜松のホテルで展示即売していたから気に入って買ったんだよ。

そのときは幸村というより尼子氏の武将・山中鹿之助のイメージで買ったんだけどね。

何といっても鹿之助は我が山陰の英雄だからね」

「セニョーラが怒っていたよね。

『こんなクズ鉄を何十万円も出して買って・・・、車の方がよほど役に立つのに』って」

「そうだったね、でも買ってしまったら勝ちだからね」

幸村の話がいつの間にか鹿之助に変わっていました。

 

 ※ 『真田幸村』という名は江戸時代に講談で語られこれが定着したものであり、正しくは『真田信繁』です。

 

 

ホントに暖冬?(2016年 2月更新分)

12月、あちこちでサクラが、ブルーベリーが、シャクナゲが咲いたなどと開花報道がされ

今冬は暖冬と云われていましたが本当でしょうか。

 ここ姫木平でも12月、1月と雪が降りませんでした。

が、気温は連日マイナスでスキー場は人工降雪機で雪を降らせゲレンデを整備しました。

-10℃~-15℃の世界に居るととても暖冬とは思えません。

元々このエリアは晴天率が80%と高いので雪は残りの20%で降っていました。

12~1月は好天続きで晴天率がほぼ100%でしたから雪の降りようがありません。

そして1月中旬、やっと大雪が降り冬らしくなりました。

「今年の冬の入りは1ヶ月遅れたんじゃあない?

里は暖かかったかも知れないけど、姫木平では暖冬の実感がないよね」

と、ボビーが云いました。

「そうだね、今年のサクラは1ヶ月遅れて5月ごろになるかも知れないね」

と、セニョールも云いました。

「あのとき中央道が不通になったけど

あれだけ今冬最大の寒波が来る、関東・甲信は大雪になると予報が出されていても

後手後手になるんだから」

「事前の対応準備が出来ていれば通行止めになるほどの大雪ではなかったのに

道路公団もお粗末な話だね」

いずれにしてもスキー場には十分に雪がありますのでスノースポーツを楽しめます。

 

 

火の用心、カチカチ (2016年 1月更新分)

年末になると消防車が”カンカン、カンカン”と鐘を鳴らしながら町内を巡回します。

この鐘の音を聞くとなんか懐かしい気持ちになります。

 ”なぜだろう”と考えていて、フッと子供の頃を思い出しました。

 冬休みになると子供たちが5~6人のグループに分かれて

 「火の用心、カチカチ、マッチ1本火事の元、カチカチ」と拍子木を打ちながら町内を夜回りしました。

 今でもそういう風景が見られる地域があるかどうかは知りませんが。

 そのあとに続けて何か掛け声があった記憶があり、セニョーラと一生懸命思い起こしました。

 そして思い出しました。

 「秋刀魚焼いても家焼くな、カチカチ」でした。

 この七五調の掛け声がなんとも心地よい響きでした。

 そしてもっと他に掛け声がなかったかとネットで調べましたら

 「ネコは蹴ってもコタツは蹴るな」というのもありました。

 ボビーは「 『ネコは蹴っても・・・・』でよかった。

 『 イヌは蹴っても・・・・ 』と云われたら安心して寝てられないもんね」と、云いました。

 「昔は”ネコゴタツ”というのがあったから或いはその語呂合わせだったかも知れないね」

 と、セニョールは云いました。

 「“火の用心”の由来って知ってる?

 家康の家臣で本田重次という武将が戦場から妻に『 一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ 』と送った手紙が元なんだって。

 この手紙は”日本一短い手紙”としても有名なんだよ」

 「へー、知らなかった、ボビーは日本史にも詳しいんだね」

 寒い師走の原風景でした。

 

※ネコゴタツ

 コタツ櫓の中に火鉢を入れたコタツ

 

 

寮OB会・後日談 (2015年 12月更新分)

 ある年ルームを清掃していて備付けのドライヤーが無いのに気が付きました。

 あちこち探しましたが見つかりません。

 〝誰かがイタズラで持ち帰ったのかな”と思い、新しく買いなおしました。

 それから1年、OB会で悪友が集まったときK君が「オイ、すまん、去年これを持ち帰っていた」と云ってドライヤーを出しました。

 これにはセニョールもアキレて

 「オイ、それならそれで電話の1本くらいくれてもいいだろう、今は宅急便もあるし。おかげで一つ買ったんだぞ」と、苦情を云いました。

 ボビーもアキレて「セニョールの友達は本当に悪友だね。

 でも、1年後に持って来るんだからかわいいけどね」と、云いました。

 「しかしなんでアイツが持って帰ったんだろう。

 バーコードをさらに消しゴムで消したような薄い頭でドライヤーなど必要ないはずだが。

 火傷をするだろうに」

 「そうだね、一応身だしなみだと思って熱くても我慢してかけてるんじゃあないの。

 ミスマッチもいいとこだね。

 セニョールの友達はみんな世の中の常識が通用しないんだよな。

 もう70歳になろうというのに夜遅くまで酒を吞んで騒ぐし」

 「毎年集まって騒ぐ〝カラ元気”があるだけでも良いことだよ。

 みんな長生きしそうだから、まだ当分続くぞ」

 と、いうようなこともありました。

 

 

セニョール青春記 ≪猛毒を吞んだ男≫ (11月 更新分)

 今年の寮OB会は10月下旬に開かれました。

 みんなリタイヤーしてヒマを持て余しているので年々参加者が増え23人でした。

 今年の垂れ幕のメッセージは 『一塵の人生、されど悪友多し』 でした。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以前話しましたが、セニョールは卒業後2年間、寮の2部屋を占拠し不法滞在していました。

 その当時写真専門学校に通い報道写真を勉強していましたので、1部屋をフィルムの現像や写真焼付けなどの写真室として使っていました。

 そして炊事場にある共同の冷蔵庫に写真に必要な溶液を入れていました。

 あるとき後輩のG君が青い顔をして飛んで来ました。

 「先輩、冷蔵庫の”猛毒、飲むな”と書いてある容器の液体を水と間違えて飲んでしまいました、大丈夫でしょうか」と。

 「なにッ! あの溶液を飲んだか、猛毒と書いてあるだろう、エライことになった」

 G君は泣きそうな顔で「どうすればいいでしょう」

 「どうするもこうするもないだろう、もう手遅れだ。

 どうだ、喉が焼けるように痛いだろう。」

 「はい、焼けるようです、アッ胃がキリキリ痛くなりました。

 先輩なんとかしてください」

 G君は脂汗を流しながら必死でした。

 「醤油を水で半分薄めて飲めば毒消しになると聞いたことがあるな」

 G君はあちこちの部屋を探し回って醤油を吞みました。

 「そうか、飲んだか、じゃあ後は静かにして寝ていろ。

 明日の朝目が覚めたらよし、覚めなかったら諦めろ」

 そしてあくる朝

 「先輩、目が覚めました、もう大丈夫でしょうか」

 G君は充血した目で不安そうに言いました。

 「昨夜はあまり寝てないようだな。

 まあー、大丈夫だろう。

 実はあの液体はただの酢酸で猛毒ではない」

 「エーッ、毒ではなかったんですか。

 ヒドイ、ヒドイ、先輩、ひど過ぎますよ。

 醤油まで飲ませて」

 G君は緊張感から解放されて、ヘタヘタッと座り込みました。

 余程死の恐怖に脅えていたのでしょう。

 「セニョール、イタズラが過ぎるよ、かわいそうに。

 しかしG君も余程混乱していたんだね、普通ならすぐ病院に行くハズだけど。

 セニョールのすることは昔も今も無茶苦茶だね」と、ボビーが云うと

 「アー、常識的に生きることほど退屈なものはないからな。

 しかし猛毒と書いてあるものをよく飲んだな、当時は貧乏学生でみんな飢えていたからなあ」

 セニョールは愉快そうに当時を振り返っていました。

 

 

中秋の名月 (10月 更新分)

 今年の中秋の名月は9月27日でした。

 旧暦の8月15日(15夜)のお月さんです。

 30年ぶりに近くの山にお月見に行きました。

 酒を呑むときのセニョールは半端ではありません。

 この日のために松華堂弁当箱を購入し、刺身、から揚げ、だし巻き、煮物などの肴を盛り、卓上コンロを持参し、お湯を沸かしお酒を燗してぐい飲みで呑みました。

 雲の流れでお月さんが見えては隠れ、隠れては顔を出しました。

 近くではシカが「ピュー、ピュー」と啼いていました。

 なかなか風情のある酒宴でした。

 もう寒くなったのでお家で留守番していたボビーは「ボクも行きたかったなア。だって中秋の名月というといつも雨が降ってなかなか観れなかったもの」

「雲がなくて煌々と照る名月もいいが、ちょっと傲慢なんだよな。

 明日からは欠け始めるのだから見え隠れする方が謙虚でいいかもね」

 「セニョール、違うよ。中秋の名月は必ずしも満月ではないんだよ、特に今年は翌28日が満月なんだから。

 だからお月さんもちょっと恥ずかしくて気を使っていたかも知れないね。」

 「エーッ、そうか、ボビーはすごいことを知ってるね」

 「来年はボクも一緒に行くからね」

 今や旧暦での数少ない歳時なので大切にしたいものです。

 

 

 2年ぶりの月下美人 (9月 更新分)

8月28日の夜、月下美人が咲きました。

夏の間、風通しのよいテラスに置いていましたが

ツボミがだんだんと膨らんできたので〝そろそろかな”と思い

家の中に入れた途端に咲きました。

昨年は花芽が二つ付きましたが途中で芽が落ち、結局花が見られませんでした。 

今年も花芽が二つ付きましたが一つが落ちたので残りの一芽を大切に育てました。

花にも生存競争がありますので全部咲かせるのは難しいようです。

「2年ぶりに咲いたね。

満月の夜に咲くというから電球の明るさに勘違いしたのかな」

と、ボビーが云うと

「そうかも知れないね。

一度、笑む (エむ)ところを見たいのだがなかなか見れないね。

いつも 『アッ、咲いてるッ!』 だもんね」

セニョールはちょっと残念そうに云いました。

月下美人は年に一度一晩だけ咲く貴重な花なので

セニョールは冬には暖房ケースに入れて

箱入り娘を育てるように大事に育てています。

来年こそ”笑む”ところを見たいものです。

 

※ 「笑む (エむ)」

花のツボミや熟れた栗のイガやアケビなどがパカッと割れて口を開く”様”をいいます。

「咲む(エむ)」 とも書きます。

なかなか良い言葉ですね。

 

 

大遭難 (8月 更新分)

また暑い夏がやって来ました。

夏が来るといつもあの最悪の事故を想い出します。

もう20年も前になりますが、セニョールはカヌーで川下りを楽しんでいました。

京都の木津川、高知の四万十川、鳥取の日野川、信州の湖など夏にはカヌー遊びをしました。

このカヌーは二人乗りでいつもセニョーラとボビーも乗せていました。

それは天竜川を川下りしたときのことです。

急流に突入したら目の前にテトラポットがありました。

避けられずこれに激突、ボートは真っ二つに割れ、セニョールもセニョーラもボビーも急流に投げ出されました。

急流に吞み込まれ、もんどりうって流されているとき川底が見えました。

やっとこさ岩にしがみついてセニョーラを見るとボビーをしっかり抱いて流されていました。

川には急流と淀みが交互にあります。

セニョールは淀みで何とか岸にたどり着きましたが、セニョーラとボビーは次の急流に向かって流されていました。

助けに行く体力がなくなったセニョールは〝これはもうダメだ”と思いました。

プライドをかなぐり捨てて近くでアユ釣りをしている人に「助けてやってくれー」と叫びました。

その声を聞き、その人は「さあー、この竿につかまりなさい」と言ってセニョーラとボビーを助けてくれました。

お金も車のキーも免許証もカメラも所持品・荷物はすべて失いましたが、命だけは拾いました。

「これほど怖い思いをしたことはないよ。

本当に死んじゃうかと思った、よく助かったもんだ。

セニョール、アドベンチャーが過ぎるよ」と、ボビーは恐怖におびえた目で云いました。

「ごめん、ごめん、こんな思いをさせてしまって・・・、天竜川を甘く見たセニョールが悪かった」セニョールは痛切に責任を感じ、謝りました。

あれ以来、ボビーもセニョーラもカヌー遊びを拒絶しました。

北アルプスやヨーロッパのモン・ブランなど山岳登山では遭難したことのないセニョールでしたが、天竜川では人生最大の遭難事故を起こしました。

 

≪ 川下りの鉄則 ≫

ボートに乗っていると目線が低いので淀みでは急流の状況が見えません。

したがって急流に突入する手前で一旦岸に上がり

状況を把握してから突入するのが鉄則です。

言い訳ですが、その時は両岸が岩壁で岸に上がることができなかったが為に起こした事故でした。

 

 

四十肩(五十肩) (7月 更新分)

セニョールは最近、四十肩に悩まされました。

四十肩は元々は〝五十肩”と云われ50代に多くみられた原因不明の肩痛ですが

近年は40代で症状が出る人が多くなったので〝四十肩”とも云われるようになりました。

この症状が出ると腕を上げたり回したりすると肩に激痛が走ります。

原因が分かりませんので治療の方法がありません。

ジーッと静かに生活をして〝日にち薬”で治すよりほかありません。

治るのに半年から1年かかる人もいるようです。

セニョールは幸い2か月で治りましたが

週3日居合の稽古をしていますので刀を振ると激痛が走りました。

それでも道場にだけは通い、精進しました。

「セニョール、早く治って良かったね」と、ボビーが云うと

「刀を振るときだけはつらかったな。

しかし、69歳にして初めて四十肩になった。

ということは身体年齢がやっと40代になったということかな」と、セニョールが云いました。

「まさか・・・、マアー、精神年齢は40代かも知れないけど」。

人前では胸を張って歩いているセニョールもちょっと陰に入るとヨタヨタッとよたっていました。

「ほら、よたってるじゃあない」とボビーが云うと、「いいや、二日酔いだ」と、突っ張っていました。

相変わらずカラ元気だけは旺盛です。

 

 

とうとう、携帯 (6月 更新分)

セニョールは最近、とうとう携帯電話を持ち始めました。

〝携帯は持たない、不便を楽しむんだ”と頑固に突っ張っていましたが

そうも言っておれなくなりました。

きっかけは車のトラブルでした。

JAFに連絡しよう、ディーラーに連絡しようと思っても周りに公衆電話がありません。

その時はなんとか車をごまかしながら自走してディーラーまで辿り着きましたが。

今や駅やショッピングセンターなど人がたくさん集まり何かと連絡を取りたい場所にも公衆電話はありません。

ひどい世の中になったものです。

やはりまだ拒絶反応があるのか電話がかかって来ても気づかないことが多いです。

この前など携帯がブルブル震えるので何事かと思ったらあれはマナーモードらしいです。

バッテリーが火を噴くのかと思いました。

セニョーラは「携帯を持たせてもちっとも役に立たない」とブツブツ言っています。

「セニョール、世の中から30年遅れているよ。

今は携帯どころかスマホの時代だよ」と、ボビーが云いました。

「首から紐でぶら下げているのをよく見かけるが、どうも不恰好でイヤだ。

〝不便ということは自由”ということで、〝便利ということは何かに支配されている”ということだよ」

と、セニョールはまたウンチクを云っていました。

 

 

2度目の春 (5月 更新分)

3月末でリフトが止まると、セニョール一家は例年のごとく鳥取県に帰りました。

実家で1週間休養し、今回は四国を回って帰って来ました。

〝しまなみ海道”で瀬戸内海を渡り、松山、宇和島、高知、観音寺を回りました。

どこに行っても桜、さくら・・・サクラが満開で春を満喫しました。

それから1か月・・・

陽光が少し強まり、フクジュソウが咲き始め、姫木平にもやっと春が来ました。

雪が解けてまず最初に咲くのはフクジュソウです、次にスイセン、その次にレンギョウ。

春咲く花はタンポポ、ヤマブキなども含め黄色が多いようです。

そして今、山里では桜が満開です。

あと1週間もすれば姫木平でも咲くでしょう

「セニョール、2度目の春だね。

やっぱり春は生命力に満ちていていいなア」

と、ボビーが薫風に毛をなびかせながら気持ち良さそうに云いました。

「69年生きて来たと思うとマアマアの時間を生きたなという気もするが

桜の花をたった69回しか観ていないと思うと大した時間でもないような気がする。

だから1年に2度桜を観ると2年分生きたようで得した気分になるな。」

「フーン、そういう見方もあるんだね。

ボクも大分歳を取ったけど、セニョールも元気で長生きしようね」

最近ちょっとヨタヨタしているボビーに励まされ、ボビーとセニョールはハイタッチしました。

 

※四国一口メモ

土佐佐賀ではカツオのタタキを食べました。

目の前で、藁で焼いてくれたタタキは絶品でした。

車なのでお酒を吞めなかったのは残念でしたが・・・。

観音寺で食べた〝さぬきうどん”も最高に美味しかったです。

松山城は櫓が多く残っていて景観がすばらしいお城でした。

旅の面白さはその土地その土地の風土と歴史だと思います。

 

  

この冬の雪 (4月 更新分)

スキーシーズンも終わり春を迎える準備が始まりました。

この冬の雪をみて昨年までと違った点がありました。

南岸低気圧の影響が強かったせいか今までに無かった大雪が続きました。

昨年までは良質のパウダースノーが降っていましたから

一晩に15cmも積もれば大雪でした。

パウダースノーは小麦粉のような雪なのであまり積もりません。

乾いた軽い雪ですから竹ぼうきで掃けば飛んでいきます。

スキー場は乾いたパウダースノーでは圧雪・整備ができないので

昼間水を噴霧し湿らせてゲレンデ整備をしていました。

今年はちょっと湿った雪でしたから一晩に40cm~50cm積もりました。

新潟方面はもっと湿った雪ですから一晩に1m~2mも積もりますが。

こんなことは無かったことです。

スキー場はちょうど整備しやすい雪質なので、ゲレンデ・コンディションは最高に仕上がりお客さんも喜んでいました。

「セニョール、今年は雪かきが大変だったね」と、ボビーが云いました。

「ウン、駐車場は別として、テラスや玄関回りなど一度も雪かきをしない年もあったが今年は何回もしたもんな。

それに大雪と厳寒で水道管が破裂する、屋根が壊れて雨漏りするなどのトラブルが続きちょっと気疲れしたよ」

と、セニョールが云いました。

「そうだね、トラブル対応でスキーをする時間があまりなかったもんね。

これからは湿気をおびた雪が今年以上に大雪をもたらすだろうからトラブルが起きないように大雪対策を考えないと・・・」

「ウン、来年は雪囲いをもっと強固にするなどの対策をして安心してスキーをバンバンするぞッ!」

ということで今年はあまり雪焼けをしませんでした。

 

 

梅の節句 (3月 更新分)

今日、3月3日はひな祭り(桃の節句)です。

子供の頃、2人の姉のお雛さまを手伝って飾り、紅白の菱餅やよもぎ餅を食べて

お祝いをしたのを懐かしく思い出します。

が、暦が新暦に変わってから矛盾が起きました。

ひな祭りは、昔は旧暦の3月3日にお祝いをしていました。

その日は新暦でいうと3月末から4月の初め頃です。

桃の花はその頃咲きますのでひな壇に桃を飾り、それで桃の節句といいました。

ところが世界に合わせて新暦に変わりそれが定着すると新暦の3月3日に祝うようになりました。

時代の流れで仕方ありませんが一つ困った問題があります。

この頃は桃の花はまだ咲かないで梅の花が咲く頃です。

「新暦でお祝いをしてもいいけど、〝桃の節句”というのは止めて〝梅の節句”に変えるべきじゃあないかな」と、セニョールが云いました。

「セニョール、そんな理屈を云ったら趣きがなくなっちゃうよ。今までどおり桃の節句でいいんじゃあない」と、ボビーが云いました。

「ウーン、だけどね、季節感に敏感な日本語が新暦と旧暦の中でおかしくなっているんだよな。

例えば、〝五月晴れ”は新暦の5月の晴れ間ではなくて

6月梅雨の合間の気持ちの良い晴れ間をいうんだよな。

7月7日の七夕祭りも新暦では梅雨の真っ最中で天の川も織姫星・牽牛星も見れないが

旧暦の七夕祭りは新暦では8月下旬になるから天の川や織姫・牽牛が楽しめるんだよ。

唯一、〝中秋の名月”だけは旧暦の満月だから変えようがないが・・・」

「それはそうだけど・・・・、ムニャムニャムニャ・・・」

ボビーは久しぶりに歯切れが悪くなりました。

 

 

森の訪問者 (2月 更新分)

今冬は昨12月から大雪が続き、スキー場のコンディションは最高です。

 当ヴィラのフィールドの積雪量も例年以上になっています。

 これくらい降ると森の動物たちも食べ物が無くて大変だろうと思います。

 昨冬はカモシカがペンション村によく出回り、そして越冬できず5頭が死にました。

 今冬はシカがたくさんペンション村に出回っています。

 立派な角を付けた雄ジカや可愛い子ジカがグループで歩いています。

 お客さんもスキーの行き返りにシカが見れて喜んでいます。

 シカはモミの木やイチイの木の葉を食べていますが、背が届かなくなると木の皮を食べます。

 その意味ではカモシカよりシカの方が生命力が強いかも知れません。

 「木の皮を食べられると枯れるから困るけど、シカも越冬するのに必死だから仕方ないよね」と、ボビーが云いました。

 「そうだね、動物も植物も自然の生態系の中で生きているのだから木が枯れるからダメだとは云えないよな」と、セニョールも云いました。

 「そうだよ、人間だって生きて行くために動植物を食べているんだからシカがどうのこうのと云う資格はないと思うよ」

 姫木平ではみんながシカやカモシカに危害を加えないで共存しています。

 ですからシカも昼間から安心して食べ物を求めて歩いています。

 姫木平に来るとあなたもシカに出会えるでしょう。

 

 

 お酒から解放 (2015年1月 更新分)

12月、1月はお酒を呑む機会が多い月です。

 セニョールは30代のときから毎晩晩酌をしていました。

 ペンションを始めるまでは、ディベロップという非常に緊張感のある仕事をしていたので夜遅く帰っても仕事のことが頭から離れず中々寝付かれなかったり、夜中に目が覚めるとその事で寝れなくなりました。

 〝これでは身体がダメになる”と思いお酒を吞んで寝ると、グッスリ眠れるようになりました。

 それで晩酌をするのが習慣になり、また楽しみになり、また義務にもなりました。

 ところが先日血液検査で肝臓機能に異常な数値が出、精密検査を受けました。

 結果は異常なしでしたが、それ以来休肝日を週2日設けることにしました。

 最初は苦痛でしたがそのうち慣れて逆にお酒の呪縛から解放された気持ちになりました。

 山に来てからはどこに行くにも車ですから飲酒運転ができず外食をしなくなりました。

 お酒なしの夕食は考えられなかったからです。

 今はお酒なしで外食をして気分よく帰って来ます。

 「セニョール、一大決心だったね」

 と、ボビーが云いました。

 「ウン、タバコは止めても、晩酌は止めないつもりだったけどそろそろ身体のことを考えることにしたよ」

 「そうだよ、寝たきりになったら人生の喜びが半減するからね」

 「伊達政宗の詩に,『少年馬上に過ぎ 世平らかにして白髪多し  残躯天の許す処 楽しまずんば之如何にせん』と云うのがあるが、まさにこの心境だよ」

 セニョールは、スキーに、居合に、囲碁に、せっせと励んでいます。

 

 

「まだよ、まだ、まだ」 (12月 更新分)

姫木平も朝晩はグッと冷え込みマイナス気温になりました。

 雪が降るのは時間の問題ですが、その代わりに10センチくらいの霜柱ができます。

 霜柱は地中の水分が凍って土を持ち上げる現象です。

 平地では水分が地下に浸透しますのであまり見られませんが、山地は地形が傾斜していますので水分がその傾斜に沿って流れ

 この現象がよく見られます。

 朝、目覚めると顔と耳で〝冷気”どころか、〝冷凍気”を感じます。

 そうなると温かい布団から中々抜け出せません。

 セニョールの布団に潜り込んで寝ているボビーも明るくなるとゴソゴソ動き回り、前足でセニョールの頭を掻いて「セニョール、起きようよ」と催促します。

 寒くて布団から出たくないセニョールは「ボビー、まだよ、まだ、まだ」と云います。

 この言葉はボビーも理解していて、起きるのをあきらめてコテンと横になりまた寝ます。

 が、しばらくすると「もう、起きようよ」とまた頭を掻きます。

 セニョールはまた「まだよ、まだ、まだ」と云います。

 これを何回か繰り返した後、意を決して起き上がるとボビーは身体全体を躍らせて喜びます。

 そして、「流行語大賞が取れないかなア」と云いました。

 冬のセニョール家の1日はこの光景から始まります。

 

 

 雲  海 (11月 更新分)

 10月になると朝晩冷え込み、雲海がよく発生します。

 雲海は夜低気圧が通過し湿度が高まり、一方で放射冷却によって冷え込んだとき空気中の水分が霧になり発生します。

 この辺では大河原峠の谷間に浮かぶ雲海が見事で特にこの時期は雲海に浮かぶ紅葉がすばらしいです。

 また諏訪盆地では諏訪湖の水蒸気が霧になり、広大な雲海になります。

 先日諏訪の街に下りて行くとき眼下に雲海が広がっていました。

 おかしなもので姫木平は雲一つない日本晴れなのに街に下りるとドンヨリと曇っています。

 街の人たちは「今日は曇り空だね」と云っていました。

 「セニョール、水蒸気の塊りには三つの呼び方があるのを知ってる?」

 と、ボビーが云いました。

 「なんだ? それは」

 「空を見上げて浮かんでいるのは〝雲”でしょう」

 「そうだね、誰でも知ってるよ」

 「その雲の中に入ると〝霧”で、それを上から見下ろすと〝雲海”になるんだよ」

 「アッ、そうか、なるほど」

 山の中の生活は何もなく退屈そうに思えますが

 色々な自然現象や変化が見られ、都会にはない感動があります。

 

 

ボビーは偉いッ!(10月 更新分)

最近気づいたことですが、ボビーは偉いと思います。

 何が偉いかというと、人間の言葉を必死に理解しようとし、コミュニケーションをとろうとしていることです。

 セニョールやセニョーラが何かを話しかけると、ジーッと目を見つめ何を云っているのかを必死に理解しようとしています。

 その繰り返しで少しづつ理解し、コミュニケーションがとれるようになりました。

 犬には人間の3歳くらいの知能が有るといわれていますが簡単な言葉は理解するようになりました。

 まず自分の名前を覚え、やって良い事・悪い事など「よしよし」、「ダメ」で理解し、

 食事や散歩やお遊びなど呼びかけると身体全体で反応して喜びます。

 ところが、人間は最初から犬の言葉は解らないと決めつけ、理解しようとしません。

 セニョールたちもそうです。

 「ボビーは偉いね。人間の言葉を少しづつ覚えて、理解していくんだから」

 「そんなの当り前じゃん。お互いが理解し合おうという姿勢がなかったらトラブルが起こるじゃあない。最近の人間社会では理不尽なことが目立つよね。民間機が撃墜されたり、A国やF国が空爆を再開したり、その報復で民間人が殺害されたり、日本でも日常生活の中で一杯あるよ。

 哀しくなっちゃうよね」

 「そうだね。日々を〝生きていくだけ食べる”という最低限の欲で生きているボビーと違って人間は〝欲”の固まりで生きているから平気で理不尽な事でもするんだよな。

 人間は欲で進化してきたけれど、結局は欲で不幸になるんだね」

 「そのことが分かる人間がもっと増えないと人間社会は崩壊しちゃうよ」と、ボビーは云いました。

 ボビーは偉いッ!

 

 

諏訪湖の花火 (9月 更新分)

先日諏訪湖の花火を初めて見ました。

諏訪湖では7月下旬から9月第1週まで毎晩花火を打ち上げます。

一番のイベントは8月15日の花火大会です。

全国的にも有名な花火で4万発を打ち上げますので、50万人の人出で賑わいます。

車で市内に入ると終わってから渋滞・停滞し市内を脱出するのに真夜中までかかります。

ですからお客さんには「茅野駅から上諏訪まで一駅電車で行き、絶対車で市内に入らないように」と助言します。

この大会はお盆の真っ最中なのでセニョールたちは見に行くことができません。

次のイベントは9月第一土曜日の新作花火大会です。

この大会では全国の花火師が腕を競って新作を打ち上げ、審査員が順位をつけます。

これも30万人の人出になります。

セニョールたちが見に行ったのはその翌日(日曜日)の最終日です。

なんでもこの夏に仕込んだ花火の残りを全部打ち上げると聞き、見に行きました。

 「ボビーも一緒に行くかい?」と、セニョールが聞くと「ボクはお留守番をしている、花火はこわいから」と、しり込みしました。

ボビーのトラウマは花火とカミナリです。

湖畔に行ってみるとどこも車で溢れ返って、止めるところがありません。

会場近くではとても見ることができないので下諏訪の方まで行き、見ました。

ちょっと遠景でしたがさすがは諏訪湖の花火です。

ボンボン打ち上げ、見事なものでした。

周りに人も少なく遠景の花火を静かに見ていると、夏の終わりを感じました。

サアー、これから秋を楽しみます。

 

 

東北旅行(その二) ― 難解な岩手弁 (8月 更新分)

今回の旅行で行ってみたい所の一つが遠野でした。

 遠野は民俗学者:柳田国男が「遠野物語」を発表して以来、〝民話のふるさと”として有名になりました。

 山の中の山村かと思っていましたが意外と開けた小盆地で遠野南部藩12500石の城下町でもありました。

 遠野では〝南部曲り屋”といって、L字型の茅葺家根の家に馬屋があり人と馬が一緒に暮らす家屋も見どころです。

 あちこちにある曲り屋を見て、本命の民話語り部館に行きました。

 品の良いおばあちゃんが民話を4題語ってくれました。

ところが聞いていて岩手弁が全然解りません。

河童が馬にイタズラをしてとっちめられるお話しは少し知っていましたので想像しながら部分的に聞き取れましたが、他の民話は外国語を聞いているようで全然解りませんでした。

 が、イントネーションが柔らかく、聞いていて心地の良い方言でした。

 「日本語も北の東北弁と南の鹿児島弁は全然解らないな。

 今は標準語が行き渡っているのでコミュニケーションが取れるが江戸の昔、参勤交代で全国の大名が集められた江戸城内では

 あちこちの方言が飛び交い、あたかも多民族国家の様だっただろうな」と、セニョールが云いました。

 「でも江戸城の中では江戸弁を勉強して話していたんじゃあないかな。

 どの藩でも江戸詰めの藩士がいたから多少訛っても江戸弁を話していたと思うよ」

 「そうかも知れないね。

 が、もっと昔の坂上田村麻呂の蝦夷征討の時などは通訳がいたかも知れないね」

 いずれにしても遠野の民話はたくさんあるので「遠野物語」を買って読書中です。

 

 

東北旅行(その一) ・・・ 奇跡の一本松 (7月 更新分)

先日、シーズンオフを利用して東北地方を9日間旅行してきました。

 今回の旅では名所・旧跡の他に、震災後の復興状況にも関心があったので松島、大船渡、陸前高田に行きました。

松島や大船渡の沿岸部は比較的被害が少なかったように見えました。

 松島ではメガネ状の洞窟が壊れ二つの島になるなど点在する島々に被害があったようです。

 気仙川河口で13.8mの津波に襲われた高田はひどかったです。

 沿岸部はもちろん市街地も内陸部の農地も壊滅状態でした。

 死者・行方不明者は約1800人にのぼったそうです(合掌)。

 二度と悲惨な被害を出さないようにと、約13メートルの防潮堤の建設や市街地のかさ上げのために山を削って巨大コンベヤー(総延長約3キロ、幅約1.8m)でどんどん土を運んでいました。

ダンプで運べば10年くらいかかるところ、来春には土砂搬入が終わるそうです。

 工事車両が行き交う中、肩身の狭い思いをしながら『奇跡の一本松』を見に行きました。

 約7万本の松原で一本だけ残ったのはまさに奇跡です。

 が、塩害で枯れ死が確認されたので防腐処理を施し心棒を入れて復興のシンボルとして保存されたのは皆さんもご存じだと思います。

近くの全壊したユースホステルも震災遺構として保存されるそうです。

その現場に立つとやはり心が痛みました、涙が出そうになりました。

駐車場で海産物を売っていましたので、ささやかですが復興協力にと近所のお土産を色々と買いました。

若い人たちも買っていました。

 が、観光バスで来た団体さんは2~3人が立ち寄っただけでさっさとバスに乗り込み出発しました。

 「〝買わないからどうの”とは云えないが、ちょっと残念な光景を見たな」とセニョールが云うと、ボビーも怒ったような目をしていました。

 1日も早い復興をお祈りします。

 気仙沼や釜石や宮古には行かなかったので、分かりません。

 

 

クツの失敗談!(6月 更新分)

セニョールは子供の頃からクツをあまり履かず、草履や下駄を履いていました。

 その方が足が締め付けられず、風通しも良くて心地よいからです。

 が、さすがに社会人になるとそうはいきません。

 会社にはクツで行きましたが、一旦家に帰ると下駄やサンダルで動き回っていました。

 デパートやスーパーに行くときもサンダル、私的に新幹線に乗るときもサンダルでした。

 山に引っ越した今は大手を振ってサンダルです。

 最近ちょっと改まった飲み会があり久しぶりにクツを履いて行きました。

 帰るとき玄関に並べられた30足のクツを見て、どれが自分のクツか分からずパニックに陥りました。

 それらしいモノを何足か履いてみましたがしっくりといきません。

 結局最後まで残り、余ったクツを履きました。

 ピッタリと足に合いました。

 

 また、修学旅行生を受け入れたときのことです。

 夜遊びに出ないように時々玄関のクツを数えて監視します。

 あるとき1足多いのです。

 そこで生徒を全員集め、自分のクツをそれぞれに持たせました。

 やはり1足余りました。

 「誰か他の宿から遊びに来ているのか?」と質しますが「イエ、誰も来ていません」と、云います。

 トイレや風呂に隠れていないかと探しますが誰も居ません。

 残ったクツをよく見るとどうも見覚えがありました。

 履いてみるとピッタリ合いました。

 「よーし、誰も来ていないようだから、皆さんもう休んでいいよ」とその場は誤魔化しましたが冷や汗ものです。

 「セニョール、今は〝平成”の世の中だよ。

 江戸時代や明治じゃあないんだからクツぐらい履いてよね。

 いつもペタペタッとサンダルだから恥ずかしくて一緒に歩けないよ」と、ボビーが云いました。

 「クツは嫌いだ、あれを履くと何かに束縛されているようでイヤだ。

 人間、足元から自由にならないと良い発想が生まれない」

 セニョールはなにか訳の分からないことを云っていました。

 

 

滅びの美学 (5月 更新分)

長野県には中山道のほか北国街道や甲州街道があり、宿場町がたくさんあります。

 馬籠宿、妻籠宿、奈良井宿、海野宿などはその代表で

 江戸時代の佇まいを今に残しています。

 昨秋、或る宿場町の本陣を見学に行きました。

 広い敷地に昔のままの屋敷が残り、山水の庭園が広がっていました。

 その本陣は80代のおばあちゃんが一人で守っていて、訪れた客を案内し色々と説明していました。

 皇女和の宮が休息した上段の間、参勤交代の大名、中でも面白かったのは公家が泊まった時和歌を詠み宿代の代わりに

 その短冊を置いていったという話です。

 武士の世においても公家は特権階級だったようです。

 ところで本陣ともなると田舎では名家であり、有力者であり、格式が高いので時代が変わると気位が邪魔して時流についていけないようです。

明治期に広い敷地を分割してもらった分家はそこに〝温泉旅館”を建て、随分繁盛したようです。

 また道路向かいにある脇本陣は建物を改修して〝甘味処”を営業し流行っていました。

 「結局、本陣一族は家柄とか格式に縛られて時代に添った生き方ができず段々と寂れていくんだね」と、ボビーが云いました。

 「そうだね、新しい時代に即応していくには殻を破って飛び出さないといけないのにそれができないから滅びていくしかないだろう。〝滅びの美学”だな」と、セニョールが云いました。

 何かにしがみついて必死に守ろうとしているおばあちゃんの姿にどこか哀しさを感じました。

 

※ おばあちゃんに悪いので何処の本陣かは伏せます。

 

 

 

越冬できなかったカモシカ (4月 更新分)

 この冬は12月から随分冷え込み、2月には観測史上例を見ない大雪になりました。

 この大雪と寒さでカモシカが4頭死にました。

 カモシカは性格がおとなしく、人間を怖がらないのでペンション村によく出没します。

 特にこの冬は食べ物がなかったのでしょう、モミの木やイチイの木の葉を食べに当ヴィラ周辺に来て、駐車場の陽だまりでよく昼寝をしていました。

 近所の人やお客さんもカモシカを囲んで可愛がっていました。

 が、昼寝と見えたのは実は衰弱していて動く元気がなくなっていたのかも知れません。

 翌日見るとうずくまって死んでいました。

 「カモシカさん、かわいそうだね。散歩のときボクも近づいて行ったけど少しも怖くなかったよ。やさしい目でジーッと見て、その眼は微笑んでいたよ」と、ボビーが悲しそうに云いました。

 「そうだね、かわいそうだったね。森にエサがないので、キャベツや白菜をきざんでやったんだけどあまり食べなかったね。

 やっぱり人間の食べ物より森の方が美味しいのかな。よほどお腹が空いていたんだね。動物は言葉をしゃべらないから、余計に切ないね」と、セニョールも悲しそうに云いました。

 ・・・・・・・・・・・・・・・

 少し暖かくなった最近、元気なカモシカを1頭見かけました。

 「生き残ったカモシカもいるからこれからまた赤ちゃんが生まれるだろう」

 と、少し明るい気持ちになりました。

 

 

斜めから見たオリンピック (3月 更新分)

 やはりオリンピックには色々なドラマがあり、感動がありました。

 それを敢えて斜めから見て世評とは違ったコメントをしましょう。

 フィギュアの羽生の金メダルは立派でした、セニョールも感動しました。

 が、一つだけ残念なことがありました。

 それは演技が終わってチャンの点数をモニターで見て1位が決まったとき

 「Oh  my  God !」(オー、神よ!)と喜びを表現しました。

 この言葉は、英語圏のクリスチャンが喜び・悲しみ・残念さ・悲惨さなどを表す感情表現で日本人が安易に表現する言葉ではないと思います。

 むしろ日本語で「あー、良かった!」と云った方が自然な喜び方で良かったと思います。

 葛西も41歳にして銀メダルは立派でした、その努力たるや並大抵なことではなく、頭が下がります。

 が見方を変えれば、もっと若い人がどんどん出て来て「葛西さん、ご苦労様でした」という環境にならないと金メダルは取れないでしょう。

 よく街頭でインタビューを受けた人が「元気をもらいました」と云っています。

 が、その“元気”は大部分の人にとっては一過性のもので、すぐ忘れてしまうモノです。

 むしろ素直に「感動しました」と云う方が本当の言葉だと思います。

 「セニョールこそ意地悪ばかり云わないで素直に喜んだら」と、ボビーが云いました。

 「ウーン、別の見方もあるよということを云いたかったんだが・・・」

 よし、では最後に真央ちゃんもメダルは取れませんでしたが立派でした。

 ショートではボロボロに失敗しましたが、フリーではほぼ完ぺきな演技だったので終了時のあの涙は燃焼し切った涙でしょう。

 彼女も満足して引退できると思います。

 

≪ 番外でもう一つ ≫

 サッカーのワールドカップなど国際試合で試合終了後、よく選手同士がシャツを脱いで交換しています。

 セニョールは「あんな汗をかいたシャツをよく交換するな、オレはいらん」

 と、文句を云っています。

 

 

言葉あそび (2月 更新分)

 言葉あそびの一つに回文というのがあります。

 文章を前から読んでも後ろから読んでも同じ文章になるというものです。

 例えば、「みがかぬかがみ」(磨かぬ鏡)とか「たけやぶやけた」(竹藪焼けた)などがあります。

 もっと複雑になると、五・七・五・七・七の和歌に

 「なかきよの とをのねむりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな」

 (長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)

 などがあります。

 これは日本語だけのあそびかと思っていましたがそうではありませんでした。

 イタリア・ヴェスヴィオ火山の噴火で西暦79年に埋没したヘルクラネウムの街の遺跡に「Sator  Arepo  Tenet  Opera  Rotas」というのがあるそうです。

 また、英語でも「Madam,  I'm  Adam」などがあります。

 「ふーん、洋の東西を問わず似たような文化があるんだね」と、ボビーが云いました。

 「そのようだね、まだ日本人が文字を持たない頃に古代ローマでは言葉あそびをしていたんだね」と、セニョールが云いました。

 「ユーモアを持った人間は世界中にいるんだから、イスラム世界やインド・中国にもあるかもね」と、ボビーも云いました。

 ちなみに、正月2日の夜上記の和歌と七福神の絵を枕の下に入れて眠ると良い初夢が見られるそうです。

 

 

 オリンピック・イヤー (2014年 1月 更新分)

今年は冬季オリンピック・イヤーです。

各種目の選考会が開かれる中、やはり一番の関心はフィギュアスケートでしょう。

 最終選考を兼ねた全日本選手権で、男子は羽生、町田、高橋が女子は浅田、鈴木、村上が選ばれました。

 女子は順当なところでしょうが男子は意見の分かれるところかも知れません。

 三位の小塚ではなく五位の高橋が選ばれたからです。

 高橋はケガからの復調が完全ではなく随分と失敗が多かったからです。

 「でも、高橋が選ばれて良かったね」と、ボビーが云いました。

 「そうだね,小塚も頑張ったから残念だろうけど高橋も二ヶ月先の本番までに復調すればやはり安定感があるからな」と、セニョールも云いました。

 「失敗しながらもあの必死で滑っている姿には感動したもんね。やっぱり彼の世界一のステップをもう一度桧舞台で見たいよ」

 「何事も必死になっている姿は純粋で美しい。

 とかく要領のいい人間がはびこる世の中だが愚直な人間ほどすばらしいモノを持っているんだよ。

 おっと、話がそれた」

 「男子も女子もメダルを意識しないで必死にやれば結果が付いてくるだろうね」

 ということで本番を楽しみにしましょう。

 

 

 冬支度 (12月 更新分)

 姫木平は雪こそまだ積もってはいませんが連日マイナス気温で土は凍り付いています。

 スキー場はマシンで雪を降らせていますので、7日(土)には予定通りオープンできそうです。

 こうなると急ピッチで冬支度をしなければなりません。

 今年は大小の花壇を25個作り、球根や宿根草をたくさん植えましたので、上手に冬越しさせて来年きれいに咲かさなければいけません。

耐寒性の強いボタン、シャクヤク、チューリップ、バラ、フロックスなどなどを植えていますので大丈夫かも知れませんが、まだ十分に根を張っていないので念のため敷きワラをかぶせ、不織布で覆いました。

 「サー、これだけすれば大丈夫だろう。来年はきれいに咲くぞ」と、セニョールが白い息を吐きながら云いました。

 「そうだね、カバーをしているのでイノシシも球根を掘らないだろうし。あとは来年芽を出したときにシカに食べられないようにしないと、グスンッ!」と、ボビーは鼻水を出しながら云いました。

 「ウン、来年はしっかりとネットを張ってシカ対策を強化しよう。

 今年はずい分食べられたからな」

 シカも自然の一部なので花壇は囲いますが散歩には来るようにしたいと思います。

 シカを害獣指定し駆除が叫ばれていますが、もっての外です。

 

 

あれッ、咲いてるッ!(11月 更新分)

昨年、買った“月下美人”が咲きました。

10月の3連休にお客さんとお酒を吞んで午前3時頃「さー、そろそろ寝ましょうか」と片付けながらふっと見ると咲いていました。

「あれッ、咲いてるッ!」

急いでセニョーラを起こし、ライトをあてて写真を撮ったりひと騒ぎしました。

「月下美人は満月の夜、一夜だけ咲くという珍しい花だから咲きそうになったらご近所も呼んで『今咲くか、今咲くか』と取り囲んで観賞会を開くつもりだったのに」と、セニョールが残念がりました。

「寒さに弱いから冬枯らしてはいけないと温室を買ったり、電熱を入れたり、この1年間ずいぶん手間暇をかけたんだぞ。

もっとドラマチックに咲くかと思ったのに・・・、“咲いてる”ではつまらん、何の感動もないじゃあないか」と、グチりました。

「だいたい、お酒なんか吞んでるからダメなんだよ。ボクはツボミが膨らんで来たから今日か明日かと思っていたよ」と、ボビーが云いました。

そして朝には萎んでしまいました。

本当に一夜だけの花でした。

来年こそは感動的に見ようと今から気を引き締めています。

“その緊張感が1年先まで続くかな”とボビーは怪しんでいます。

 

 

クリの木は3度、大騒ぎ!(10月 更新分)

夏が終わり、姫木平は秋本番です。

朝晩は冷え込み、空にはうろこ雲が流れ、ススキは揺れています。

この季節になるとヤマブドウやゴミシなどの木の実がたくさん採れますので食前酒の材料採りに山に入ります。

そしてフィールドではクリの実がバラバラ落ちます。

夏には木洩れ日が差し、心地の良い空間を作りますがこのクリの木がなかなか大変なのです。

クリの木は7月に長さ10センチ、直径8ミリくらいの棒状の白い花を大量につけます。

これが散ると大量のゴミになりますから掻き集めて燃やします。

そして9月には実がたくさん出来ます。

今度はイガと実が大量に落ちます。

これをまた掃き集めてパンパン・バチバチと燃やします。

そして11月、黄葉が終わると大量の枯葉が落ちます。

またまた、掻き集めて燃やします。

この3度の作業が半端ではないのです。

「ボクはクリは苦手だな。花や落ち葉は毛に絡まってなかなか取れないし、イガや実を燃やすと、パンパン弾けて怖いんだよね」と、ボビーが云いました。

「でも夏に気持ちの良い木陰を作ってくれるんだからガマンしろよ。

セニョールが3度大騒ぎする方がもっと大変なんだから」

ボビーのトラウマは、雷、花火、クリです。

 

 

これがキュウリかッ!(9月 更新分)

今年は庭に花壇を作りお客さんが園芸を楽しめるようにガーデニングをしていますが

そのついでにちょこッと一坪菜園も作ってみました。

セニョールは以前、村の畑を借りて本格的に野菜作りをした事があります。

その経験を生かしてキュウリとトマトの苗を植えました。

ところが5月に植えた苗が2か月経っても大きくなりません。

やっと8月の下旬に50センチになりました。

そして花を付け実がなり始めました。

が、この実もなかなか大きくなりません。

結局、キュウリは直径5ミリ、長さ5センチ、トマトは直径1センチのものを収穫しました。

「これがキュウリかッ!、これがトマトかッ!、これじゃあ、ピクルスにもサラダにもならん」と、セニョールはガッカリしました。

「実モノはもっと里に下りないとここでは寒くて無理なんだよ。来年はパセリ、アシタバなどの葉モノがいいんじゃあないの」と、ボビーが云いました。

「ウーン、そのようだな。だけど実になろうという努力は感じるな」と、いいながらセニョールはキュウリをポリッと一口で食べました。

食べながら、野菜の一所懸命さを感じました。

 

 

豊かな感性?、あれこれ (8月 更新分)

(その1) ここ姫木平は標高が高く(1500メートル)、空気が澄み星が満天に輝いているのが見えます。

これを見た子供が「ワー、ホタルがいっぱいッ!」と、云いました。

純粋な子供のすばらしい感性です。

(その2) フィールドに作ったレンガの丸い花壇を子供が見て「ワー、ケーキみたいッ!」これも現物にとらわれないすばらしい感性です。

(その3) 先日、定期診察で病院に行きました。腕にできた赤い斑点を見たお医者さんが「アー、点滴の痕ですか」

と、云いました。

「イイエ、これは虫刺されの痕です」と、セニョールが云うと

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

黙っていました。

ちょっとプライドを傷つけたようでしたが、さすがプロの見方は違うと思いました。

(その4) 出発前の子供が云いました。

セニョールは、若い頃はイケメンだったでしょう」と。

この子は洞察力の鋭いスゴイ子供だと思いました。

「将来が楽しみだね」と何度も何度も頭を撫でてあげました。

(その5) セニョールは子供のころ、“台風一過”を“台風一家”と思っていました。

「ふーん、台風も親子で来るんだ」

なんとも可愛らしい子供でした。

 

 

セニョール青春記 ≪寮を追い出されたセニョール≫ (7月 更新分)

今年も悪友達がやって来ました。

今年の幟は『人生に必然なし、偶然を大切に!』でした。

偶然に生き永らえている命を大切にしようという意味です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

セニョールは3年生のとき寮を出て、洛北の旧家で門構えのある家の離れを借りました。

6帖・床の間つきで、トイレ、縁側があり、庭先の桜の古木が見事で風流な隠居部屋でした。

その下宿が気に入ったので卒業後も住まい、アルバイトをしながら写真学校に通っていました。

ところがある夜セニョールの留守中に悪友が集まり、飲めや唄えやの大騒ぎ、挙句の果ては近所の学生と石を投げあう大喧嘩をしました。

あまりの無法ぶりにヒンシュクを買い、結局その下宿を追い出されました。

行先のないセニョールは寮に舞い戻り、2年間2部屋を占拠しました。

もう学生ではないので寮費など払わず快適に過ごしました。

あるとき寮長がやって来て言いました。

「先輩、申し訳ありませんがそろそろ寮も卒業していただけませんか。寮の秩序が乱れますので」と。

後輩から懇願されるとイヤとは言えないのでまたまた寮を出ました。

「出たというより追い出されたんじゃあない。

卒業はした、2部屋も占拠する、寮費は払わない、盗食はする、無茶苦茶だよ」と、ボビーが云いました。

「ウーン、だけど部屋は空いていたし、OBだからいいと思ったんだけどな」と、セニョールが云いました。

そして4畳半の粗末な屋根裏部屋に引っ越しました。

若いころのセニョールには安住の地がありませんでした。

 

 

1年を思うなら・・・・ (6月 更新分)

この春セニョールは園芸種のガーデニングに嵌まりました。

勿論、オープン時から芝生のフィールド造りと山野草の自然園造りに力を入れて来ましたが、今回は園芸種のガーデニングです。

日当たりの良い場所にレンガやブロックで花壇を造り、宿根草の花を色々植えました。

毎日庭を眺めて、花の背丈と色や咲く時期を考えながらどの位置に何を植えるかを設計していると結構面白く、時間を忘れます。

「どうして急に園芸種に凝りだしたの?」と、ボビーが聞きました。

「テラスを広くしたのでテラス・ガーデンを造り始めたら構想がテラスをはみ出て庭にまで広がって行ったんだよ。

チョットしたきっかけでドンドン膨らんで行くから人間って面白いね」

「じゃあ木も植えて花を咲かせないと」

「いいや、木はもう植えない。

『1年を思うなら“花”を育て、10年を思うなら“木”を育て、100年を思うなら“人”を育て』という言葉があるだろう。

もうこの歳になれば花で十分だよ」

華やかな花を植えても、セニョールは枯れてきているようです。

 

 

 ローソクの消し方 (5月 更新分)

私事ですが先日帰省したとき父の17回忌の法要をして来ました。

 お寺でお経を上げてもらい、お墓にお参りするだけの略式でした。

 教本を見ながら「マカハンニャーハーラーミータ・・・」と〝般若心経”を唱えると、意味は分かりませんが何となく心が洗われた気持ちになりますから不思議です。

 納経が終わり、お坊さんが祭壇のローソクの灯を消しました。

 この消し方がなかなか粋でした。

 バースデイ・ケーキなどのローソクは口で強く吹いて消しますが

 仏法ではなぜか吹いて消してはいけません。

 このことは無信心のセニョールでも知っていましたので仏壇のローソクは手のひらで扇いで消していました。

 多分、俗界と仏界とを分ける聖なる火を俗人の息で

 汚してはいけないということでしょう。

 お坊さんは指先でスッとつまんで消しました。

 その消し方は何とも敬虔で気品すらありました。

 感心したことは何でもやってみないと気の済まないセニョールは家に帰って早速ローソクに火をつけ指先でつまみました。

 「アツッ、アツ、アツッ」と、あまりの熱さに手を引っ込めました。

 「当り前じゃーない、火をつまめば熱いに決まってるよ、バカだなー」と、ボビーが笑いながら云いました。

 見ると指先に水膨れができていました。

 「あれは炎をつまむんじゃーなくて、芯をつまんで消すんだよ。プロの技を素人がまねして出来るわけがないじゃない」

 「フーン、なるほど、よしッ、練習してプロになろう」

 ヒマなセニョールにまたもう一つ課題ができました。

 熱いですから皆さんはまねしない方がよいと思います。

 

 

 人生は偶然なり (4月 更新分)

 スキーシーズンが終わり、4月になるとセニョール家の1年が始まります。

 姫木平はまだ早春で、木々の芽吹きもまだまだですがチチチッ、チチチッとシジュウガラが飛び交い始め、命の芽吹きを感じます。

 最近、自分が生きていることに不思議を感じることがあります。

 不幸にして阪神・東北の大震災や大津波で亡くなった人、トンネル事故で亡くなった人、通事故や飛行機事故で亡くなった人、今生きているのはたまたまそこに居なかっただけのことです。

 この世に生れ出たこと、山陰で育ち、京都に出、大阪で仕事をし、今信州の山の中で生きていること、また多くの人に出会ったことこれら全てが、偶然です。

 人生に必然などないのです。

 「ボクがセニョール家に貰われたのも偶然だよね」と、ボビーが云いました。

 「そうだね、ボビーと一緒に楽しい時間を過ごしているのも偶然なんだよ。いずれ病気かなにかで死ぬだろうけど、これも偶然だよ」

 であるならば、この偶然の命を大切にしたいと思います。

 「よーし、また1年生き抜くぞ」と、毛吹きの頭に手をやり、天に向かって大きく背伸びしました。

 

 

 まだ見捨てられていない昭和人間 (3月 更新分)

 セニョールは最近、スキーウェアを買換えました。

 あるブランドのニューモデルが気に入りその気になりましたが一つ問題がありました。

 メーカー発表の股下寸法がセニョールの寸法より5センチ長いのです。

 ネットショップでの購入なので試着ができず随分迷いました。

 外国製品も検討しましたがこれはもっと長く、ルーズソックスのようになります。

 「平成人間はそんなに足が長いのか。短足の昭和人間に合うパンツは今や無いのか」と、セニョールは嘆きました。

 もうどうにもならんと思い、〝エイ、ヤー″とヤケになって買いました。

 ウェアが届き着てみました。

 ぴったりと合いました。

 「ボビー、ボビー、大変だ、足が伸びたぞ。

 セニョールはまだ成長してるぞ」と、ボビーに云いました。

 「そんなバカな、全体が伸びないのに足だけ伸びるなんてあり得ないよ。その分、首が縮まったの」

 「だけど股下がぴったりなんだ」

 「そんなバカな、試しにパンツの寸法を測ってごらんよ」

 測ってみると短足のセニョールの寸法でした。

 「なーんだ、足が伸びたんじゃあないのか。

 それにしてもメーカー発表の寸法はなんだ。どれだけ悩んだことか」と、セニョールはがっかりしました。

 「多分、昭和人間用のパンツもまだ作ってるんじゃあないの」

 昭和人間も〝生きた化石″とか、〝生きたミイラ″とか陰口を言われていますがまだ見捨てられてはいないようです。

 

 

 厳冬を生き延びるリス (2月 更新分)

 今冬はよく雪が降ります。

 森の動物たちはどうしているでしょうか。

 冬毛でまるまるとなったキツネ、タヌキ、シカ、カモシカなどが食べ物を探しているのによく出会います。

 先日、リスがテラスに積もった雪の上をちょろちょろしているのを見ました。

 テラスから降りて行ったので、ボビーとソーッと覗いてみると下の木小屋に入って行きました。

 「ひょっとして、木小屋を棲み処にしてるんじゃあない」と、ボビーが云いました。

 「そうかもね、食べ物がないだろうから何か差し入れてやろうか」と、セニョールはビールのつまみのナッツや柿のタネを皿に入れて置きました。

 翌日覗いてみましたが食べた形跡がありません。

 「ウーン、棲み処にしてないのかな。ここだと雪も無いし、暖かいのにな」

 「ホラ、秋にセッセと栗の実を運んでいたじゃない。あの実をどこかに蓄えて、冬の食糧にしていると思うよ。心配しなくても厳しい冬を乗り越える知恵は持っているよ」

 「そうだな、人間もお金だけに頼らないで自然の物を保存しなきゃあな」

 昨秋は2度目の干し柿作りをし、今度は柔らかくて美味しいものができました。

 

 

セニョールの恋 (2013年 1月 更新分)

 セニョールは年甲斐もなく恋をしました。

 かってこれほどの美人に出会ったことはありませんでした。

 一目惚れです。

 「セニョール、いい加減にしてよ、何歳だと思ってるの」と、ボビーが険しい表情で云いました。

 「幾つになっても恋は恋だ。死ぬまで現役でいいじゃあないか」と、セニョールもカラ元気を出して突っ張りました。

 「どうしてそんなことになったの?」

 「先日、ある人に誘われてその美人に会ったんだ。

 月の光の中で、真っ白で、清楚で、気品に満ち、ちょっとでも触れると壊れそうな、そんな“はかなさ”を感じさせるんだ。

 「セニョーラも一緒に惚れしたから、いいじゃあないか」

 「エーッ?????、セニョールが惚れたのは一体何なの?」

 「“月下美人”という花だよ。

 何でもメキシコ原産のクジャクシャボテンの一種で、満月の夜に一夜しか咲かないらしい。

 あまりにもはかなく、あまりにも哀しい花だから、惚れてしまったよ」

 思い込んだら命がけのセニョールは、ネットで探して買いました。

 そして“いま咲くか、いま咲くか”と毎晩見つめています。

 「いくら一夜花でもツボミもないのに咲くわけないじゃあない。夏まで待たないと・・・、バカだなー!」と、ボビーは眠そうに云いました。

 

(月下美人)

※本当に一夜だけ咲き、朝には萎みます

閉所恐怖症 (12月 更新分)

セニョールは先日“MRI”の精密検査を受けました。

この検査を申し込むと事前説明で必ず「閉所恐怖症は大丈夫ですか?」と聞かれます。

多分みんな「大丈夫です」と答えると思います。

セニョールもそう答えました。

検査日、小さな寝台に乗せられ、土管のような円筒形の検査機の中に入れられました。

検査中、“ゴー、ガッチャン、ガッチャン、ブー、ガッチャン、ガッチャン”と工事騒音のようなうるさい音がしました。

“何をしてるだろう”と気になり目を開けました。

すると近すぎて焦点が合わず、中の様子が見えませんでした。

しばらくの間、目をパチクリしていると段々と焦点が合ってきました。

すると身体一つがやっと入る、身動きできない空間に押し込まれたことが分かりました。

急に不安感に襲われました。

「恐怖感まではいかなかったが、強い不安感に襲われたな。棺桶に閉じ込められたような、脱出不可能な、そんな感じだった。人によっては恐怖感に襲われるだろうな」とセニョールが云うと、ボビーが「フーン、やっぱり情緒不安定になるんだね。普段そんなに狭い、閉塞感のある空間に入ったことがないから閉所恐怖症を問われても実感が湧かず『 大丈夫です 』 と答えるんだね」

「やっぱり病院では何をされても目を開けないことだな。ろくなことがない」

「セニョールは以前 『 麻酔に勝つんだ 』 と云って痛いおもいをしたことがあるでしょう。

そんなバカなことはしないで、おとなしくしていればいいんだよ」

病院ではあまり逆らわない方がいいようです。

 

 

大丈夫かなー (その2) (11 月 更 新 分)

(卵を抱くキジバト)

10月に入っても親鳥は卵を抱いていました。

毎朝、遠くからソーッと巣を見るのがセニョールの日課になっていました。

あるお昼どき、親鳥がいません。

“どうしたのかな、エサでも食べに出かけたのかな”と、思っていると夕方には巣に戻っていました。

それから3~4日留守勝ちになり、とうとう巣に戻って来なくなりました。

“寒くなってきたから諦めたのかな”と思って梯子をかけて巣を覗くと雛が1羽すでに15cmくらいに育って羽も生えていました(成鳥は25cmくらい)。

「ボビー、ボビー、雛が孵ってるぞ」と、セニョールが云うと

「ホントー? アーよかった。でも全然気づかなかったね、普通、雛が孵るとピーピー鳴くし、親鳥がエサを運ぶから分かるんだけどね」と、ボビーが云いました。

カメラを近づけると警戒して胸を膨らませ、威嚇しました。

ちゃんと防衛本能を身に付けていました。

それからは刺激しないように天体望遠鏡で観察を続けましたが親鳥がエサを運んで来るのを一度も見ませんでした。

でも、日に日に大きくなっているので気付かないところでエサをもらっているのでしょう。

親鳥が消えて10日くらい経ったある朝、雛が巣から出て50センチくらい離れた枝で空をジーッと見ていました。

それから1メートル、1.5メートルと少しづつ離れて空を見つめていました。

「巣立ちの練習をしているのかな」と、ボビー。

お昼を過ぎてもやっぱり枝に止まって遠くを見ていました。

そして、3時頃見ると姿が見えません。

セニョールは巣の周りを探しましたがいません。

翌朝も巣の中は空っぽでした。

「巣立ちしたんだね。元気に巣立って行ったから良かったけど、ちょっと寂しいね」

「ウン、そうだな。でも来年 『 ボビー、遊ぼうよ 』 って、また来るよ」と、いうことで無事巣立ちました。

 

 

大丈夫かなー (10月 更新分)

久しぶりに、フィールドの樹に鳥が巣を作りました。

9月の始め頃、“キジバトがヤケに啼いているな”と思ったら一羽が小枝を運び、一羽がそれを積み重ね、巣を作り始めました。

通常この辺では6月頃に巣を作り夏に向けて育てるので“冬篭りの準備かな”と思っていましたが、そのうち抱卵をし始めました。

毎朝、巡回のついでにソーッと覗いてみると木彫りの鳥のように巣の中でジーッと固まっています。

でも一向に雛が孵る様子がありません。

「もう抱き始めて3週間になるのにまだ孵らないよ。台風が来たり、日に日に寒くなっていくのに、大丈夫かなー」と、ボビーは心配そうに云いました。

「大きな葉っぱの陰に上手に作っているから冷たい雨が降っても大丈夫だが、気温が下がって来たのでなかなか雛に孵らないようだな」

「早く孵って巣立ちしないともう直ぐ初雪が降るよ。雪が降り出したら雛に孵っても凍死しちゃうよ」と、ボビーも気が気ではありません。

早く孵り、巣立ちして、暖かい里山に下りて育てばいいなとボビーもセニョールも心配しています。

 

 

退屈しない山の中 (9月 更新分)

(ベンケイソウ)

(ヤマシャクヤク)


当ヴィラの自然園ではたくさんの山野草が咲きます。

山野草は園芸種の花と違い、咲いている日数が短いので賑やかに咲かせることがなかなかできません。

それだけに片隅でひっそりと咲き出したときは見逃さないで楽しみます。

セニョールはお客さんからよく聞かれます。

「こんな何もない山の中で、退屈しませんか」と。

全然、しません。

四季の移ろいを目の前で見て、年々の違いを見つけて楽しみます。

また、毎朝フィールドを一回りして山野草や木々の成長具合・変化をチェックします。

一番の楽しみは、今まで咲いていなかった花を見つけたときです。

メタカラコウ、キバナアキギリ、ウバユリ、ベンケイソウ、ヤマシャクヤクなどなど・・・。

特に絶滅危惧種のベンケイソウやヤマシャクヤクなどが咲き出したときには感動しました。

「どうして急に咲き出したんだろう」と、ボビーが云いました。

「多分、小鳥が種を運んで来たんだろうな」と、セニョールが答えました。

フーン、鳥が花の実を食べて、それが糞となってどこかに落ちてそこにまた花が咲く、自然の生態系も“輪廻転生”なんだね」

ボビーも歳をとって、仏教に興味を持ち出したようです。

 

 

ビールを100倍うまく呑む方法 (8月 更新分)

ビールがおいしい季節になりました。

セニョールは、お腹が膨らむのであまり好んでビールを呑みませんが、ノドが渇いたときはグ・グ・グーッと呑みます。

今日はビールを100倍おいしく呑む方法をお話しします。

まず、力仕事でもいい、スポーツでもいい、汗を思い切りかいて

身体を脱水状態にしてから呑むことです。

中途半端ではダメです。

セニョールは若い頃、北アルプスによく登りました。

槍ヶ岳から上高地まで槍沢を下れば1日かかります。

ある夏の暑い日、あえて水を一滴も飲まずに下山しました。

汗をかくだけかき、口の中はカラカラに乾き、唾液はもう出なくなりました。

それでも水を呑みませんでした。

もうフラフラになって上高地に着くや、真っ先にレストランに駆け込みビールを注文しました。

大ジョッキーが来ました。

それを一気に飲み干しました。

もう何がなんだか分かりませんでした。

ただ、刺激物がノドをド・ド・ドーッと通過して行く感じでした。

2杯目を頼み、グイグイ呑みました。

やっと “ ビールを呑んでいるな ” と実感しました。

「よくそんな無茶ができたね。いまなら確実に熱中症になるよ」と、ボビーが云いました。

「そうだね、若かったからできたんだね。でも、あのときのビールは最高にうまかったな。やはり自分を極限まで追い込んだときに最高のご褒美が貰えるんだな」と、セニョールは誇らしそうに云いました。

「何が極限なのッ!、もっと価値のあることにエネルギーを投入すればいいのに。ホントにバカなんだから」と、ボビーはしらけていました。

 

 

セニョール青春記  ≪八坂神社でゴロ寝≫ (7月 更新分)

今年の寮OB会は山ガールの突然の参加もあり例年とはちょっと違って華やかさがあり、皆さん満足して帰って行きました。

・・・・・・・・・・・・・

以前、『金が無くても酒は呑める』で寮生のモノを“質”に入れて酒を呑み回ったことを話しましたが、今回は酒を呑んだ後のことを話しましょう。

酒を呑み終わると当然帰る方法を考えます。

寮の後輩に「金が無くなったからタクシー代を持って来てくれ」と電話しました。

大体は金を集めて迎えに来てくれるのですが、たまに「金が集まらない」と云って迎えに来ないときがありました。

そうなると大変です。

気候の良いときは寮まで2時間かけて歩いて帰りましたが、冬の寒いときなどは歩いて帰る気になりません。

一度、八坂神社の境内でゴロ寝をしたことがありました。

石畳は氷のように冷たく、背中がゾクゾク冷えてとても寝れませんでしたが、“一番電車が来るまでは・・・”と、ガマンしていました。

当時の京都は市電が縦横に走り、市民の足になっていました。

まだ暗い朝5時半ごろ一番電車がゴトゴトと来ました。

寒い冬の早朝ですから、乗客は一人も乗っていません。

「金を持っていないけど乗せてもらえないか」と運転手に頼むと、「ガラガラだからマアーいいでしょう」と乗せてくれました。

このときは何とか電車を乗り継いで帰りましたが、身体が冷えきって酔いはどこかに飛んで行ってしまいました。

「フーン、デタラメが通用する大らかな時代だったんだね。金が無くても生きて行けるわけだ。ボク達イヌネコと同じだねと、ボビーは親近感を持って云いました。

 

 

森の目覚め (6月 更新分)

この時期になると森は急に忙しくなります。

冬眠状態から目覚め、木々は芽吹きから新緑にそして葉っぱの先からは「ポタッ、ポタッ」と樹液を落とします。

ヒトリシズカ、エンレイソウなどの山野、コゴミ、ヤマウド、ワラビなどの山菜も真っ盛りです。

一番時計のカッコウは空が白み始めると「カッコウ、カッコウ」と啼き、シジュウガラは「チチチーッ、チチチーッ」と飛び交い、まだ舌の回らないウグイスは「ケチョ、ケチョ」と練習し始め、春ゼミは「カナ、カナ、カナ」と賑やかに鳴きます。

「あー、やっと森が目覚めたな」と、セニョールが言うと、「そうだね、この新緑を見ているだけでも心が洗われて解脱したような錯覚に捉われるね」と、ボビーが言いました。

「俺も目覚めなきゃア」

「セニョールは目覚めて何をするの?」

「いろいろと忙しいんだぞ。

森に入って山菜を採ったり、庭の山野草の面倒をみたり、テラスなどに防腐剤を塗ってメンテナンスをしたり、何をしても半端な量ではないからね。

さあー、これから1年生き抜くぞ」

森の生命力を一番感じるこの時期が、新年です。

 

 

これで安心 (5月 更新分)

シカの食害が県下でも問題になっていますが、当ヴィラでもこの2~3年山野草が食べられ、花が咲かなくなりました。

シカもよく知っていて、スイセン・スズラン・トリカブトなど毒草は食べません。

ニッコウキスゲ・ギボウシ・ヤナギランなどを食べます。

車山高原や霧ケ峰高原ではこれらの花の新芽が食べられ、夏を彩る山野草が散々な状態になりました。

近年はこれらが群生するお花畑の周りを電気柵で囲み、観光客の目を楽しませています。

そこで当ヴィラでも自然園の周りを高さ1m、長さ80mのネットで囲いました。

「よーし、これで安心だ。この夏は山野草がたくさん咲いて、お客さんも楽しんでくれるぞ」

「シカも害獣に指定されて駆除されているけど、かわいそうだよね。シカからみたら人間の方が害獣なのに」

「そうだね、人間の方が増えすぎてシカや獣の縄張りに侵入しているから農作物などが食べられるんだ。

難しい問題だが人間至上主義にブレーキをかけて獣との共生を考えないと自然の生態系が壊れてしまうな」

「そのためには駆除しないで必要最小限の範囲をネットで囲うのはいい事だね。人間は考える事が出来るんだから、もっとバランス感覚を持って生きて行かないと」

これからどんどん芽が伸びて、きれいな花が咲くことをボビーもセニョールも楽しみにしています。

 

 

天空の山城 (4月 更新分)


先日鳥取に帰省しましたが、そのついでに『竹田城』に寄って来ました。

竹田城は「兵庫県和田山・竹田」にあり、“天空の山城”として最近脚光を浴びてきました。

室町時代に造られ、嘉吉の乱では山名氏と赤松氏が戦った山城でもあります。

その後、豊臣秀吉の弟秀長が城代として守ったこともありますが江戸時代には廃城になりました。

勿論、天守閣や櫓は残っていませんが、石垣が完全に残っています。

この石垣がすばらしいのです。

近世の城郭=平城(大阪城、名古屋城など)は城郭全体が平面的ですが

中世の山城に近世になって石積みをしたものなので石垣が立体的でなかなか造形美のある山城でした。

「どうして竹田城に興味を持ったの?」と、ボビーが聞きました。

「セニョールと同じ名前なのでネットで調べたら雲海に浮ぶ山城の写真が載っていた。

ペルーのマチュピチュの遺跡のようで珍しいからそれで行って見たんだよ」

「確かに天空に浮ぶ石垣は見ごたえがあったね。でも、よくこんな山の上まで石を運んだもんだ。

労役に駆り出された領民は随分泣かされたんだろうね」

「そうだな。兵庫県の北西部には竹田という地名がちょこちょこあるから

わがセニョール家のルーツはこの辺かも知れないね。世が世ならお殿様だったかも知れないぞ」

「まさか、石運びをさせられた方じゃあなかったの。でもそのヒゲにはお殿様の風格があるよね」

山城にハマったセニョールは、“日本三大山城”にも行って見ようと思っています。

 

※日本三大山城

備中・松山城(岡山県高梁市)

大和・高取城(奈良県高取町)

東美濃・岩村城(岐阜県岩村町)

 

 

ボビーの寝言 (3月 更新分)

犬と一緒に生活をしていると人間と同じだなと思います。

シャックリをしたり、クシャミをしたり、オナラもします。

そして寝言を言います、本当に・・・。

多分、夢を見ているのでしょう。

ボビーの場合、「ムニャ、ムニャ」とか「キューン、キューン」とか「キャン、キャン、キャン」とか「ワン、ワン」と言います。

「ボビー、『ムニャ、ムニャ』は別として『キューン、キューン』と言っているときはどんな夢を見てるの?」と、セニョールが聞きました。

「ボクは小さいときにお母さんと別れてセニョールのところに貰われたでしょう。だからよく覚えていないけど時々会いたくなるんだ。そういうとき夢にお母さんが現れるから甘えるんだ。とっても安心した気持ちになるよ」

「フーン、じゃあ『キャン、キャン、キャン』は?」

「ボクは4人兄弟の末っ子だからお兄ちゃんやお姉ちゃんと遊びたくなったとき夢を見るんだ。追いかけっこをしたり、ジャレてかみ合ったりしてとっても楽しい夢だよ」

「じゃあ、『ワン、ワン』は?」

「うん、時々悪い人間が夢に現れて意地悪をするんだ。そういうときはボクも負けないように『ワン、ワン』と吠えて追い払うんだよ」

犬には人間の3歳くらいの知能があると謂われています。

ボビーも小さな頭で色々と考えながら生きているようです。

 

 

カモシカとお見合い (2月 更新分)


姫木平が雪に覆われると色々な獣がエサを求めて庭にやって来ます。

 キツネ、タヌキ、シカそしてニホンカモシカなどです。

 特に今冬はカモシカが玄関先のモミの木の葉を食べにやって来ます。

 カモシカは性格がおとなしく、4~5メートルまで接近しても逃げないのでお互いにジーッとお見合いをしています。

 ボビーはそれを見て、「セニョール、カモシカさんとお友達になったの」と、云いました。

 「まだ友達というほどではないが気が合いそうだ。ボビーも怖がらないでお友達になったら」

 ある朝カモシカが来ていたのでセニョールは躊躇するボビーを外に出しました。

 ボビーは用心深くカモシカに近寄って行きました。

そして「カモシカさん、おはよう。カモシカさんも大変だね、雪が降ると食べ物がなくなるから」

 「まあね、でもこれは毎年のことだから今さらどうってことはないね。モミの木の葉を食べてればいいんだから」

 「森の中は寒いでしょう、-10度~-20度だから」

 「まあね、でも冬毛に包まれているとそうでもないよ。それより君の方こそ人間のペットなんか止めて、森に来たらどうだい。森は自由でいいぞ。人間と一緒に居ると堕落するぞ」

 ボビーは一瞬、言葉に詰まりました。

 「そうかも知れないけど・・・でもセニョールは結構自由にさせてくれるよ。これをしたらダメ、あれをしたらダメって云わないもの。今ボクが出て行くとセニョールたちが寂しがるから・・・、今度生まれ変わったらボクもカモシカさんたちと一緒に森で暮らすね」

 「君はやさしいんだな」

 カモシカはやさしい目をしてそれ以上、言いませんでした。

 

 

大工仕事に全力 (2012年 1月 更新分)

2ヶ月間お話しを中断して申し訳ありませんでした。

 実はこの間、大工仕事に追われていました。

 洋室3部屋を壊し、和室8畳と洋室8畳の2部屋に改造したからです。

 10月末に取り掛かり、11月末には完成させる予定でしたが和室が意外と手強く、結局、年末間際まで掛かってしまいました。

 毎日夜0時~11時頃まで、造作によっては1時~2時頃まで仕事をしました。

 もう労働基準法も何もあったものではありません。

 でも、お陰さまで坪庭も造り雰囲気のある和室が出来ました。

 ボビーは、「セニョールは不精だけど案外器用なんだね。並みの大工さんよりいい仕事をしているよ」と、心して云いました。

 「そうだろう、ただの“酒呑み”ではちょっと出来ないぞ。技術とノウハウとセンスが要るからな」

 「どうして坪庭を造ったの?」

 「ウン、お茶室にも利用しようと思ってね。物事には遊び心があった方が楽しいだろう」

 「でも、毎日放ったらかしでボクの相手をしてくれないからつまらなかったよ」

 「ごめん、ごめん、これからいっぱい遊んでやるからな」と、いうことでありました。

 例年ですと12月中に10~15日はスキーをしていましたが、今シーズンはまだ滑っていません。

 

 

 大らかなスペイン (10月 更新分)

 もう、かれこれ10年くらいスペインに行っていません。

 久しぶりにスペインのことを書きましょう。

 スペインではよく車が道路に縦列駐車をしています。

 が、日本と違って前後の車間が50センチくらいです。

 “出るときどうして出るのだろう”と不思議に思います。

 そこでヒマなセニョールはジーっとその場に座って待っていました。

 やがてドライバーが帰って来て、エンジンをかけました。

 「オッ、そろそろ出るぞ、これは見ものだ」と、好奇心の目で見ていました。

 するとなんと、前の車に当ててグググッと押し、今度は後ろの車を押し、また前をと、何回か押して車間を広げ、出て行きました。

 これにはセニョールも驚きました。

 車を財産のように考える日本ではあり得ないことです。

 欧米では車は足と考える人が多く、ポンコツ車によく乗っていますがスペインも将にその通りです。

 また、こういう光景も見かけました。

 観光バスが田舎の狭い道に入って行きました。

 T字路で曲がりましたが、そのとき住宅の屋根に当たりました。

 バスはそれでも無理やりに通りましたので瓦が何枚か落ちました。

 家の親父が出て来て、ワーワーと喚きましたが運転手はそ知らぬ顔でスーッと行ってしまいました。

 「なんともスペインは面白い国だね。“他人のものも自分のもの”という変な共有意識があるのかな。大らかなんだね。そろそろスペインに行きたくなったね」と、ボビーも面白そうに聞いていました。

 

 

面白い話 『 ヤマカンが外れた 』 (9月 更新分)

 先日、茶道の関係で長野市に行って来ました。

 その帰り、“川中島古戦場”に立ち寄りました。

 かの有名な武田信玄と上杉謙信が戦った場所です。

 そこには激しい戦いでの戦死者を葬った首塚や信玄本陣の土塁跡などが史跡として保存されています。

 そしてボランティアの“語り部”の人が両軍の激しい合戦の模様について観光客に分かりやすく説明していました。

 面白かったのは、武田軍の有名な軍師“山本勘助”のくだりです。

 5度の合戦で一番激しかったのは第4戦でした。

 この戦で勘助は2万の軍勢を2隊に分け、12000を闇に紛れて上杉軍の本陣“妻女山”に向かわせ、夜明けに攻め込む作戦を立てました。

 合戦前日、武田軍の飯炊きの煙の多さに上杉軍は武田軍が攻め込んで来ると察知し、本陣妻女山を抜け出て川中島に陣形を組みました。

 武田軍が夜明けに妻女山の上杉軍に攻撃をしかけたときは本陣はもぬけの空でした。

 一方、川中島では合戦が始まりました。

 多勢に無勢、武田軍は苦戦しました。

 このとき謙信は武田の本陣に攻め込み、信玄と一騎打ちをしました。

 結果は両軍とも多大の戦死者を出し、引き分けに終わりましたが戦死者は武田軍の方が多かったそうです。

 この合戦で山本勘助ほか武田軍の多くの武将が戦死しました。

 語り部曰く、「山本勘助の作戦が外れたので、『ヤマカンが外れた』という言葉が生まれた」との話です。

 「ウソっぽいけど、ホントっぽいね」と、ボビーもセニョールも感心して聞きました。

 

≪ 余 談 ≫

 頼山陽の漢詩「川中島」はこのときの合戦の模様を詠んだものです。

 鞭声粛々 夜過河

 暁見千兵 擁大牙

 遺恨十年 磨一剣

 流星光底 逸長蛇

 

 

 もう、ウンザリ (8月 更新分)

 6月に書きましたが、もう一度くだらない事を書かざるを得ません。

 ホントに日本の政治家はどうなっているのでしょう。

 退陣を約束して一応“不信任決議案”をクリアした首相が未だに居座っています。

 “粘り腰”もほどほどにしないとウンザリします。

 公債発行特例法案、第2次補正予算案、再生エネルギー法案の成立を条件に居座っていますが、これらの法案は何もK首相でないと出来ないものでも何でもありません。

 むしろ、K首相の居座りが野党のみならず与党や政府の中でもアレルギーとなり法案成立のブレーキになっています。

 1日も早く法案を成立させて、復旧・復興に全力を傾けるべきときに居座りがその障害になっているのです。

 こうなると、もう一国の総理の判断ではなく、Kさんの個人的な自我の世界です。

 「ホントに不思議な現象だね。退陣を表明しながら“ストレステスト”とか“脱原発”とか次々に私的な方針を打ち出しているけど

 与党も内閣もだれからも相手にされていない。外国からも相手にされていないから、最近、外交ニュースが出てこないね」と、ボビーが云いました。

 「明治以降の政治の局面でも、このようなことは多分始めてだろうな。思い込みというか、独りよがりというか、人間に一番大切なバランス感覚を失っているよ。本人は『信念に基づいて・・・』と云うかも知れないが一人の人間の信念など長~い人類の歴史から見れば塵のようなもんだ。アー、いやだ、いやだ、もう、この問題については書くのを止そう」

 「そうだね、もっと楽しいことを書いてよ。でないと、人生が淋しくなるもの」と、ボビーもウンザリしています。

 

 

セニョール青春記  ― 耐える ― (7月 更新分)

今年も6月には寮の悪友共がやって来ました。

 恒例により昔話をしましょう。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ある日の夕方、H君がセニョールの部屋に遊びに来ました。

 セニョールが薄暗い部屋で横になっているのを見て、「オイ、どうした? どこか具合でも悪いのか?」と、訊きました。

 「イヤ、身体は至って健康だ。ただ、金が無い。動くと腹が減るので、ジーッと寝ているんだ」と、答えました。

 「そうか、なるほど、理に適っているな。金が無いときはそれが一番いい」と、同情することなく、あれやこれや話し始めました。

 そして、「お前はどう思う?」と、議論を投げかけてきました。

 セニョールは、「オイ、今日のところは黙って帰ってくれ。しゃべると腹が減る」と、云いました。

 「そうか、そんなに腹が減っているのか。よし、今夜寮食の残飯で何か作ってやるから、それまで耐えろ」

 寮食は寮費とは別なので、食費を払った寮生しか食べれなかったのです。

 そして11時頃、H君は残飯をこっそり集めて来て“雑炊”を作ってくれました。

 セニョールはそれを食べて空腹を満たしました。

 H君もどうやら金が無いらしく、一緒に食べました。

 「フーン、そんなにお金が無かったの?」と、ボビーが訊くと「有る時には、木屋町界隈を呑み歩いていたから無くなるとジーッとしていたんだ」

 「フーン、でもいい勉強をしたね。人間、お金が無くなると安易に借金をして楽をしたがるけどジーッと“耐える”ことも大事だもんね」と、ボビーもよく理解するようになりました。

 

 

世界の笑い者 - 日本の政治家 (6月 更新分)

この時期にK首相に対する不信任決議案が提出されました。

 復興に向けて与党も野党も一丸となって真摯に方向性を追求し、実行しなければならない時期にである。

 案を出したJ党もJ党であるがこれに賛成する、しないで大揺れに揺れたM党もM党である。

 結局、K首相の辞任約束で否決されましたが世界はこの茶番劇をどう受け止めたであろう。

 政局に走り回る政治家に、被災者のみならず国民は憤りを感じています。

 「国民は義援金や支援物資を送ったり、ボランティア活動をしたり、節電に協力しているというのに政治家は何をしているの、もう政治家ではなくて“政治屋”だね」とボビーも珍しく憤慨して言いました。

 「誰が首相になっても一朝一夕で解決する問題ではないのに、『オラが、オラが・・・、ワシが、ワシが・・・』と権力闘争をしている。災害を政局の道具にするとは、実にけしからん」と、セニョールも怒って言いました。

「津波問題は別にしても、原発問題はJ党が政権政党の時代に国策として推進して来たんでしょう。頼りない“原子力安全委員会”や“原子力安全・保安院”の組織も。それをM党が引き継いで事故処理に当たっているのにJ党は責任追及ばかりしてるよね。M党も頼りないけど、J党もおかしいよ、バランス感覚がないね」

 「このレベルの低さが日本の現実だよ。票を投ずるに値する政治家は極々少ないんだから国民は1度選挙をボイコットして、お灸をする必要が有るかもな。全く、世界はあきれ果てて、笑い者にしてるだろうよ」

 日本人として、何とも恥ずかしい限りである。

 

『 川柳 』を一つ

 政治家は 「重く・・・、重く・・・」と 軽くなり

 

 

歯車の狂った日本 (5月 更新分)

 震災後50日が過ぎましたが、被災地の状況や被災者の環境はあまり改善されていないようです。

 人間の真価は混乱時に一番現れます。

 口では「命がけで・・・」と言いながら自分の責任で決断し実行する勇気のない政治家、被災者のことはそっちのけで政局に走り回る政治家、非常時に適切な判断と対応が取れない巨大電力会社の軟弱化した体質、有事に有効に機能していない原子力安全委員会の無責任さ、原発設置を認可したはずの県知事は許可権者の一員である自らの責任を棚上げし、国と電力会社の責任のみを追求、などなど上げればキリがありません。

 また、災害の名称についても報道機関はつい最近まで“東北・関東大震災”、“東日本大震災”、“東日本巨大地震”などとバラバラに呼んでいました。

 災害の名称は政府が閣議で了承して決められていましたが、この程度のことにこれだけ日数がかかるというのは如何に日本の歯車が狂っているかを露呈しています。

 蔓延した『平成元禄』のツケが廻って来たのです。

 かく嘆くのは、セニョールの愚痴でしょうか。

 ボビーも、「“ガンバロウ日本”もいいけど、“ツクリナオソウ日本”も必要なんじゃあないの」と、云っています。

 

〔注〕気象庁が発表した『東北地方・太平洋沖地震』は地震名で上記災害の名称とは異なります。

 『阪神・淡路大震災』の災害名は閣議で了承・決定されたものです。

 

 

平和でなかった日本 (4月 更新分)

 先月『平和な日本』の一コマを話しましたが、大変なことが起こりました。

 大地震・大津波・原発事故のトリプル大災害です。

 不幸にして亡くなられた方、被災された方にご冥福とお見舞いを申し上げます。

 よくよく考えると、人間社会に「平和」ということはあり得ないということです。

 「平和」といえば、一般的には『戦争』や「『内戦』などが無い社会と思いがちですが、実はそうではありません。

 地震・津波、噴火、大雪・大雨、台風・竜巻などの『自然災害』、航空機、鉄道、船舶、自動車事故や今回の原発事故、犯罪などの『人為的災害』、そして経済の大変動による倒産・失業などの『社会的災害』、即ち、「非平和」がいつ起こっても不思議ではない環境に私たちは在るということです。

結局、「平和」か「非平和」かはその人が直面した問題が穏やかな日常を壊したかどうかだと思います。

 かく云うセニョールも、『阪神大震災』(当時大阪に在住)、『鳥取県西部大地震』(震源地は実家がある町)の2大地震に

 また『石油ショック』、『バブル崩壊』などによる社会的災害に遭遇しました。

 比較的、被害が少なかったので偉そうなことは云えませんが、“人間、生きてさえいれば何とかなる”というのがセニョールの哲学です。

 「セニョール、理屈を並べるのはこれぐらいにしたら。読む人が少しも面白くないよ」と、ボビーが云いました。

 「ボビーはいつもいいところでブレーキをかけるな。じゃあ、これくらいにするか」と云って、セニョールは寝ました。

 

 

 陽だまり (3月 更新分)

3月になると冬の白い太陽が黄みを帯びて来ます。

 窓際に座って穏やかな陽光を浴びているとそれまでの寒さから開放されて何となく心が躍るような感じがします。

 特に今年の寒さは厳しかったので余計です。

 フィールドの樹木も幹に陽光を溜めるのでしょう。

 幹の周りの雪は解けてくぼんできます。

 春がもうそこまで来ています。

 この時期、ボビーはフローリングの“陽だまり”に座り込み昼寝をしています。

 「ボビー、気持ち良さそうだね」とセニョールが云うと、ボビーは眠そうな目を開けて「ウン、とっても気持ちいいよ。いくら毛皮を着ていても今年の寒さは特別だったから。やっと春が来ると思うと緊張が緩んで眠くなるんだよね」と、コテンとまた眠りました。

 「だけど冬が終わるとスキーができなくなるから寂しいな。先日“HEAD”の上級用の板を買ったからもっとバンバン滑りたいな。1級も早く取りたいし・・・」

 「そうだよ、早く取らないと死神が『酒を呑もうよ』って来るよ。セニョール、ボクは眠いんだから話かけないでくれる」

 リビアと違って、平和な日本の一コマでした。

 

 

温暖化、一転して・・・ (2月 更新分)

 今冬の冷え込みは半端ではありません。

 日本海側では大雪ですが、姫木平では雪よりも連日-10度~-20度の寒波が大変です。

 水道管は電熱帯で保温しているので大丈夫ですが、洗面の排水管やジェット・バスのエア管が凍ったり、温度設定のコントローラーが壊れたりでメンテ業者に駆けつけてもらっています。

 セニョーラの携帯電話も放電し、しょっちゅう電池切れになります。

 ここまでは物質的な被害ですが、生身のセニョールはエライ目に合っています。

 “居合い”の稽古に行くと道場は冷凍庫のようです。

 諏訪は寒さを利用して“寒天”を作ったり、諏訪湖が全面結氷すると割れて盛り上がり1本の筋(御神渡り)が出来るくらい底冷えするところです。

 道場の床板は氷のように冷え切っていますし、吹雪の日には隙間から吹き込んだ雪で白くなっています。

 そういう中で素足で稽古をしているのです。

 「セニョール、そんな所で稽古をしていると身体を壊すよ。血圧も高いんだから気をつけないとパカンと逝っちゃうよ」と、ボビーが心配して云いました。

 「イヤ、道場には昔から火の気は無いもんだ。厳しい中で修行してこそ心身が鍛えられる。武道とはそういうもんだ」と、カッコウをつけて云いました。

 でも、ボビーが部屋に入る振りをしてコッソリ覗いて見ると

 セニョーラに「お~い、ヒートテックの温かいシャツとタイツを出してくれ。道場は寒すぎてカッコウを気にしておれん。

 中綿入りのベストも頼む。ボビーには内緒だぞ」と、云っていました。

 それくらい寒いので雪質はパウダーで最高です。

 

 

干し柿 (2011年1月 更新分)

昨秋、ヒマなセニョールは渋柿を買って来て、皮をむき始めました。

 ボビーはそれを見て,「セニョール、渋柿の皮をむいてどうするの?渋くてとても食べれないよ」

 「そう思うだろう。ところが、皮をむいて寒風にさらして干すと甘くなって美味しくなるんだよ」

 「エー? 渋いモノが甘くなるなんて信じられない」と、ボビーは興味深々で覗き込みました。

 昨春、実家のご近所さんから手作りの干し柿をいただきその美味しさが忘れられなかったからです。

 「スーパーで買って食べたが全然美味しくなかった。今は機械乾燥で量産するから、甘みが少なく美味しいモノが出来ないんだな。やはり干し柿は日陰で寒風にさらして自然の中で作らないとね」と云って、軒先に吊るしました。

 そして皮も竹ざるに並べて干しました。

 「皮まで干してどうするの?」

 「皮も甘くなるから、漬物などに入れると自然の甘みで美味しくなるんだよ」

 「へーッ!、セニョールはいろんなことを知ってるんだね」

 セニョールはちょっと得意になって久しぶりにウンチクを語り始めました。

 「今は飽食の時代で何でもあるけど本当に美味しいモノは少ないね。豆腐、こんにゃく、味噌、醤油など昔ながらに作った“手造り”は美味しいが、機械で量産したモノは少しもうまくない。世の中豊かになっているようだけど、本当は貧しくなっているんだよな。美味しく出来たらお客さんにもご馳走してあげよう」

 そして2ヶ月、黒ずんで甘い干し柿が出来ました。

 

 

 ヤケになった軽トラ (12月 更新分)

 セニョールは、どこに出かけるのも軽トラです。

 先日、詩吟の稽古に行くと別の先生が顔を出されました。

 来るなり「竹田さん、軽トラどうしました? 真っ黒になっているけど」

 「イヤ、別に・・・・、ただ汚れているだけです」

 「どうしたらああいう風に汚れるんですか?」

 「姫木平はカラマツ林なので、松脂が落ちてそこに埃が付けばああなるのです。長年洗車していませんから・・・」

 「ふ~ん、・・・・・・」と、汚れきった車に感心されていました。

 稽古が終わり、車の中で朗々と吟じながら気分よく帰りました。

 駐車場で降り、フッと見ると車が動いてます。

 あわてて引っ張りますが動き出した車はもう止まりません。

 そのまま2メートル下の庭にガッチャ~ンと落っこちました。

 翌日クレーン車で吊り上げましたが、大変でした。

 「セニョール、どうして車が動き出したの?」と、ボビーが聞きました。

 「ウ~ン、詩吟に夢中になってサイドブレーキを引き忘れたようだ。軽トラもバカだな、自分から落っこちてワザワザ痛い思いをするなんて・・・マア、あまり壊れないで動くから、よかったよ」と、ノンキなことを云っていました。

 「バカだね、セニョールは、ホントに、そこまでのめり込んで・・・、きっと軽トラが怒ったんだよ、恥をかかされて・・・

 酷使ばかりして面倒をみないから、“ヤケッパチ”になったんだよ。たまには修理したり、洗車してやらないと・・・」

 セニョールは少しも反省せず、壊れかかった軽トラに今日も乗っています。

 

 

御柱祭 (11月 更新分)


今年は諏訪大社の7年に一度の“御柱祭”がありました。

 大社のお祭りは4月~5月に盛大に執り行われましたがこれで終わったわけではありません。

 諏訪地方では今年一年、各地区にある小宮の御柱祭が続きます。

 小宮とは諏訪大社の分社・末社のみならずお稲荷さん、奈良・春日大社の末社などの神社、社、祠などを云います。

 そこで諏訪人ではないセニョールは貴重な体験をしました。

 小宮の御柱祭に招待され、祭り半纏を着て木遣りの音頭で御柱を引っ張ったのです。

 耳慣れない人には木遣りが何を唄っているか分からないと思いますが、『 山の~神様~ お願い~だ~ 』、『 力を~合わせて~ お願い~だ~ 』、『 ここは~難所だ~ お願い~だ~ 』、『 皆さま~ご無事で~ お願い~だ~ 』 などと即興も交えて唄います。

 唄い終わるとヨイサッ、ヨイサッ、ヨイサッと掛け声を掛け息を合わせて引っ張ります。

 息が合わないと御柱は動きません。

 動かないと周りから木遣り隊に 「 もっと泣けッ!泣けッ!」 と声が飛びます。

 それを受けて木遣り隊がもう一泣きします。

 そうです、木遣りは 『 唄う 』 のではなく 『 泣く 』 のです。

 引っ張り終え、無事に建て終わると飲み会です。

 「セニョール、よかったね、にわか諏訪人になれて」と、ボビーが言いました。

 「そうだね、鳥取県人としては貴重な体験をしたな。最初は気恥ずかしかったが、呑むほどに、酔うほどに、のって来た」

 「そうだね、段々と “ オラが祭り ” のように振舞っていたよ。」

 「何といっても、諏訪人が “ ヨソ者 ” 扱いしないで“ 氏子 ” 扱いしてくれたのが嬉しかったな」

 「もう7年生き延びて、また次の御柱祭を楽しまないとね」

 「次どころか、まだまだ40回は楽しむぞ。お祭りは観てても面白くない、参加しないと・・・」

 “ 300歳まで生きる ” と宣言したセニョールにとっては、まだまだ序の口です。

 

 

鹿と共生 《その2》 (10月 更新分)

 鹿の食害が段々と深刻になってきました。

 車山高原では食害と天候不順でニッコウキスゲが今年はあまり咲きませんでした。

 当ヴィラの自然園でも春、ウドが食べられたことを書きましたが夏にはニッコウキスゲ、ギボウシ、ヒヨドリソウなどが食べられ、山野草の花が今一つでした。

 フィールドが“けものみち”になっているらしく夜中に「キエー、キエー」と啼きます。

 そして山野草が踏み分けられ、花が食べられています。

 鹿もよく知っていて、毒草のスズラン・コバイケイソウ・サラシナショウマなどは食べません。

 「セニョール、何か対策を考えないと年々山野草が減ってくるよ」と、ボビーが心配しました。

 「ウーン、とは云っても鹿も食べ物はいるからな。まあー、もう少し様子を見よう」と、鹿に理解を示しました。

 そして、しばらく考えて「そうだ、毎晩エサを置いて花を食べないようにしよう。餌付けができたら、お客さんも観察できるから喜ぶだろう。ウン、これはいい考えだ、早速今夜からやろう」

 「ちょっと待ってよ、セニョール。『アビエルタに行けばエサを食べれるよ』と云って友達をたくさん連れて来るようになったらどうするの。糞の掃除も大変だし、エサ代で倒産するよ。またボクのエサ代がケチられるじゃあないの。ホントにおっちょこちょいなんだから」と、ボビーは抗議しました。

 ボビーも歳を取って段々と“我”が強くなってきたようです。

 「ウーン、なかなかうまくいかないな。じゃあ、一冬考えよう」

 と、セニョールは腕組みしました。

 

 

これが猛暑か (9月 更新分)

セニョール一家は先日、鳥取県の実家に帰って来ました。

 田舎では何もやる事がないので、1週間みっちりと稽古をしようと居合い、詩吟、茶の湯の小道具などを持って帰りました。

 ところが暑いの何のってありゃあしない。

 姫木平から車のクーラーをバンバン利かして下りて行きましたので実家に到着し車を降りた途端、暑さがガーンと襲いかかって来ました。

 「なんだこの暑さは・・・、これはたまらん」

 ボビーを見ると、舌が落ちそうなほど口を開けて「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ・・・」と重病人のようになっていました。

 夜もじっとりと汗をかいてなかなか寝れません。

 「ボビー、どうだ、大丈夫か?」

 「セニョール、これは想像以上だね。熱中症で亡くなる人も出るわけだよ」

 「これが下界の猛暑か・・・、クーラーの要らない姫木平では考えられないね」と、セニョールも閉口しました。

 翌日からいろいろと稽古事をするつもりでしたがもう何もする気になりません。

 朝起きたら裸でゴロゴロし、食っては寝、食っては寝、の毎日で結局、何もしないで帰って来ました。

 “地球の熱帯化”は相当進んでいるようです。

 

 

異変 ― 夏に蝉が・・・ (8月 更新分)

 入道雲がモクモクと立ち昇る夏、姫木平で蝉が鳴きました。

 「ボビー、大変だ、大変だ、蝉が鳴いている」

 「アッ、本当だ、おかしいね」

 姫木平では今まで、蝉は6月に鳴いていました。

 春蝉といってちょっと小ぶりな蝉です。

 春蝉はまるでカレンダーを知っているかのように決まって毎年6月1日に鳴き始め、7月1日にはパタッと鳴き止んでいました。

 そして7月、8月に鳴くということはありませんでした。

 蝉も姫木平の夏が短いことを知っているのです。

 「これは大変だ、異変だ。なにか悪いことが起こらなければいいが」と、セニョールは心配しました。

「姫木平に居ると涼しいからあまり感じないけど思った以上に温暖化が進んでいるかもよ。ニュースでも下界は酷暑で熱中症で亡くなった人も多いらしいから」

 「そうか温暖化の影響か。蝉も避暑に来るようになったんだな」

 と、セニョールはノンキなことを云っていました。

 「地球は大丈夫かなア。もはや“温暖化”というより“熱帯化”だと思うよ。欲を追いかける人間にまかせておいていいのかなア」と、ボビーは本当に心配しています。

 

 

セニョール青春記 (7月 更新分)

今年も悪友共が集まって来ました。

 還暦を過ぎると皆大なり小なりガタが来始め,「ワシはここを切った」、「俺はあそこを切った」と自慢していました。《飢えた野良犬》

いつもは40年前の学生時代の事を書いていましたが今年はリアルタイムで書きましょう。

 昨年から翌日の昼食にバーベキューを食べて解散することにしました。

 悪友とは云え、毎年気を使って会費をたくさん置いて行ってくれるのでそのお返しにと始めました。

 メインの肉は信州和牛のフィレです。

 日ごろ和牛のフィレなど口にしたことのない連中ですからその食べ方たるやガツガツとすさまじい限りです。

 「サアー、火をおこして11時から始めるぞ」と云って、連中に火おこしを頼み、セニョールは肉を置いて、ソーメンを作りに厨房に入りました。

 ソーメンを持って出るともう肉がありません。

 「おい、もう食べたのか」

 「アー、火がおこったので焼いて食った、お前の分は残しておいたぞ」

 見ると小さな肉片が残っていました。

 「おい、まだ11時になってないぞ。和牛だぞ、フィレ肉だぞ、もっと味わって食え。還暦を過ぎても学生時代と同じじゃあないか」

 そしてセニョーラがソーメンつゆを持って来ました。

 「さあー、さあー、奥さんも食べてください」と、気だけは使っていましたが網の上には焦げたウィンナーが2~3個転がっているだけでした。

 そしてソーメンをズルズル食べて、「あー、美味い、バーベキューにソーメンは合うな。もう食えん、腹が一杯になった。

 来年は青竹の樋で流しソーメンがいいな」と、好き勝手なことを云っていました。

 ボビーはこの光景を見て、「この食欲があれば当分死ぬことはないでしょう。還暦を過ぎても “飢えた野良犬” だね。ボクの方が上品だよ」と、優越感に浸っていました。

 

 

鹿と共生 (6月 更新分)

スミレやタンポポが咲き始め、姫木平にもやっと春が来ました。

 今年の4月は低温だったので、花や芽吹きが遅れましたが山菜も遅れました。

 山の獣も食べ物がなく、人家近くに出没して来ます。

 姫木平では春になるとアチコチの花壇にパンジーを植えますが、鹿に全部食べられてしまいました。

 セニョール家のフィールドにも出没し、自然園に出るウドが食べられました。

 先っぽの柔らかい、一番おいしいところが食べられています。

 “いつ採ろうか” と楽しみにしていたセニョールは

 「アッ、ない、う~ん・・・、鹿も食べ物が必要なのは分かるけど、全部食べるのはどうかな。セニョールの分も残しておいて欲しいな」と、愚痴りました。

 「最近、鹿が増えて農作物の被害が大きくなってきたから、人間は害獣に指定し時々鉄砲で駆除してるけど、鹿にとってはいい迷惑だよね」と、ボビーが云いました。

 「ウーン、鹿はグループで行動するから被害も大きくなるけど、あのやさしい目を見ると害獣だといって殺せないよな」

 「鹿から見れば人間の方が害獣かも知れないよ。野山を駆け回っていた縄文時代の日本の人口は約30万人、農耕が始まった弥生時代でも約60万人だったんだから。それが今では1億人でしょ、人間の方が増えすぎだよ」

 「そうか、そんなに増えたのか。よし、分かった、鹿は悪くない」と、云ってセニョールは鹿が食べ残した硬い茎を採って “キンピラ” にして食べました。

 どうやら、鹿と “共生” をし始めたようです。

 

 

軽トラの復讐 (5月 更新分)

今年は寒かったり、急に暑くなったり、天候がコロコロと変りちょっと不順です。

 下界では桜も咲きかけて中断したり、姫木平でも未だにタラの芽が膨らみません。

 暖冬と言っても春としては気温が低いのです。

 そんな不順な天候に、セニョールは先日エライ目に会いました。

 愛用している軽トラで長距離ドライブをしたときです。

 グッタリと疲れて家に帰って来ました。

 「ボビー、今日は無茶苦茶に疲れた。ちょっと昼寝をするぞ」

 「どうしたの?セニョール」

 「下界の今日は真夏日だぞ。軽トラは冷房が効かないだろう。炎天下で屋根が焼けて焼けて、地獄のドライブだったよ。頭がボーっとするやら、脱水症状で身体がだるくなるやら、もう、クタクタだ、疲れた」

 「でも今までも夏に軽トラで走り回っていたじゃない」

 「つい昨日まで冬物を着てたのに、今日は一転して真夏日だ。まだ身体が夏になっていない。それに冷房なしの真夏日の運転は30分が限度だな」

 「軽トラをもっと大事にしないからだよ。“軽トラは車の原点だ”、“日本の名車だ”と云ってたけど、その割には壊れても治さないし、汚れても洗車しないし、粗末に扱ってたもの。軽トラに “復讐” されたんだよ」

 「そうかなあー、でも軽トラは “田舎のベンツ” だからな。やっぱり大切にしてやらないとな」

 セニョールはちょっと反省したようです。

 

 

 雨 氷 (4月 更新分)

先日ちょっとした自然災害がありました。

 雨氷です。

 雨氷はみぞれ混じりの冷たい雨が樹の枝で凍り、枝を氷が包む現象です。

 南からの低気圧と北からの寒気がうまく重なったときに起きます。

 この現象は姫木平では時々見られます。

 しかし、今回はその氷がドンドン成長して重くなり、柔らかい樹は幹が弓なりにたわみ、堅い樹は折れ道路を塞いだり建物に寄りかかったりして、ちょっとした災害でした。

 姫木平に移り住み、初めて見た光景でした。

 それもそのはず、近所の人の話では15年振りの現象のようです。

 当ヴィラでは白樺の樹が弓なりになったくらいで被害はありませんでした。

 「イルミネーションのようにキラキラと光ってきれいだな。」と、セニョールが云うと、「なにをノンキなことを云ってるの。宅急便のお兄さんが云ってたけど 『 道路を塞がれて来るのが大変だった 』 らしいよ。炬燵にばかりもぐってないで外の様子を見て来たら」と、ボビーが云いました。

 そこで様子を見に車で出てみるとアチコチで樹が折れ、たわみ、道路を塞いでいました。「これは運転するのが大変だ、よく大型トラックで来たもんだ」と、感心しました。

 「セニョール、感心してないで樹の先っぽを切って芯止めをしたらちょうど都合がいいじゃあない」と、ボビーが云いました。

 庭の白樺がどんどん伸びるので日頃から芯止めをしたいと思っていたセニョールは「そうだな」と云って切り始めました。

 ボビーもすっかり山の住人になったようです。

 

 

 真央ちゃん、残念 (3月 更新分)

バンクーバー大会では日本に金メダルが無くちょっと糞詰まりの感が残った。

 今回の五輪で一番関心を持たれた競技は男女フィギュアだったろう。

 中でも真央ちゃんにはみんなが金メダルを期待していたと思うが、結果は『銀』。

 キム・ヨナがフリーで完璧な演技をし150点台をマークした時点で真央ちゃんの『金』は消えた。

 後で滑った彼女はミスもあり満足な演技ではなかったが、それでよかったと思う。

 今の彼女が完璧な演技をしても、キム・ヨナには届かなかったろう。

 パーフェクトに滑って負けたら完敗になり、自分の限界を感じ、悩み、今後の立ち直りは難しくなると思う。

 ミスがあったからこそ彼女も「今度こそ」と向上心が湧いてくる。

 今後の国際大会でも彼女とキム・ヨナは競い合うだろうが、いずれ彼女が追い抜くだろう。

 なぜならキム・ヨナは完成されており、人間の限界点にほぼ到達し今後の伸びはあまり望めないからである。

 「悔し涙を流す選手が多い中で、自分の演技に満足し一番輝いていたのは8位入賞の鈴木明子だったね」と、ボビーが云いました。

 “ボビーも見るところはちゃんと見てるな”と、セニョールは感心しました。

 ケガを克服して『銅』の高橋、アクシデントの織田、ちょっと寂しそうな安藤は、テレビにおまかせします。

 

 

 折れたスキー (2月 更新分)

私事ですがセニョールは姉2人、弟1人の4人兄弟です。

 その弟が年末に休養に来ました。

 いまスキーシーズンですので適当に滑って、酒を呑んで帰りました。

 「スキーを借りる」と云って自分でレンタルスキーを選び、滑べりに行きました。

 「どうだった、久しぶりのスキーは」と、セニョールが尋ねると「疲れたけど、楽しかったよ。スキーが良いと気持ち良く滑れるね」と、云いました。

 「ん? スキーが良いといってもレンタル用だからボロスキーだぞ」

 「いや、アトミックの新しいのが有ったからそれを借りたよ」

 「ん? アトミック? そんなの有ったかなあ」

 「有ったから使ったんだよ。スキールームに置いてあるから見てごらんよ」

 セニョールは見て「おい、こんな折れたスキーでよく滑ったな。

 見てみろ、滑走面がザクロのようにパックリと口を開けてるだろう」

 弟はそれを見て「ゲーッ!、折れてる、気付かなかったな」

 セニョールが奮発して買ったスキーで、2~3度滑って転んだとき折れたモノでした。

 「マー、お前のスキーレベルはその程度だ。

 気に入ったら明日も使っていいぞ」

 「イヤ、ごめん被る、よくケガをしなかったな」

 ボビーは二人の会話を聞いて、「兄貴も兄貴なら、弟も弟だね。血は争えないね。ボクは他人でよかったよ」と、シラケていました。

 

 

10兎追う者・・・ (2010年 1月 更新分)

 昨年ほど色々な事を始めた年はありません。

 クレー射撃、居合い、詩吟、武家茶道、俳句、書道です。

 俳句、書道はヒマな時に家で適当にやっていますが、他のものは道場とか稽古場に通っていますので1週間が忙しいです。

 ボビーは「“2兎追う者は1兎も得ず”と云うけどセニョールはバイク、スキー、フラメンコなども入れたら10兎くらいになるじゃあない。もう無茶苦茶だよ。どれもモノにはならないね」と、云いました。

 「そんなことはない。人間、朝から晩まで一つのことをやってるわけじゃあないだろう。1日を午前、午後、夜に分けて、曜日毎にカリキュラムを組んで稽古・練習をすれば十分やって行ける。こんど剣舞も入門しようと思っている」

 「剣舞も? セニョール、気が変になったんじゃあない?」

 「変になったかも知れないね。なんせ先は永くないのだし、気違いになって夢中で生きた方が人生、すばらしいだろう。ただ、モンモンと生きて行くのは寂しいからね」

 「気違いになるのはいいけど、仕事もチャンとしてよ。売上げが落ちて、真っ先にシワ寄せが来るのはボクのエサ代なんだから。自分の酒代を節約すればいいのに・・・」と、ボビーは心配そうでした。

 と云うことで、セニョールは生きている間は暴れまくるそうです。

 

 

ハーレーか?携帯か? (12月 更新分)

 今や携帯電話を持つのが当たり前になっていますが、セニョールは持っていません。

 どんどん便利になって行く世の中に疑問を感じているからです。

 先日、近所の人達と忘年会を開きました。

 携帯を持っていないのはセニョールだけですのでバカにされて集中砲火を浴びました。

 バイクに凝っているセニョールは反撃しました。

 「セニョーラがハーレーを買ってもいいと云えば持ちましょう。セニョーラを説得してください」と。

 「携帯は世の中の常識、ハーレーはセニョール家の特殊な問題、そこまでは面倒をみれない」と、反論されました。

 セニョーラはご婦人たちに「今でも2台あるのに、3台なんて、ネー」と、予防線を張っていました。

 ボビーも「いくら何でも3台は・・・、セニョーラが反対するのは当然だよ」と、云いました。

「最近、ハーレーのエンジン音を聞いたら欲しくなったんだ。あのドコドン、ドコドンという3拍子の音は“商標登録”されているらしい。ハーレーだけの音だからな」

 「ハーレーを買ってもよければ携帯を持つと云うのは屁理屈だよ。携帯も上手に使えば役に立つし、便利なんだから。変人と思われるよ」と、ボビーが説得しても「いいや、ワシは不便さを楽しんでいるんだ。せっかく便利な都会を離れて何もない山の中に来たんだから」と、頑固になっていました。

 そのセニョールも「最近、公衆電話が少なくなって不便だ、けしからん」と、矛盾したことをブツブツ云っています。

携帯がどうのこうのと云っていますが、本当はハーレーのことを書きたかったようです。

 

 

枕の取り合い (11月 更新分)

もみじが散り始めると大陸から寒気がやって来ます。

 こうなるとボビーはセニョールの布団の中にもぐり込んできます。

 これから二人?で身体を寄せ合い暖を取り合って寒い冬を越します。

 それはいいのですが、困ったことが一つあります。

 ボビーがセニョールの枕を占領しにくるのです。

 セニョールは寝ぼけ眼で「ボビー、これはお父さんの枕だぞ、ボビーはあっち」と、ボビーを押し退けます。

 ボビーは「ボクだって枕があった方が寝やすいもん」と云って、セニョールの頭を背中でゴリゴリ押したり、顔の上に覆いかぶさってきます。

 そうして二人で一晩中、枕の取り合いをします。

 ボビーはスヤスヤ眠っていますが、セニョールは一度目が覚めるとなかなか眠れません。

 寝不足になります。

 「これではいかん」と、ボビー用の小さなクッションを買って来ました。

 それでもボビーは枕を占領します。

 「ボビーにも買ってやったじゃあないか、自分の枕で寝てくれよ」

 「だって小さいもん、大きい方がよく眠れていいもん」

 と、相変わらず枕の取り合いをしています。

 結局セニョールは小さなクッションに追いやられています。

 セニョールは何とか失地回復しようと、益々、寝不足になりました。

 パートナーとして人間と一緒に暮らしていると、犬も進化するようです。

 間もなく雪が来る晩秋の一コマでした。

 

 

 イノシシ参上 (10月 更新分)

 山々も少しづづ色づき始め、中秋になってきました。

 この時期、動物たちは冬篭りの準備に入ります。

 リスはフィールドを行き来し、栗をどこかに蓄えています。

 その他、タヌキ、キツネ、シカ、カモシカ、サルなども訪れます。

 最近はイノシシも来るようになりました。

 夜に出没するので姿は見ていませんが、朝芝生がキバで掘り起こされています。

 芋とか球根を探しているのでしょう。

 キバの跡を足で踏んで整地しますが翌朝も掘り返されています。

 モグラに加えてイノシシまでが芝生を傷めるようになりました。

 セニョールは毎朝手を後ろに組んで“麦踏み”みたいに踏んでいます。

 「セニョール、大変だね。モグラに加えてイノシシの後始末まで増えて。どうして出るようになったのかなー」

 「そうだね、この時期は木の実も色々あるし、一番食べ物があるときなんだがなー」

 「今、シカやイノシシが増えて害獣になっているじゃあない。

 農家は害獣除けに電気柵などで畑を囲っているからそれで食べ物を求めてフィールドにも来るようになったんじゃあない」

 「そうかも知れないね」

 「人間は自分たちに都合が悪いから勝手に害獣に指定し鉄砲狩りなどしてるけど本当はシカもイノシシもちっとも悪くないんだよね。生きて行くのに必要な量しか食べていないし。人間の方が金儲けのためにたくさん作ろうとして開墾し過ぎてるよ。

 その方が問題だと思うな」

 「そうかもな、一番欲の深い動物は人間だからな」と、云いながら今日もセニョールは麦踏みをしています。

 

 

 マウンテン・バイク (9月 更新分)

 セニョールはこの春、マウンテン・バイクを買いました。

 スキーのオフに筋力強化を図るためです。

 18段変速のマアマアの自転車ですが、やはり上りをこぐのは大変です。

 ハアー、ハアー云いながらこいで、そろそろ引き返そうかと思っていると運悪く近所の奥さんに出会い、「どこまで行きますか?」などと話しかけられます。

 こうなるとUターンできず、見栄をはってこぎます。

 シンドイだけで少しも楽しくありません。

 そうこうしていると、別荘の人にダウン・ヒルを誘われました。

 林道を走り下る程度に軽く考えて行くと、ゴンドラで山頂まで上り、林の中の山道を走り下りる本格的なコースでした。

 木の根っこで段々になり、岩が重なり合い、粘土状の土でズルズルすべる山道です。

 周りの人はみんなヘルメットをかぶり、腕や足にプロテクターを着けていました。

 カーブを回り切れなくて樹にぶつかったり、あまりの段差に頭から突っ込んだり、散々な目に合いました。

 走り下りるというよりは転がり落ちるという感じです。

 よくケガをしなかったものです。

 「もう懲りたでしょう。見てごらん、若い人ばかりで年寄りはいないよ」と、ボビーが云うと

 「ハードなコースで大変な目に会ったけど、スリルがあって面白かったよ。下りる角度に応じたバランス取りが難しいな。これはハマリそうだ」と、セニョールは目を輝かせました。

 筋力強化のつもりが、また一つ極道が増えたようです。

 セニョールもやる事が多くて、歳を取ってるヒマはないそうです。

 

 

一に正座、二に正座 (8月 更新分)

 セニョールはまた新しい事を始めました。

 “居合道”です。

 県大会でも優勝者を輩出するほどの伝統ある居合道場に入門しました。

 まだ木刀での稽古ですが、何事も形から入るセニョールは筒袖の上衣と袴を着ると、姿・形だけは有段者に見えます。

 それもそのはず、セニョールは剣道二段を持っていますのでカッコウだけは何とか誤魔化せます。

 が、スポーツ化された剣道と違って、居合道は実戦的ですからちょっと勝手が違います。

 まずは、板場での正座の練習です。

 これほど辛いものはありません。

 “還暦を過ぎてアチコチ“ガタ”が来ているのに、こんな辛いことをしなくても”とも思いますが“これも鍛錬、その内出来るハズだ”と頑張っています。

 そこで日常生活でも、新聞・テレビを見るときは正座、音楽を聴くときも正座

 食事を取るときも正座と、正座だらけです。

 目は血走り、活字・映像は走り回り、音は耳に入らず、食べ物は丸飲みです。

 が、お酒だけは気合い諸ともゴクリッと飲み干しますので旨いです。

 「居合いは真剣でするんでしょ、日本刀を買うの?」と、ボビーが訊きました。

 「勿論、すぐにでも買いたいが段を取ってからにするかな。今はまだ“気違いに刃物”で危ないから」

 「日本刀って高いんでしょ。

 セニョーラには話さない方がいいよ、甲冑を買ったときのように

 『またクズ鉄を買う』と云って怒られるよ」

 「そうだな、当分、刀のことを話すのは止めにするか」

 「何段くらいまで行けそう?」

 「ウン、三段は取りたいな。そして目標は五段だ」

 「五段? ほんとに? セニョールは何歳まで生きるつもりなの?」

 どうやら300歳まで生きるつもりのようです。

 

 

セニョール青春記 《完全自動洗濯機》 (7月 更新分)

 今年の寮OB会は先輩諸氏も加わり一段と賑やかな宴会でした。

 今回は客人の“檄文”も募り、垂れ幕が3本増えて賑やかに舞っていました。

 “老寒梅、されど開かん残照果てるまで”(客人)

 “まだやれる、エンジン全開鉄腕親父”(客人)

 “狂え、気違いになれ、豊かな時間を増やせ”(セニョール)

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 人間には“几帳面な人”と“ズボラな人”がいます。

 寮生も然りで、几帳面な人はよく洗濯をします。

 セニョールはズボラで面倒臭がり屋なのであまり洗濯をしませんでした。

 下着は表で3日、裏返して3日は着ましたし、クツシタは窓に吊るして夜風に当てれば当分履けました。

 が、たまには洗濯をします。

 当時、“完全自動洗濯機”なるものが有りました。

 「全自動は分かるけど、完全自動洗濯機ってどういうモノ?」と、ボビーが訊きました。

 「ウン、洗った後、天日干しをして、しかも畳んでくれる洗濯機だよ」

 と、セニョールが答えました。

 「また、いつもの冗談が始まった。40年前の、まだ2槽式の時代にそんなの有るわけないじゃあない」

 ところが有ったのです。

 誰かが洗濯しているとその洗濯機にセニョールは洗濯物を放り込みました。

 すると洗濯し、竿に干して、乾くと畳んで置いてありました。

 「よくそんなことができたね。ボクだったら他人のモノは放り出して捨てるよ」

 「ところが寮は階級社会だから放り出すなんてできないんだよ。そんな事をするのは一番威張った4年生に決まってるし

 捨てたら集中的にイジメられるから、放り込まれたら諦めてやらざるを得ないんだよ」

 「じゃあ4年生のときにそういうことをしたの?」

 「いいや、1年生のときからこの手を使ったよ、4年生の洗濯以外にな。

 陰からコッソリ見てると3年生もブツブツ云いながらやってくれてたな。

 こういう楽をしたのは多分セニョールだけだろう」

 「フーン、40年前にそんな便利な洗濯機が有ったんだね。今より進んでるね」と、ボビーは感心していました。

 

 

 

 

 

小さな喜び (6月 更新分)

セニョールは最近、車を買い換えました。

 今度は、長年夢見たリモコン・キー車です。

 安い中古車を専門に乗り換えて来たセニョールは20年以上も昔の鍵穴にキーを差し込むタイプのモノしか乗ったことがありませんでした。

 いつ頃からか、お客さんがリモコンで遠くからガタッとロックを開・施錠するのを見て驚き、また羨やましくも思っていました。

 いつかはああいう車に乗りたいと思っていましたが、それが今回やっと実現しました。

 中古市場でリモコン・キー車が安く出回るようになってきたのです。

 「ボビー、ほら見ろ、リモコンだぞ、エヤーバックもついてるぞ」と、セニョールは自慢しました。

 「そんなの今は常識だよ、標準仕様だよ。中古でも100万円以上出したら随分前からそういう車に乗れたのに」と、ボビーは驚きませんでした。

 「ウーン、セニョールは貧乏だろう。それに大きな声では云えないけど、すぐぶっつけて壊すからもったいなくて高い車を買えないんだ。この10年でもう4台目なんだぞ」

 「エーッ、4台目! どうしてそんなに壊すの? 飲酒運転?」

 「シーッ! 声が大きい。

 「山道はアチコチにガードレールがあるから困る」

 「何云ってるの、ガードレールがなかったら谷底に落っこちるじゃあないの」

 「そうか、それもそうだな、命の恩人だな。いずれにしても2~3年落ちの高い車は買えないな。いま最新のハイブリッド車に乗れるのも20年先かな」と、云いながら嬉しそうに「ガタッ、ゴトッ」とリモコン・キーを操作していました。

 「セニョール、そんなにガタゴトやったら壊れてしまうよ」

 セニョールは“ドキッ”として、そーっとポケットに仕舞いました。

 山の中でつつましく暮すセニョールのささやかな、小さな喜びでした。

 

 

ETCトラブル (5月 更新分)

毎年4月、セニョール一家は鳥取の実家に帰ります。

 最近車の調子が悪いので、高速運転を前にディーラーに診てもらいました。

 「もうバラバラ寸前ですよ。高速走行は無理でしょう」とのことでした。

 そこで仕方なく車を買い換えることにし、その場で契約しました。

 明日から走るというときでしたのでディーラーも代車を貸してくれました。

 代車ですのでETCが付いていません。

 「困ったな、鳥取まで高速1000円乗り放題で帰るつもりだったんだけどな」セニョールは困った振りをしました。

 「じゃあ、ETCを積みましょう」と、どこからか怪しげな車載機を持って来て取り付けてくれました。

 「これで大丈夫だと思います、万一、ゲートが開かないときは係員と交渉してください」

 と、何とも頼りないことを云いました。

 案の定、ETCレーンに入ってもゲートが開きません。

 急ブレーキをかけ、飛んで来た係員に

 「車載機はちゃんとカードを認識しているのにゲートが開かない。このゲートは壊れてるんじゃあないか」と、セニョールは抗議しました。

 

「申し訳ありません。前の車が強行突破でもして、機械が混乱を起こしたのですかね」と、メカに弱い係員は謝りました。

 セニョールも「機械が悪い、故障している」と、主張しました。

 後ろには車がどんどん繋がってくるので係員も早く整理しようと“ETC専用の通行券”をくれました。

 出るときは一般レーンに入り係員に事情を話し、1000円で走りました。

 今回はあちこち途中下車しましたので、その都度交渉し、後ろが渋滞しました。

 ETCは本来、渋滞を緩和するためのシステムと聞いていますが。

 「セニョール、本当はこっちに問題があったんじゃあないの?」

 と、ボビーがそーッと云いました。

 「ディーラーのあの言い方では・・・、多分な。でも、1000円で走れるかどうかの瀬戸際だろう。こっちの非を認める訳にはいかないよな」

 「いつも屁理屈を並べるセニョールの交渉力は認めるけど、後で正規料金(12000円)の請求がくるんじゃあないの」

 「今、料金設定の切り替えやETC車の急増でこの種のトラブルは多いだろう。いちいち精査はできないと思うよ」と、セニョールは呑気に云いました。

 「本当かなー、車載機が正常に作動していたらゲートは開くはずだけどなー。請求がくるんじゃあないかなー」と、ボビーは半信半疑です。

 

 

奴隷?囚人? (4月 更新分)

 スキー・シーズンも終わりました。

 これからGWまでの1ヶ月間はノンビリ過ごします。

 結局、今シーズンは『1級検定』を受けませんでした。

 2級と1級ではレベル差が大きく、まだ納得の行かないところがあるからです。

 オフにしっかりトレーニングをして、来シーズンに全てをかけます。

 そこで片方1.5キロの“足首おもり”を巻き着けて筋力強化を図ることにしました。

 両足で3キロのおもりはズッシリと重く、大腿筋がだるくなります。

 ボビーはセニョールの歩く姿を見て云いました。

 「セニョール、腰を前かがみにして足を引きずるように歩くその姿は鎖に繋がれた奴隷や囚人のようだね。もっと足を上げて元気に歩かないと」

 「奴隷?囚人?そりゃーないだろう。せめてガレー船で櫂を漕ぐ“ベン・ハー”のようだと云ってくれ。ボビーも着けてみろ、重いぞ」

 「チャールトン・ヘストンはもっとカッコウ良かったよ。セニョールのは単なる老いぼれのアガキだね」

 「老いぼれのアガキ? ウーン、アタマさ来た。何事も事を成そうと思うと人並みの事をやってたんじゃあダメなんだぞ。特に60歳を過ぎてからは若い人の2倍も3倍も努力をしないとな。それを、よくも、ウー」

 「ゴメン、ゴメン、セニョールの姿勢は正しいからガンバってね」

 「ヨシ、もう体裁を考えておれないな。誰が何と云おうと、これでオフを頑張って来シーズンこそ1級盗りだ」と、重い足を引きずりながらウロウロしています。

 

 

恥ずかしい和製英語 (3月 更新分)

 国際化が進む日本ですが、我がアビエルタにもその波が押し寄せています。

 今シーズン、約60人の欧米人が宿泊しました。

 国別で云えば、イギリス、オーストラリア、スイス、ノルウェーなどです。

 彼らは旅行客ではなくて、日本で仕事をしている滞在者です。

 が、日本語はほとんど話せません。

 セニョール家は本来スペイン語?ですが、そうも云っておれなくなりました。

 そこで英会話の練習を始めました。

 今回、改めて和製英語がいかに無茶苦茶な言葉かを実感しました。

 たとえば、ウィスキーの「オン・ザ・ロック」は「whiskey with ice」、英語の「ヒアリング」は「listening」、スキーの「ストック」は「ski poles」、「リフト券付きパック」の「パック」は使われないで、「package included lift ticket」となります。

 これらはほんの一例で誤った和製英語は他にもたくさんあります。

 「いつ、誰が、こんな出鱈目な言葉を作ったんだ。こっちは通じると思ってしゃべっているのに向こうはチンプンカンプンだ。もう怒りを通り越して、恥ずかしいよ、日本の恥だ」と、セニョールが怒りました。

 「そうだよね、最近、テレビや新聞でもよく英語の単語が出てくるよね。日本語にない言葉を英語で話すのは仕方ないけど、その必要のない言葉をわざわざ英語に変えて話すというのは問題だね。英語に変えると“知識人”になったような気がするのかなー。外国人は自国語を大切にするのに、愚かなことだよね」と、ボビーも皮肉ッぽく云いました。

 夏にはトレッキングに来ると云うので、これからも引き続き英会話の練習です。

 「セニョール、頑張ってね。彼らだって『オ・ハ・ヨ・ウ・ゲ・ザ・イ・マ・ス』と一生懸命話そうとするのだから、間違ってもいいからドンドン話すことだと思うよ」

 「ヨシ、これからはスペイン語だけでなくて、英語でも話しかけるからな」

 「エーッ、ボクも英語を覚えるの?昼寝の時間が減って寝不足になりそう」

 ボビーにもとんだお鉢が回ってきたようです。

 

 

ドン・キホーテ (2月 更新分)

ヴィラ・アビエルタはスペインをテーマにしています。

スペインといえば、まず闘牛とフラメンコが頭に浮かびますが忘れてはならないのが『 ドン・キホーテ 』です。

セニョールは日頃から、なにかドン・キホーテにまつわるモニュメントができないかと考えていました。

それがやっと実現しました。

ドン・キホーテがサンチョ・パンサを従えて遍歴の旅に出かける情景をイルミネーションで作ったのです。

たたみ2畳の大きさで、ロープライトを曲げに曲げ苦労して作りました。

「ボビー、どうだ、なかなか上手く出来たろう」

「ウン、馬に乗ったキホーテとロバに乗ったサンチョの感じがよく出てるね」と、ボビーも感心しました。

「よし、アプローチにセットしよう、お客さんも喜ぶぞ」と、セニョールは大張切りでした。

ところが、お客さんの反応は「カモシカに乗ったサンタクロースを作ったんですか。ちょっと変わったサンタですね」とか、「あの鹿に乗った人物は誰ですか?後ろのカタマリは?」と、散々でした。

「何、サンタクロース?、鹿?、後ろのカタマリ?、ウーン、何てこった、キホーテもサンチョも嘆いているな。ドン・キホーテの物語に見えないのかなー」と、セニョールはガッカリしました。

「うーん、日本ではスペイン文化はマイナーだから名前は知ってても情景までは分からないかも知れないよ」と、ボビーが慰めました。

そして「木枯らしの中、セニョールが鼻水をすすりながら作ったんだよ。どうか分かってやってください」と、お客さんに訴えています。

 

 

天文学入門 (2009年 1月更新分)

「ボビー、天文学の本を買って来たぞ」

「天文学? なーんだ、星座の本じゃん、いつも大げさなんだから、またどうしたの?」

「姫木平は空気が澄んでて星がよく見えるだろう。こんな良い環境に居るんだから夜空も楽しんだ方がいいだろう。5~6年前の“しし座流星群”のときは凄かったもんな。それに星座はギリシャ神話の勉強にもなるからな」

「ウン、でも星座の起源はもっとむかしのメソポタミア文明の頃に遡るんだよ。それからギリシャ文明や大航海時代を経て、20世紀に88の星座が纏められたんだって」

「ヘー、ボビーもよく知ってるな。じゃあー、冬の星座で代表的なものは何かな?」

「それは“オリオン座”や“おうし座”でしょう。オリオン座は東の空に星が3つ並んでいるからすぐ分かるよ。オリオンがライオンの毛皮を楯のように使ってこん棒を持って牡牛と戦っているんだよ。縄文人のようだからセニョールっぽいね」

「縄文人はないだろう。ところでボビーっぽい星座はあるのかな?」

「ウン、“こいぬ座”があるよ。オリオン座の左に見えるの」

「だけど星座って少しもそれらしい形に見えないね。神話を勝手に天体に持ち上げて、こじつけてるみたいだ」

「そう云ったら元も子もないよ。天体に神秘性を感じて、色々な神話と結びつけたんでしょう」

「他にレジャーが無い時代の、楽しみの一つだったかも知れないね。姫木平で生きてる我々のように」

「じゃあセニョール、さっそく星空ウォッチングに出かけようよ」

「何ッ、ウォッチング! ちょっと待った、ウーン、外は寒いぞ、今夜は止めとこう」

と、コタツに入って晩酌を始めました。

 

 

カラ元気 (12月 更新分)

先日、寮友70名が全国から京都に集まり一晩お酒を呑みました。

多くは40年ぶりの再会なので、判別し難いくらい変わり果てていました。

まず「寮で気勢を上げよう」ということで、むかし懐かしい寮に行きました。

周辺は相当変わっていましたがそれでも入り浸った喫茶店や夜中にたたき起こした酒屋などは残っていました。

寮では現役諸君が『OB対応委員会』なるものを組織して我々を迎えてくれました。

先輩面して無茶苦茶をされては困るとの考えからでしょう。

一応、寮では紳士的に振る舞い平穏に交流を深めました。

夕方宿泊先のホテルに移動し、夜はいよいよ宴会です。

過っては暴れまくった寮生、呑むほどに酔うほどに段々と地が出てきました。

宴会が終わってからもルームで酒を呑み、エレベーターホールで寮歌は唄う、奇声を上げて廊下を走り回る、挙句の果ては寝てる部屋のドアをドンドン蹴っ飛ばして起こす等、無茶苦茶をし出しました。

そして、とうとうドアを壊してしまいました。

通常、フロントは夜勤が2~3人ですが

この夜は何が起こるか分からないので5~6人詰めていました。

一般のお客さんも「ヤクザのグループでは・・・」と恐れて廊下に出ませんでした。

よくぞ警察が来なかったものです。

また、腹が減ったといっては寝巻きにスリッパで繁華街に出かけてラーメン屋を探す、ちょっとオシャレな奴は「いくら何でもスリッパでは・・・」と足だけ革靴に履き替えて出かける、朝食はといえば、寝巻きのままレストランにドドドッとなだれ込むから支配人も止めようがない、ボケて、シティーホテルを学生寮と間違えているから始末におえません。

ボビーは「いい歳をして、寮生には社会常識というものがないの?」と、ビックリして云いました。

「アー、“自由と自治”を重んじて、“真実とは何か”を追究してきたから、社会常識とか社会通念で物事を考えないんだよな。

バカ騒ぎをしても大麻は吸わないから、マアーいいだろう」と、セニョールはうそぶいていました。

「幹事さんは準備だけでなくて後始末も大変だね」

「ウン、みんな幹事には『いい時間を過ごさせてもらった、ありがとう』と感謝していたな。

そして2年後の再会を約束して別れたぞ」

「京都はいい迷惑だね。その内、『○○大学○○寮のOB会は泊めないように』 とふれ状が回るんじゃあないの」

血気盛んだった寮生には、60才を過ぎても“カラ元気”だけはあるようです。

 

 

トラック専用道路 (11月更新分)

 ガソリンの値上がりにより高速道路にちょっとした異変が起こっています。

 先日、法事で鳥取に帰って来たときのことです。

 長距離なので往復とも、高速の深夜割引(現在は半額)を利用しました。

 即ち夕方に出発・高速走行し、午前0時を少し廻ったときに目的地のICを出ます。

 深夜割引き開始の午前0時を1秒でも過ぎていればこの割引が適用されるからです。

 異変は長野に帰るときに見ました。

 夜10時ごろ名神から中央高速に入りましたが、突然周りがトラックばかりになりました。

 走行車線は80キロ、追い越し車線は90キロで2車線をトラックに塞さがれ、100キロ以上で走りたくても追い越しができませんでした。

 また、サービスエリアもトラックが溢れ本線への合流車線にまではみ出して縦列で駐車していました。

 高速バスの停留所付近もトラックが列をなして休んでいました。

 何処も彼処もトラック、トラックで乗用車はわずかでした。

 「ガソリンの値上がりで運送業者も深夜割引が適用される時間帯に集中するのは仕方ないけど、こうまでトラックが横行するとちょっと問題だな。

 100キロ以上出したくても出せないしサービスエリアからの本線合流も危険だし、高速バスだって困るだろう」と、セニョールが云いました。

 「中央高速の夜間・深夜は“トラック専用道路”みたいだね。スピードの文句は言えないけど、合流や高速バス問題はちょっと困ったね」と、ボビーも云いました。

 「警察はセニョールの良心的なスピード違反を摘発するよりこういう問題にもっと取り組むべきだ」

 「そうだね、いま休日の高速料金の大幅値下げが検討されているけど値下げはいいけど、渋滞対策も考えておかないとね」

 なんとも難しい世の中になったものです。

 

 

麻酔に勝ったセニョール (10月更新分)

先日、セニョールは大腸のポリープ切除手術を受けました。

 良性だったので1泊2日の入院でした。

 簡単とは云え、手術ですから麻酔で睡眠状態にします。

 手術台で麻酔をかけられるとき、セニョールは一つの実験を試みました。

 麻酔に勝つか、負けて眠るかをです。

 そこで目をカーッと見開いて、“麻酔に負けるか”と意識を集中しました。

 すると麻酔がきかなくなり眠りませんでした、麻酔に勝ったのです。

 不気味に目を見開いているセニョールを見て、医師は「おかしいな、麻酔がきかない、これ以上投与することもできないし、

 仕方が無い、マアー命に別状はない、ちょっと痛いが始めるか」と、呑気に始めました。

 それからが大変です。

 「痛いッ! おい、ちょっと待て、麻酔がきいてないぞ、痛い、痛い、わしは生身の人間だぞウーン、ウーン、痛いぞ、イタタタタッ、もっとやさしくやってくれ、この人殺しーッ!」

 セニョールが手術台の上で暴れるので、看護師は応援を呼んで必死に押さえつけていました。

 30~40分かかったでしょうか、やっと終わったときにはビッショリと汗をかいていました。

 「こんな非人道的な扱いを受けたのは初めてだ、二度とこの病院には来んぞ」と、セニョールは悪態を並べました。

 ボビーは、「バカだなー、ホントにバカだなー、セニョールは麻酔に勝って何になるの、痛い思いをするだけじゃあない。

 ガマンするんならまだしも、『痛い、痛い、人殺し-』などと騒いで、みっともないったらありゃーしない。

 やることなすこと、もう恥ずかしくって面倒を見切れないね」と、軽蔑の眼で云いました。

 セニョールも“ちょっとバカなことをしたかな”と反省しました。

 皆さんはこのような実験をしない方がよいと思います。

 痛い思いをするだけですから・・・。

 

 

疑問解明 (9月 更新分)

自動車教習所に係わったこの1年、ヒマなセニョールは一つの疑問を抱いていました。

 “自転車にも乗れない人が「バイクの免許を取りたい」と云ったら教習所はどうするだろう?

 入校を断るのか? それとも自転車の乗り方から教えるのか?”

 常識的には“そういう人はいないだろう”と片付けられるが将に、そういう非常識な人に出会いました。

 教習の待ち時間窓からコースを眺めていると、フラフラ、ガッチャン、オットットットッ、ガッチャンと転んでばかりいる人がいました。

 たまたま同じ時間になったとき、その人が話し掛けて来ました。

 「私は自転車にも乗ったことがないので苦労しています」と。

 歳の頃は60才前、セニョールを見て同類がいると安心したのでしょう。

 転んでばかりいるので足はアザだらけでした。

 セニョールは見兼ねて助言しました。

 「足にプロテクターを着けた方がいいですよ。家で自転車の練習をしないといくらお金が有っても足りませんよ」と。

 教習台帳を見ると、既に30時間くらい判がベタベタ押されていました。

 教官はというと、何をどう教えていいか分からないという様子でした。

 何日か後出会うと、「プロテクターと、50ccのバイクを買って練習しています」と、親しみを込めて話しました。

 また何日か後、セニョールの検定日に出会いました。

 「もう、卒業されているかと思いました」と、安心したように話し掛けて来ました。

 カチンと来たセニョールは生返事をして検定のシミュレーションに集中しました。

 終了後、セニョールのところに来て「どうでした?」と、余計なことを聞きました。

 「一本橋を落ちてダメでした」と云うと、「残念でしたね、また頑張ってください」と、安心したように帰って行きました。

 またまた、カチンと来たセニョールは「俺は大型、アンタは小型、格が違う、俺に付き纏うのはもう止めてくれ」と、遠吠えしました。

 ボビーはこの話を聞いて、「セニョールは“最高齢免許取得者”だけど、その人は多分“最多教習時間記録者”だね。

 どちらも“年寄りの冷や水”だけど、思い込んだら実行する、偉いと思うよ」と、云いました。

 結局、自転車に乗れない人でも最初からバイクで練習させる様です。

 

 

遂に大型 (8月更新分)

今、セニョールはバイクにハマっています。

 昨年「普通自動二輪」(400cc以下)の免許を取ったことは書きましたが、今年は「大型自動二輪」(無制限)を取りました。

 教習所では今回もかなり暴れました。

 エンストはする、バイクは倒す、パイロン〔注1〕は飛ばす、波状路〔注2〕は無茶苦茶、一本橋は落ちる、などなど・・・。

「この調子じゃあ卒業検定はいつのことやら」と、ボビーは心配しました。

 そこはセニョール、いつもの屁理屈が活躍しました。

 「一本橋はなぜ幅が30センチなの?、50センチでもいいんじゃあないの」

 「いや規則で決まっていますので」

 「いくら規則でも根拠があるでしょう、その根拠を教えて」

 「・・・・・・・・・・・・」

 波状路は踏切から線路を走るための練習なの?」

 「とんでもない、凸凹道をバランスよく走るための練習です」

 「だったら凸凹道を作ったら」

 「・・・・・・・・・・・・」

 「スラロームは車を縫いながら走る練習なの?」

 「そんな危険走行をしてはいけません。交差点などバランスよく小回りするための練習です」

 「だったら交差点で練習したら」

 「・・・・・・・・・・・・」

 セニョールは教官より年上ですから言いたい放題でした。

 教官は“このウルさいオヤジは早く手離れせんといかん”と思ったのか順調に検定に進みました。

 「どうだボビー、今回は順調にきたぞ。大型バイクを先に買って、練習した甲斐があったな」と、セニョールは自慢しました。

 「何が順調だよ、教官もウンザリしてたよ。“マアー、検定で落とせばいい”と考えたんじゃあないの」と、ボビーは云いました。

 案の定、検定では“立ちゴケ〔注3〕して中止”、“一本橋から落ちて中止”と散々でした。

 検定内容があまりに悪いので、夜中に目が覚めると“永遠に合格しないのでは・・・”と、不安に駆られました。

 この不安を追い払い強気で勝負し、3度目でやっと合格しました。

 晴れて免許を取ったセニョールは“本格派ライダー”としてデビューしました。

 リッターバイク(ゼファー1100)のエンジン音と重量感を楽しみながらビーナスラインを走っています。

 

〔注1〕 パイロン=工事中の道路によく置いてあるトンガリ帽子のようなモノ  

〔注2〕 波状路=線路の枕木を並べたようなコースをゴットン・ゴットン走る 

〔注3〕 立ちゴケ=停止したときバランスを崩しバイクを倒す、大型にはよくある 

 

 

 セニョール青春記 ≪減らないシャンプー≫ (7月更新分)

 今年も寮OBが集まって来ました。

 今年は「・・・大学大成寮OB会」なるシンボル旗を作りましたので大いに盛り上がりました。

 今、セニョールは大型バイクの免許取りに通っています。

 そこで今年のメッセージは

 「行くぞッ、 死ぬまでチョイ悪オヤジ!」でした。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 寮生は汚い人種です。

 汚さにはカラッと埃っぽい“健康的な汚さ”と、病原菌がウヨウヨいるような“病的な汚さ”とがあります。

 セニョールは前者の方でした。

 面倒くさがり屋のセニョールは、1~2ヶ月シャンプーしないことはザラでした。

 たまにシャンプーするときは石鹸を頭に擦りつけて洗っていました。

 でも時々人並みにシャンプーで洗いたくなりました。

 ある日、外出中の寮生の部屋を探し回り、シャンプーを借りました。

 汚れきった髪は2度3度シャンプーしても泡立ちません。

 4、5回目にやっと泡立ち、マリリン・モンローのようになりました。

 その代りシャンプーは相当減っていました。

 黙って借りた以上、元に戻しておくのが礼儀です。

 そこで蛇口からお湯を入れて薄めて誤魔化しました。

 帰って来て風呂から上がった彼に「オー、シャンプーして男前になったな」と、声を掛けると

 「どうもシャンプーの泡立ちが悪くなったような気がする」と、首をかしげて云いました。

 セニョールは可笑しさを噛み殺して

 「そうか? 安物を買うからだろう。安物は髪が抜けるぞ、もっといいヤツを買え」と、追い討ちをかけると「ウーン、そうするか、髪は大事だからな」と、納得したようでした。

 「ヨシ、じゃあすぐ買いなおせ、残ったシャンプーは俺が使ってやるから」

 と云うと、彼もそこまでは騙されず「これが無くなってから買うよ」と、抵抗しました。

 「“減らないシャンプー”か、セニョールのイタズラは面白いね。それにしても頭がかゆくてガマンできないでしょうに」と、ボビーが云うと「そりゃーかゆい、かゆくてたまらん。が、それを必死でガマンしていると段々と何でもなくなる。♪ 心頭滅却すれば ~ 火もまた涼し ~♪ 」と、訳の分からない唄を歌っていました。

 そのシャンプーはその後も使われて、益々薄くなりました。

 

 

パズル (6月更新分)

ある朝、ガラガラ、ドッドッドッドッ、ドッスン、ドッスンという地響きにボビーはビックリして外に飛び出しました。

 するとモウモウと上がる土煙の中でセニョールが悠然と立っていました。

 ダンプカーが岩を下ろしたのです。

「セニョール、また何するの? 庭が岩だらけじゃあない」と、ボビーが云いました。

 「石垣で斜面を盛土して駐車場を増やすんだ」と、セニョールが答ました。

 「フ~ン、またエラい事を思い付いたんだね。マアー、腰を痛めないように気を付けてね。ボクをアテにしないでよ、忙しいんだから・・・」と、ボビーは引っ込みました。

 それでも気になるボビーはソーッと出て見ると

 『 腕を組んでウロウロしてる。オッ、岩を並べ始めた、アッ、折角並べた岩を転がした。また腕組みしてウロウロしている、これで1日目が終了。

 2日目また岩を並べ、やっと2段目を積み始めた。

 気に入らないのか積み上げた岩を崩した。

 アッ、怒って岩を蹴った、痛そうにケンケンしている。

 セニョールもバカだなー、岩の方が強いに決まってるじゃん。

 今度はイスを持ち出して座った、長考モードに入ったな。

 3日目、4日目・・・も積んでは崩して岩の中をウロウロしてる 』という具合でした。

 何日経っても進まない工事に、近所の人もボビーに聞きました。

 「お宅のセニョールは一体何をしてるの?噴火のように岩はゴロゴロしているし、いつ見ても難しい顔をして、座ってばかりいるけど」

 「ウ~ン、実はボクもよく分かんない。岩を積んだり崩したりして遊んでるみたい」とボビーも返答に困り、セニョールに聞きました。

「セニョール、もう何日も経つよ、駐車場はいつ出来るの?」

 「サアー、いつかなー、なんせ万里の長城を築くようなもんだからな。石組みは難しい。並べた岩と積む岩のデコボコが合わないと崩れるからなー。これは高度な “パズル” だ、バカじゃあ出来ないぞ」と云って、また腕組みをしました。

 そして暗くなると「ボビー、ビール」と云って、さも1日仕事をしたような顔をして、エラそうに呑んでいました。

 駐車場はいつ出来上がるのでしょう。

 

 

軽トラの愚痴 (5月更新分)

雪が解けるとガーデニングなど外仕事が多くなります。

 そこで活躍するのが軽トラです。

 軽トラは“ 動く・乗る・運ぶ ” に必要な最小限の仕様で余分なデコレーションは付いていません。

 軽トラこそ車の“原点”です、日本の“名車”です。

 でも、軽トラには軽トラなりに不満があります。

「みんな重宝がって乗ってくれるけど、少しもボクを大事にしてくれない。イバラにからまれても、無理やり山の中を走る。

 ― あちこちキズがついて痛いんだよな ―

 板バネが逆ゾリしても、まだ荷物を載っける。

 ― 重くってギックリ腰になりそうだよ ―

 アチコチ壊れても、動けば修理もしてくれない。

 ― みすぼらしいったらありゃあしない ―

 ドロドロに汚れても、洗車もしてくれない。

 ― たまにはアカを落としてサッパリとしたいよな ―」

 「それにいくら原点だ、名車だといっても今の時代、クーラー、パワステ、リクライニングくらいは標準仕様にして欲しいね。」と、愚痴を並べました。

 ボビーは同情して

 「そうだよねー、維持費は安いし、オールマイティーなんだからもっと大事にしてあげないと可哀そうだよね。メーカーもユーザーも“作業車、作業車”とバカにしないで、“万能車”として評価し直すべきだよ。それにこれだけ燃料代が上がってくると

 ますます活躍の場が広がるんだから」と、云いました。

 軽トラは「セニョールなんか『 燃費、燃費 ・・・』と云ってボクを酷使するんだよ。昼寝ばかりしてるエステマ君がうらやましいな。ボクの気持ちを分かってくれるのはボビー君だけだね」と、目を潤ませて云いました。

 セニョールはこれを聞いて、“ウ~ン、あまり高級になるのも困るけどこの夏にはクーラーを付けてあげようかな”と、思いました。

 

 

追っかけ (4月 更新分)

 セニョールのホームゲレンデは勿論、エコーバレーとブランシュです。

 両スキー場とも3月末でリフトが止まりました。

 雪はたくさんあるのに誰も滑っていないゲレンデは“ ツワモノどもが夢のあと ” の感があります。

 特に今年は「1級検定」のためによく練習したので一抹の寂しさを余計に感じるのかも知れません。

 (3月に受けた検定はダメでした、来年に持ち越しです)

 来年のために1級必勝なるDVDを買い、見ているとまた練習したくなりました。

 そして「あそこのリフトはまだ動いている」と聞いて、出かけることにしました。

 早速今日2日、滑りに行きましたが雪質の良さにビックリしました。

 先日降った雪がこの間の冷え込みでトップシーズン並みのコンディションになっていました。

 「ボビー、おしい、まだこんなに雪が良いのに・・・、ヨシ、“ リフトをたずねて何千里 ” だ。この切ない思いを察してくれ」

 と、セニョールが云いました。

 「なにが何千里だよ。車で30分あれば行って帰れるじゃあない。マアー、リフトの “ 追っかけ ” であることは間違いないけどね」と、ボビーが云いました。

 「追っかけとは、アイドル歌手などを追いまわすことを云うだろう。セニョールのはそんな軽いもんじゃあないぞ。必死なんだッ!」

 「必死なのはみんな同じだよ。軽いか重いかは人それぞれの価値観が決めるものでセニョールが決めるものじゃあないと思うよ。大体セニョールは自己中心的過ぎるよ」

 「そうかなー、軽い重いは客観的にもあると思うけどなー。いや、ある、絶対ある、俺は間違っていない」と、セニョールは意地を張って云いました。

 そして明日も、明後日も行くと張り切っています。

 セニョール家では、まだまだスキーシーズンは終わりそうもありません。

 

 

またまた 「Oh  My  God ! 」 (3月更新分)

 セニョールは、今、スキーの猛練習をしています。

 全日本スキー連盟(SAJ)の検定「1級」を取る為です。

 先日「2級」は取りましたが、1級はそう簡単には合格させません。

 そこで仕事はセニョーラに押し付けて、ほとんど毎日滑っています。

 課題は大、中、小回り、フリー滑降、不整地滑降の5種目です。

 この中で一番厄介なのが不整地です。

 深雪、ボコボコ、コブなど日々変わる雪面を滑れなくてはいけません。

 セニョールは圧雪・整備されたバーンに慣れているので不整地を滑ると、途端に初心者になります。

 これまで吹雪の日は休養日でしたが、今は不整地の練習になるので張り切ってゲレンデに向かいます。

 そして7転八倒しながらも 「Never  Give  Up!」 と叫びながら練習しました。

 ところが、突然 「Oh  My  God !」 と叫んで腰くだけになりました。

 練習をし過ぎたのか腰を痛めてしまったのです。

 症状はギックリ腰と同じです。

 昨シーズン、このタイトルでギックリ腰になったことを話しましたがまたまた今シーズンもなってしまいました。

 もう2週間も滑っていません。

 セニョールにとっての2週間は一般のスキーヤーの1年分になります。

 こんなことでは3月の検定もおぼつかなくなりました。

 「セニョール、練習のし過ぎだよ。ガムシャラにやればいいというもんじゃあないでしょう。もっと歳を考えて、合理的にやらないと」と、ボビーが云いました。

 “ボビーも大人になったな”と思いながらも「イ~ヤ、歳は関係ない。オリンピック選手でも皆どこかに故障を抱えながら頑張っているんだ。腰さえ治ればまた練習をするぞ」と、相変わらずカラ元気だけは旺盛です。

 サアー、いつゲレンデに出れるのか。

 検定はどうなるのか。

 

 

AB型 (2月更新分)

ただ今、スキーシーズン真っ只中です。

 セニョールは3年前、長年愛用したノーマルスキー(昔の長板)から今風のカービングスキーに買い換えました。

 ショップに行き、色々なメーカーのスキー板を物色する中で“サロモン” の板が気に入りました。

 中級向け、上級向け、サイドカーブの度合いなど性能を検討し、“ヨシ、これにしよう” と決めました。

 セニョールは勇んで家に帰り「ボビー、サロモンのいい板を買ってきたぞ」と、梱包を開けて、目を細めて、板を撫でていました。

 「いい板が手ごろな値段で買えてよかったね」と、ボビーも相槌を打ちました。

 早速、新品の板を担いでゲレンデに向かいました。

 リフトに乗って満足そうに見ていましたが、“アレ?”と首をかしげました。

 板に刻んであるローマ字はどう見てもサロモンとは読めません。

 よくよく見ると “ロシニョール” と刻んでありました。

どうやら横に値段も安くて良さそうな板があったので ロシニョールの板をサロモンと思い込んで買ったようです。

 「エーッ! リフトに乗るまで気付かなかったの?、あれだけ撫でていたから分かりそうなものだけどなア。AB型でしょう。

 “思い込んだら命がけ”で目が見えなくなるんだから」

 「ウ~ン、ちょっと失敗したかな。でも、ロシニョールも一流メーカーだから、まアー、いいか」

 と、慰めていました。

 今年また1本買いました、今度は間違いなくサロモンです。

 

≪スキーをあまりしない人へ≫

 サロモン、ロシニョールはスキー板の一流メーカーです。

 

 

湯たんぽ・ボビー (2008年 1月更新分)

夏は涼しいところを探して転々と寝ているボビーも冬になるとセニョールの布団の中にもぐり込んで来ます。

 先日、セニョールはカゼをひいて2日間寝込みました。

 ボビーがいると暖かいのでセニョールはボビーを引っ張り込んで寝込みました。

 最初は喜んで昼寝をしていたボビーもだんだんと寝飽きてきました。

 ゴソゴソと布団から抜け出ようとするとセニョールに引き戻されました。

 “どうして? ボクは起きたいのに” と、また出ようとするとまた引き戻されました。

 結局、ボビーが布団から出るのを許されたのは朝と夜の食事のときだけでした。

 2日間付き合わされて、さすがのボビーもウンザリしました。

 「今日は気分が良くなった、ボビー、起きるぞ」と云うと、喜んで布団の上をぴょんぴょん跳ね回りました。

 ボビーは腫れぼったい目をして云いました。

 「セニョール、どうしてボクを閉じ込めたの?」

 「ボビーは “湯たんぽ” のように暖かいからな」

 「エーッ! ボクを湯たんぽ代わりにしてたの、ひどいなー。ボクだって、走り回ったり、オシッコやウンチもしたかったのに」

 「すまん、すまん。だけど、今、石油がドンドン値上がりしてるだろう。ボビーが 湯たんぽになってくれたら暖房費を節約できるから助かるんだよ」

 「フーン、それで湯たんぽがよく売れてるの。昔の生活道具が見直されてきたんだね。ウン、分かった、ボクもドンドン発熱して家計を助けるからね」

 「頼むぞ、ボビー、頑張ってこの冬を乗り切ろうな」

 ボビーとセニョールは、ピッタリ寄り添って寝ています。

 

 

ブルブルッ! (12月更新分)

紅葉が終わり、森が灰褐色に変わると大陸から寒気が下りて来て雪が降り始めます。

 毎年この時期になると、ブルブルッと震えて一番寒く感じます。

 冷え込みは0℃位で厳寒期の-10~-20℃に比べれば大したことはありませんが、体がまだ慣れていないので寒く感じます。

 その反対に厳寒期の冷え込みに体が慣れると0℃の気温は暖かく感じます。

 寒い日はコタツで丸くなり、小春日和の暖かい日には、外に出て冬ごもりの準備をします。

 が、ボビーだけは窓際の陽だまりで心地よさそうに昼寝をしています。

 「ボビー、昼寝ばかりしてないで手伝ってくれよ。キツツキやリスやモグラも冬ごもりの準備に忙しそうにしてるぞ」

 「何を手伝うの?」

 「落ち葉の掃除、暖炉の薪作り、野菜の保存、イルミネーションの設置、レンタルスキーのチェックなどいっぱいあるんだから」

 「落ち葉はどうするの?」

 「畑に持って行き、土の中にすき込み、来年のための土作りをするんだよ」

 「薪作りは?」

 「チェーンソーで切って、斧で割って、木小屋に積み上げるんだよ。1~2年乾燥させないと燃えないからね」

 「野菜の保存は?」

 「ジャガイモと大根は半分を土の中に埋めるんだよ。そうすると春までみずみずしく鮮度を保つからね。切干し大根も作るかな。ハクサイは新聞紙にくるんで倉庫に保存し、浅漬けにもするかな」

 「イルミネーションは?」

 「雪の中のイルミネーションは幻想的できれいだから木枯らしで手がかじかむけど、頑張って飾るんだよ」

 「じゃー、レンタルスキーは?」

 「ウン、エッジの錆落とし、ビンディングのチェック、自分の板にはワックスがけをするんだよ。その他、建物や庭木の雪避けなど・・・」

 「フーン、やることが沢山あって大変だね。カゼをひかないように、頑張ってね」と、ボビーはブルブルッと震えて家の中に入りました。

 「アー、ありがとう。ウン???  アッ! ボビー、ボビー、手伝ってくれよ」

 冬の初めの一コマでした。

 

 

 スペインの奇妙 (11月 更新分)

スペインには奇妙なことがいろいろあります。

 その中でも 今日は“ 建築物の奇妙 ” についてお話ししましょう。

 それは、「様式的奇妙」と「宗教的奇妙」に分かれます。

  様式的奇妙 ” とは、建築中に様式が移り変わり結果としてミックスされた物が出来上がったということです。

 スペインは “ 石の文化 ” ですから、完成までに何百年もかかった建築物はザラにあります。

 これに代表されるのがバレンシアの “ 大聖堂 ” です。

 13世紀に建築が開始され南玄関はロマネスク様式、その後完成した聖堂・鐘楼はゴシック様式、18世紀初頭に造られた正面玄関はバロック様式、そして同世紀末に施された装飾は新古典主義といった具合です。

 なんとも不統一で落ち着かない、お尻がムズムズするような建物です。

 “ 宗教的奇妙 ” とは

 イスラムとカトリックの “ 混在 ” です。

 両者の “ 融合 ” はスペインの随所に見られるところですが建築物で云えば “ 混在 ” です。

 セビーリャの “ ヒラルダの塔(鐘楼)”やコルドバの “ メスキータ(大聖堂)”などがこれに当ります。

 イスラムの塔やモスクをそのままカトリックの教会に転用しています。

 特に、メスキータは馬蹄形アーチが林立するモスクの一番奥にカトリックの祭壇がありなんとも不思議な宗教的空間を醸し出しています。

 「スペインは無茶苦茶な国だな。マア、それが面白いところだけどね」と、セニョールが云いました。

 「“ 木の文化 ”を持つ日本人から見れば無茶苦茶に見えるかも知れないけど、 “ 石の文化 ” を持つ彼らには当然のことかも知れないよ。だって、石は耐久性が高いし、壊すことも造ることも大変だもの」

 「だけど宗教のシンボルでもあるカトリック教会がモスクというのは、どうも解せん」

 「その辺がスペイン人の大らかなところかな。それとスペインはイスラムに800年間も占領されていたからイスラム文化を消し去れないんだよ」

 ボビーは続けて

 「西欧人がよく 『 日本は神秘的な国だ 』 と云うけど、その逆でお互いに異文化をなかなか理解できないんだよね」と、久しぶりにウンチクを云いました。

 「スペインはガウディやピカソやダリなど気違いじみた芸術家を輩出する風土だから、マアー、いいか。そろそろ気違いじみた風土が恋しくなったな」と、もう5年も行っていないセニョールは“ スペイン虫 ” がムズムズと動き始めたようです。

 

 

サイドカーとは (10月更新分)

(最近やっとセニョーラが乗りました)


 サイドカーは自動車が作られたと同じ頃安価な乗り物として作られ、第1次、第2次世界大戦では軍用車として大量に生産されました。

サイドカーの操縦方法は、バイクとは全然違います。

 バイクはバンク(傾ける)させてコーナリングをしますからハンドル操作も軽く出来ます。

 が、サイドカーはバンクさせることが出来ないのでその操作が非常に重いです。

 スピードを出せば出すほど直進力が増し、ハンドルが切れなくなります。

 勢い、膨らんだり、センターラインをオーバーします。

 したがって、カーブの手前で十分に減速し、力1杯ハンドルを切ります。

 この特殊な操縦方法で、肩、肘、手首が腱鞘炎になります、本当です。

 また、時々バイク(単車)に乗っている気分になり、側車が付いていることを忘れます。

 すると、左に寄りすぎ側車が障害物にぶち当たります。

 1度、盛土された路側帯に乗り上げ、ひっくり返りそうになりました。

 サイドカーは、バイク以上に危険な乗り物です。

 「ほら見ろ、ボビー、“一本橋” など何の役にも立たないだろう。授業料だけ沢山払わせて、肝心なことを何も教えてくれていない」と、セニョールは怒りました。

 「そうだね、教習所もサイドカー・コースを作るべきだね。ケガをしないように、一からしっかり練習してね」と、ボビーは云いました。

 誰かを乗せて走りたいセニョールは周りに声を掛けますが、怖がって誰も乗ろうとしません。

 皆「1年後に乗せていただきます」と、丁重に逃げます。

 「ボビー、頼むから一緒に乗ってくれ」と、セニョールが哀願しました。

 「困ったなア、ボクもまだ死にたくないし、困ったなアー。アッ、そうだッ! 畑に乗って行ったら」と、ボビーも逃げました。

 そこで畑に乗って行き、カボチャやジャガイモを乗っけています。

 ボビーは、セニョールと目を合わせないようにしています。

 

≪ 追  記 ≫

 最近、大型バイクにも乗りたくなり、1100ccを買ってしまいました。

 来春は本格的なライダーとして、デビューします。

 そこで一句  “ 還暦を 過ぎてバイクで 狂い咲き ”

 

 

“一本橋” のバカヤローッ! (9月更新分)

 “自転車に乗れたら簡単だろう” と気軽に挑戦しましたがどうして、どうして、随分と苦労しました。

 重量200キロ前後のバイクをバランスを取りながら運転するのは大変なことです。

 特に “一本橋” 走行がそうです。

 幅30cm・長さ15mのブリッジをユックリと渡らなければなりません。

 何度練習しても落下し、追加教習を受けても成功率は30~40%でした。

 指導員は「遠くを見て」と云いますが、遠くを見ても落ちるものは落ちます。

 大幅に予算オーバーしたセニョールは

 「もう検定を受けさせてくれ。何度練習しても、落ちるものは落ちる。検定で本番一発、落ちなければ合格するだろう」と、指導員に文句を云いました。

 「イヤ、90%の成功率がないと検定で渡れるものではありません。もう少し練習してください」と、教習時間を延ばそうとします。

 「実車で谷川の一本橋を渡るのか。だいたいサイドカーに一本橋など関係ないだろう。それとも何か?四輪免許にも一本橋を渡らすのか。60年修羅場をくぐって来たんだ、あとは “度胸” で渡ってみせる。」と屁理屈を並べ、とうとう指導員をねじ伏せました。

 そして検定日、一本橋を2メートルも渡らない所でゴットンと落ちました。

 落下すると、その場で検定は中止・不合格です。

 プライドをキズつけられたセニョールは「一本橋のバカヤローッ!、恥をかかすなッ!」と、怒りました。

 「セニョール、度胸だけでは渡れないよ。もっと追加教習を受けたら」と、ボビーが心配そうに云いました。

 「いいや、もう金が無い、“根性” で渡ってみせる」と、今度は根性論を引っ張り出しました。

 2度目の検定に向かう途中、セニョールは冷静に考えました。

 いつも右側に落下するので“ 背骨が右に曲がっているかも・・・、ヨシ、今度は左に曲げて運転しよう” と。

 そして一本橋、乗った途端グラッときました。

 セニョールは必死で身体をねじってバランスをとりました。

 今度は反対側にグラッときました、また身体をねじりました。

 タコのように “へ” の字、“く” の字になりながらも、遂に根性で渡り切りました。

 合格しました。

 「なんでも60歳を過ぎての免許取得はギネスものだって・・・、指導員もビックリしてるんじゃあないの。

 やっぱり 人生には“度胸” と “根性” も必要なんだね」と、ボビーが感心して云いました。

 セニョールも 人生で2番目の大苦労をしたように思いました。

 ― 1番目は2浪した大学受験 ―

 「セニョール、その歳でよく頑張ったね」と、ボビーに誉められて勢いづいたセニョールは「まだまだ若い者には負けんゾーッ!」と、天に向かって雄叫びを上げました。

 

 

また増えた “遊び” (8月更新分)

また遊びが一つ増えました、サイドカーを乗り回すことです。

 何事も形から入るセニョールは免許も無いのに、ヘルメット、革の上下、

 夏用のメッシュの上下、手袋、ブーツ等は勿論、サイドカーまで買ってしまいました。

 「60歳を過ぎてのバイクは無茶だ、無謀だ、自爆テロだ、気違いに刃物だ」と、周りから色々と忠告を受けましたが、もう後には退けません。

  “自動二輪” の免許を取るため学校に通いました。

 最初の1時限目は、まず倒れたバイクを起こすことから始まります。

 バイクは200キロ前後あるので重く、起こすのに要領が要ります。

 ギックリ腰にならないよう、「ドリャーッ!」と気合を掛けて何とか起こしました。

 次にバイクに跨るのですが、足の短いセニョールは膝がシートに引っかかりバイクもろ共ひっくり返りました。

 そして、いよいよ運転です。

 指導員が「ハーイ、ここまで来て、止まって」と

 10m位先を走っては止まり、走っては止まりながら誘導しました。

 バイクがほとんど始めてのセニョールは第1コーナーを回るとき

 突然アクセルをふかし暴走し、指導員をかすめて植え込みに突っ込みました。

 轢かれそうになった指導員は恐怖に顔がこわばりながらも職務上、「大丈夫ですか?」と、寄って来ました。

イタズラ好きのセニョールは “これは面白い”  と思い、ときどき “ブルン、ブルン、バリバリ” とカラぶかしをすると

 前を走っていた指導員は逃げ腰になってサッと振り返りました。

 昔は生徒が怒鳴られたり、蹴られたりしていましたが、今は指導員がイジメられる時代です。

 「セニョール、悪いよ、指導員をからかうなんて」と、ボビーが云いました。

 「ウン、ちょっとイタズラが過ぎたかな。その指導員はその後、俺の教習には出て来なくなったからな。昔の四輪のときのカタキをとってやったんだ」と、セニョールはイタズラっぽく笑いました。

 「どうして暴走したの?」

 「よく分からん、コーナーを回るときは体が傾くから右手首が回ってアクセルをふかすことがよくあるらしい」

 「ところで、 “二輪” と “四輪” とどっちが難しい?」

 「そうだな、バランスを要求される分、二輪の方が難しいな。特に30センチ幅の “一本橋” を渡るのが難しい。サー、早く取ってサイドカーを乗り回すぞ」と、忙しくなる夏までに取ってしまおうとセッセと通いました。

 が、バイクをよく倒すセニョールにはベコベコの一番ボロバイクが当てがわれ、ガックン、ガックン、エンストしてスムーズな走行がなかなか出来ませんでした。

 どうやら「年寄りが来た、何時間も乗せて儲けよう」と、カモにされたようです。

 思った以上に苦労したお話しは、来月しましょう。

 

 

セニョール青春記 ≪ アルバイト ≫ (7月更新分)

今年も寮OBが集まって来ました。

 人間60才は老いの第一関門でもあり、また、残りの人生は “おつり” です。

 そこで今年のメッセージは、「残躯 天の許す処、老醜と思うな」、「踊れや遊べ、どうせ “おつり” の人生だ」でした。

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仕送りが十分でなかった寮生は皆それぞれにアルバイトをしていました。

 セニョールもホテルやビアガーデンの皿洗い、深夜の乾燥食品作り、土方など色々なバイトをしました。

 中でも、京都らしくて実入りのいいのがエキストラです。

 京都には東映、大映などの撮影所がありました。

 セニョールは萬屋錦之助、高倉健、勝新太郎、市川雷蔵など一世を風靡した名優と競演し、スクリーンに登場したのです。

 ロケの時は50~60人の学生が郊外の山の中にバスで連れて行かれました。

 そして雲間から太陽が出るのを待ってワンカット、ワンカット撮影しました。

 この気の遠くなるようなウットウしい仕事にウンザリしたセニョールは撮影現場から抜け出し、近くの山の中で昼寝をしました。

そして、お昼には弁当が出るので現場に下りて行き、堂々と食べました。

 一緒に来た友達は怪訝そうな顔で「お前の顔を見なかったな」と、云いました。

 セニョールは「アー、一番後ろの方にいたからな」と、誤魔化しました。

 弁当を食べたら爪楊枝をくわえて、また山の中に雲隠れしました。

 山の上から現場を見下ろすとみんな太陽が出るのを待ち、出ると指示にしたがって左右に動いていました。

 セニョールは 「俺の分まで頑張れよ~」 とエールを送り、また昼寝をしました。

 そして夕方、帰り支度が始まると急いで下りて行き、一番最初にバスに乗り込み、また寝ました。

 撮影所に帰り、日当(800~1000円)を貰うとみんなで居酒屋に行きワイワイ騒いで、タクシーで帰りました。

 昼寝をしてお金が貰えるとは、なんとも大らかで優雅な時代でした。

 それ以来、エキストラと聞けば腹が痛かろうが、熱が出ようが、欠かさず行き昼寝をしました。

 「セニョールは本当にイタズラが好きなんだね。ところで 『 残躯 天の許す処 』 ってな~に?」

 「ウン、これは “伊達正宗” の言葉で

 『 少年 馬上に過ぎ  (若い頃は戦乱に明け暮れた)

 世 平らかにして白髪多し  (やっと奥州の地を平定したときは白髪頭になっていた)

 残躯 天の許す処  (生き長らえ老いぼれになってしまったが、天も許してくれるだろう)

 楽しまずんば これ如何にせん (残りの人生を思う存分楽しまないでどうする!) 』

 の一節なんだ」

 「フーン、それで 『 残躯 天の許す処、老醜と思うな 』 になったんだね。“余生を堂々と生きて、楽しんで、死ね” と団塊の世代を励ましたんだね」

 ボビーは、ちょっとセニョールを見直したようです。

 

≪ 矛 盾 ≫ 昼寝していて、スクリーンに登場できたのだろうか

 

 

春山の楽しみ (6月更新分)

春の楽しみは何といっても山菜採りです。

 山菜を採りながら春山の移ろいも楽しめます。

 フキノトウ、タラノ芽が採れる頃は、まだ、冬枯れですが芽吹きの気配を感じます。

 そしてゼンマイ、コゴミが採れる頃から芽吹きが始まり、ワラビ、ヤマウドの頃は新緑に変わります。

 そういう春山に入り、ウグイスの鳴き声を聞きながら採っていると“長く厳しかった冬” からやっと開放された気分になります。

 姫木平は山菜の宝庫なのでなんでも沢山採れますが、中でもワラビは群生していないので玄人好みの山菜です。

 尾根筋の日当たりの良い笹まじりのブッシュに目星をつけ、視線は斜め45度で目を凝らして探します。

 なぜなら上から足元を探してもワラビが点になり見落とし易いからです。

 1本見つかればその周辺に必ず5~6本は生えています。

 1本採りながら視線は次のワラビを探します。

 「フーン、ワラビ採りって難しいんだね」と、ボビーが云いました。

 「そうだよ、ワラビが沢山採れるようになったら “山菜採りのプロ” だね」

 そしてついでに、珍しい山野草を見つけると喜びが倍増します。

 今年は “九輪草” の群生地を見つけました。

 セニョールは「ヨシ、ウンチクがまた一つ増えた、さすがプロだな」と、意気揚々と帰って来ました。

 ボビーは「だれもセニョールのことを “プロ” とは呼んでないよ。“やまアラシ” とか “やまゴミ” とは云ってるけど・・・」と、騙されませんでした。

 

 

モグラの引っ越し (5月更新分)

冬の間、真っ白できれいだったフィールドも雪が解けると色々とアラが現れます。

 芝生は霜柱とモグラでボコボコになり、木の枝が散乱し、獣のフンがあちこちに散らばっています。

 ゆえにゴールデンウィーク前はガーデニングに忙しいのです。

 今年は青々とした芝生作りに再び挑戦しています。

 入山した10年前、芝生を植えたのですが日当たりが悪く湿っぽいので、苔がはびこり芝生が押され気味でした。

 そこで水ハケをよくするためダンプいっぱいの砂を撒き、土壌改良をしました。

 この砂の量がたいへんなもので撒き終るのに3日かかりました。

 この3日間、フィールドを歩き回り、ローラーをゴロゴロ引き回しました。

 雨が降りました。

 雨が降るとモグラが活動するので“きれいにしたフィールドをボコボコにされるぞ” と心配しましたが、モグラは出ませんでした。

 また、雨が降りました、が、ヤッパリ出ませんでした。

 「ボビー、雨の日にはいつもモグラが動き回りボコボコになるのに砂を撒いてから全然出なくなったな」と、セニョールが云いました。

 「本当だね、3日間作業したからモグラも安眠できなくてお隣りの庭に引っ越したんじゃないの。モグラは振動に弱いから・・・」

 「そうかもな、頭の上でゴロゴロやられたらセニョールだって 『いい加減にしろッ!』 とプッツン切れて引っ越すよ。また戻って来たら、モグラには悪いけどローラーを引き回すか」

 モグラ撃退法を発見したセニョールはちょっと安心しました。

 

 

 

 

 

桜もバカヤローッ! (4月更新分)

4月、姫木平にはまだ春は来ません。

 ゲレンデには雪があり、リフトさえ動けば “春スキー” を楽しめます。

 が、下界で桜が咲き始めると世の中は “スキー” から “お花見” へと流れていきます。

 その社会現象により、スキー場もリフトを止めてクローズします。

 まだまだ滑りたいセニョールは

 「春スキーを楽しむのに絶好の季節なのに・・・、なぜ、リフトを止める。お客さんさえたくさん来ればリフトは動くのに・・・」と、恨めしく思っています。

 何が悪いといって、まず、気象庁が悪い。

 「暖冬、暖冬、雪不足」と騒ぎ、桜の開花も「平年より10日早い」などと発表するからスキー客は減り、お花見客が増えるのです。

 ところが気象庁の発表とは関係なく “エコーバレー” と “ブランシュ” はまだまだスキーを楽しめます。

 4月になると、さすがに雪はザクザクになりますが標高が高い(1900m~1450m)ので終盤まで良質のパウダースノーを誇っていました。

 スキー人口が年々減少し、スキー場もペンションも厳しい環境にあるのに気象庁の発表がこれに拍車をかけています。

 そして、桜も悪い。

 もっとガマンしてツボミのままでいればよいものを気象庁にだまされてその気になって咲くからいけません。

 毎年満開になると寒波が来て、せっかく咲いた花も寒がっています。

 そこでセニョールは、全スキー場と全ペンションを代表して「気象庁のバカヤローッ! 桜もバカヤローッ!」と、怒りました。

 するとボビーが、「セニョール、気象庁はともかく、桜を怒るのは筋違いだよ。暖かくなれば、咲くのが自然なんだから・・・、それより “地球温暖化” に無関心でいる “人間” の方が悪いと思うよ」と、云いました。

 「ウ~ン、そうか、そーだよなア、よし、セニョールもゴミを燃やすのを止めよう」と、今日はイヤに素直に受け入れました。

 ボビーは、“セニョールも歳を重ねて分別がついてきたんだな”と思っていると、「♪ セニョ~ル殺すに刃物はいらぬ~ ♪ 桜の10日早く咲けばいい~、 ヨイヨイ ♪」と、大声で唄いながら、ゴミをボーボー燃やしていました。

 どうやら、ボケが始まった様です。

 

 

少年の心 (3月更新分)

今年は「暖冬・雪不足」と騒がれていますが

我がホームゲレンデである“エコーバレー”や“ブランシュたかやま”は標高が高いので雪質も良好で、全コース滑走できます。

 最近、セニョールは長年暖めていた“テレマークスキー”を始めました。

 ノルウエーのテレマーク地方で生まれた滑り方で雪の野山を楽しむスキーです。

 ジャンプ競技で着地するとき、足を前後させて腰を落としますがあれと同じスタイルで滑ります。

 まず、板を履くのに一苦労です、身体が硬く手が足元に届かないからです。

 クツはつま先だけが板に固定され踵がフリーなので、グラグラして不安定です。

 そして、転ぶとなかなか起き上がれません。

 腰を落として滑るので、大腿部の筋肉がパンパンに腫れます。

 初日は滑れないので面白くなく、“もうやめようか”と思いました。

 が、3日目くらいになるとちょっと滑れるようになり面白くなりました。

 アルペンスキーとは勝手が違うので、スキーの初心者の苦労がよく分かります。

 「セニョール、どうしてテレマークを始めたの?」と、ボビーが尋ねました。

 「ウン、セニョールは若い頃登山をしていて、山スキーにあこがれていたんだ。アルペンもマアマア滑れるようになったから

 このへんで新しいジャンルを開拓しようと思って始めたんだよ」

 「でも、60歳になってわざわざ新しいことを始めなくてもいいのに・・・」

 「これからは団塊の世代のリタイアー組が増えるだろう。彼らは若い頃山歩きをよくしているから、山スキーを始める人も多いと思うよ。真っ白な雪山を雪煙を上げて滑ると爽快だぞ。お客さんとの楽しみ方も増えるだろう」

 「マア、ケガをしないようにね。何事にも関心を持って、チャレンジすることは良いことだから・・・、“少年の心”を持ち続けるということは大切だもんね」

 「ウン、そうすると棺桶に片足突っ込んでいても閻魔さまも両足を引きずり込みにはなかなか来ないだろう」と、セニョールはスキーを2本担いで(アルペン用とテレマーク用)今日もゲレンデに向かいました。

 

 

Oh  my  God! (2月更新分)

ただ今、スキーシーズン真っ只中です。

 道具が改良されカービングスキーが主流になった今、スピードを楽しむスキーになりました。

 スピードがアップすればそれに比例してケガも増えます。

 セニョールも、足首、膝を捻挫し、頭、肩、手首を強打し、もうガタガタになっています。

 昨シーズンは肋骨にヒビが入り、深呼吸も寝返りも出来ない日々が続きました。

 そこで今シーズンは足首・膝にはサポーターをつけ、上半身にはダウンヒル用のプロテクターを着込み、

 頭にはヘルメットをかぶって、完全武装で滑っています。

 そのお陰か、先日買って間もない板を折る大転倒をしましたが、ケガはしませんでした。

 「どうだボビー、完全武装の効果はスゴイだろう」

 「そうだね、プロテクターを買ってよかったね」と、ボビーも安心しました。

 そして、好天の中、毎日機嫌よく滑りました。

 ところが数日前、滑り終えて板を車に入れるとき “ギクッ” ときました。

 「イテテテッ! Oh  my  God !」

 セニョールは思わず天を仰ぎました。

 予想だにしなかったギックリ腰になったのです。

 「セニョール、なぜ 『 Oh  my  God !』 なの?、クリスチャンでもないのに」

 「イテテッ、ボビー、痛いのに一々理屈を云うなよ。『Oh  my  God!』という言葉は直訳すると『あー、神さま』だが、この言葉には深~い“悲痛な叫び”が込められているんだよ」

 「どんな?」

 「ウン、人智を超えた出来事に遭遇したとき例えば、地震やハリケーンなどの大災害や9.11テロや爆撃などで大惨事に見舞われたときなど人間の力ではどうしようもないとき、特に家族を失ったときなどに思わず出る “叫び” なんだ。

 その意味を敢えて云えば、“神よお助けあれ”、“なぜこんなヒドい事が”、ちょっと軽くて “なんてこった” ・・・などかな」

 「で、セニョールのギックリ腰がなぜ『Oh my  God !』なの?」

 「スキーのケガ対策としては万全を期したがギックリ腰対策までは頭が回らなかったからだよ。Oh my  God! なんてこった!」

 「でもギックリ腰はじっと寝てれば治るからまだいいよ。大量処分されているニワトリこそ『Oh  my  God !』と悲痛な叫びをあげているかも知れないよ」

 ボビーは哀しい目になりました。

 

 

セニョール暦 (2007年1月更新分)

今年も新しい年が始まり、世の中、お正月のお祝いをしています。

 入山してから1年1年が早く、“暦”の1年の捉え方に疑問を感じています。

 なぜ、1年の始まりは1月なのか?、4月でも6月でも良いのではないか? っと。

 実際、官庁はすべて、企業も多くが4月を年度始めにしています。

 1月、2月、3月・・・と呼び始めたのは太陽暦を取り入れた明治からで、それ以前の“旧暦”では睦月(1月)、衣更着(2月)、弥生(3月)・・・・と呼んでいました。

 英語圏ではJanuary、February、March・・・、スペイン語圏ではEnero、Febrero、Marzo・・・と呼び、旧暦と同様に数字の1、2、3・・・という概念はありません。

 この1、2、3・・・が曲者で、1年の始まりを観念的に1月に固定しがちです。

 暦は人それぞれに設定されても良いハズです。

 そこでセニョールは年の始まりを4月にしました。

 なぜなら、スキーシーズンが3月に終わるからです。

 ペンションを始めて1月に年が変わると、「忙しい、忙しい」と云っているうちに3ヶ月が過ぎ、スキーシーズンが終わると夏の準備に執りかかり、夏が終わると残りは4ヶ月となり、1年を短く感じます。

 4月を年初めにすると1月になってもまだ3ヶ月あり1年を長く感じます。

 「セニョール、自分の都合で年初めを変えたら世の中、混乱するよ」とボビーが云いました。

 「イイヤ、いいんだ。古代ローマ皇帝は、自分の権威を示すために、シーザーは7月に、アウグスチヌスは8月に自分の名前をつけ、大月(31日)にしたんだよ。そのために、2月の日数が減ったんだから」

 「ボクは暦なんか関係ないから1年が長いよ」

 「そう、それでいいんだ。山の中で “脱社会的” に生きているんだから・・・、老い先も短いことだし1年を長く感じないと損だろう。だいたい人間はルールを作り過ぎる」と、セニョールは文句を云いながら“忙しい、忙しい”と走り回っています。

 

 

ネギが牛を背負って (12月更新分)

今年の畑もあと、大根・白菜・白ネギを収穫したら終わりです。

 白菜やネギは霜にあたると、柔らかくなって甘味が増し美味しくなります。

 冷え込んだ夜には、温まる“水炊き”や“スキヤキ”が最高です。

 そこで白菜とネギをたくさん作り、冬の間、保存して食べます。

 「おーい、ボビー、牛肉を買って来たぞ。ネギが採れたから今夜はスキヤキで1杯呑もう」

 「和牛の肉って高いでしょう。ネギを食べるためにスキヤキというのは、何か本末転倒してる感じ。スキヤキを食べたいから牛肉を買うんでしょ」

 「いいや、料理というものは本来、旬の食材を美味しく食べるためにあるんだ。今は年中なんでも揃うから旬の料理がなくなったけど昔は旬に応じて料理があったんだよ」

 「フーン、じゃあセニョールのように半自給自足の生活をしていると旬の美味しい野菜は感動ものだね」

 「ウン、今の世の中、分業化されてお金を媒介にみんな生活しているけど

 “労働”と“生活”が密着していればいるほど日々感動があるんだよ。

 だから、採れたネギのために高い牛肉を買ってスキヤキをするんだ」

 「“鴨がネギを背負って”というのは聞いたことあるけど、“ネギが牛を背負って”というのは聞いたことないよ。でも分かった、牛肉はボクも大好物だから今夜は年に一度の贅沢をしよう、っと」

 「いいや、ボビーはダメ、ダメ、身体に悪いから・・・、その代わりカリカリをいつもよりたくさんあげよう」と、セニョールは美味しい牛肉をセニョーラと二人で食べました。

 ボビーは、スネて、旬の無いカリカリを見向きもしませんでした。

 

 

天真爛漫なボビー (11月更新分)

ある年実家に帰り、座敷で新聞を読んでいると

 食堂で昼寝していたボビーが「キャン」と泣き、ドドドッと飛んで来ました。

 そして、セニョールの傍らでお腹を上に向けて寝っころがりました。

 「ウッ? どうした、ボビー」と見ると,お腹の毛に絡まって熊バチがブンブン暴れていました。

 「イタイよー、イタイよー、セニョールなんとかしてよー」と、ボビーが必死に訴えました。

 セニョールは驚いて、指でピッとはじき、熊バチをハネ飛ばしました。

 「ボビー、大丈夫か?、ボビー、ボビー」と、セニョールは声を掛けました。

 「イタイよー、イタイよー」と、ボビーは泣きました。

 人間でも刺され所が悪いと死ぬことがありますから小さなボビーにはもっと危険です。

 見ていると、段々とチカラ失せて横たわりました。

 “これはイカン、医者にみせないと”と思い電話帳でペット病院を探しましたが、この町にはありません。

 隣り町を探しましがヤッパリありません。

 隣りの隣り町にやっと1軒ありました。

 電話で「どうしたものか?」と相談したら,医者は「すぐ連れて来てくれ」と、云いました。

 そこで、車で30分かけて病院に連れて行きました。

 道中、ボビーは「イタイよー、イタイよー、苦しいよー」と助手席でぐったりとしていました。

 セニョールは「ボビー、がんばれよ、もう、すぐだからな」と、励ましながら運転しました。

 先生は解毒薬を注射したようです。

 「これで大丈夫でしょう、イヤー、危ないところでした」と、云いました。

 車で帰る途中、ボビーは段々と元気になり、助手席で“穴掘り遊び”を始めました。

 そして「ウン?、何かあったの?、セニョール、どうしたの?、随分慌ててたけど」と、ボビーが云いました。

 セニョールは「ボビー、それはないだろう、心配したんだぞ」と、云いました。

 「アー、ハチのこと? もう、大丈夫だよ、ホラ、こんなに元気になったもの」と、ボビーはケロッとしてまた、遊び始めました。

 セニョールは天真爛漫なボビーを見て、「よかったね」と苦笑しました。

 

 

 トラック野郎 (10月更新分)

 「ボビー、セニョールもとうとう “トラック野郎” になったぞ」

 「ウン? 何のこと?」

 「ホラ、駐車場を見てごらん、立派なトラックが止まってるだろう。

 一目見て気に入ったから、即、買って来たんだ」

 「ウン? な~に・・・?、 な~んだ、軽トラじゃん。またオークションで買ったの?」

 「何でもかんでもオークションにするなよ。軽トラは “田舎のベンツ” と呼ばれて “田舎人” のステイタスなんだぞ」

 「確かにお百姓さんは軽トラによく乗っているけど、でも、トラック野郎のトラックはもっとデカいよ。10トン~20トンはあるんだから・・・。あんなのトラックじゃあないよ」

 「0.35トンでもトラックはトラックだろう。サアーて、派手なネオンを取り付けて・・・ッと、絵は何にするかなア、昇り竜か、はたまた弁天さまか・・・、そうだ、ボビーにしよう、鼻ちょうちんを膨らませた・・・」

 「やめてよ、ボクをダシにするのは・・・。そんなハデハデな車で畑に行くの?」

 「畑は勿論、ゴミ捨て・荷物運搬・買出し・山菜採り・ゴルフ・お客さんの送迎、なんにでも使うぞ」

 「エーッ? お客さんの送迎にも?」

 「そうだ、先日、お客さんを荷台に乗っけて “木の実採り” に行ったけど『ワーイ、 オープンカーだ! オープンカーだ!』と騒いで、喜んでいた」

 「マアー、お客さんが喜んでくれるならいいけど・・・」

 そこでセニョールはもう一押し、しました。

 「第一、軽トラは燃費がいいからガソリン代も安くすむし・・・、今の燃料高の時代こそ、チカラを発揮するんだ。軽トラを愛する心を持っていれば、立派な “トラック野郎” なんだよ。」

 「そうだね、軽トラは万能車だし、車は足だから維持費が安い方がいいに決まってるもんね。そうか、セニョールも “トラック野郎” になったの!」

 ボビーも一応、納得した様です。

 

 

 安物買いの銭失い (9月更新分)

セニョールは最近、ヤフー・オークションにハマっています。

オークションの面白さは相手との駆け引き、自分の性格との戦い、ギャンブル性などにあります。

 オークションで入札するモノは、① 自分が本当に欲しいモノ、② 手ごろな値段であれば落とすモノ、③ 落とす気は毛頭ないがどこまで上がるかヒヤかすモノ、などに分かれます。

 ①は、相手が追いかけて来て値段が吊り上っても振り切り、落札します。

 このときの緊張感、競り勝った優越感、欲しいモノを手に入れた満足感などは大変なものです。

 逆に、終了間際にちょっとした手違いで負けたときのくやしさは夜も眠れません。

 ②は、勝気な人ほど注意しなければなりません。

 ほどほどで競り落としたときはよいのですが、競り合っているうちに段々と意地になり、競り落とすときがあります。

 このときは「ウーン、ちょっと頑張り過ぎたかな」と後悔の念が残ります。

 このケースは、100円くらいから競り合ったときに起こりがちです。

 ③は、ヒヤかしのゲーム心ですが、特に注意しましょう。

 ときどき“ちょっかい”を出して入札しますが、相手はすぐ競り上げてきます。

 この“ちょっかい”もほどほどにしておかないと相手が下りることがあります。

 「オイ、オイ、どうした、追いかけて来いよ、困ったなア」ということになります。

 結局、自分が落札者となり買う気のないモノを買わされます。

 「最近、パソコンに向かって何かやってると思ってたらオークションだったの」と、ボビーが云いました。

 「ウン、これが実に面白いんだ。

 競争心、緊張感、優越感、満足感、敗北感、後悔感、失敗感など喜怒哀楽を備えたゲームはそうザラにはないぞ。

 セニョールなんぞオークションのない日はつまらなくなった」と、セニョールが云いました。

 「②や③の宅急便はドンドン来るし、お金もドンドン出ていくし・・・そんなゲーム感覚でやられたら困るよ。どうも最近、エサがまずいと思ったら、安い方に変えたんでしょう」

 「ウッ、バレたか。だけど、必要なモノを安く買うんだからいいじゃあないか」

 「いつ壊れるかわからない中古品やガラクタのようなモノばかり買って・・・、そういうのを“安物買いの銭失い”と云うんだよ」と、ボビーはふくれていました。

 

 

 不可能が可能?に (8月更新分)

 セニョールは夢を見ない人である。

 可能と思うことは即実行し、不可能と思うことはハナッから“やりたい”、“なりたい”などと思わないからです。

 ところが、不可能と思っていたことの可能性が出てきました。

 スペイン・バルセローナで建築中の“サグラダ・ファミーリャ大聖堂”です。

 「完成までに100~150年はかかるだろう」と云われていたものが、「15~16年後には完成するらしい」と云う情報をあるテレビ番組で見たからです。

 いままでは寄付金に頼り、建設資金不足でなかなか進まなかった工事が近年は観光・見学客が急増し、資金が潤沢になりドンドン進んでいるようです。

 そう云えば過去4回スペインに行き、その都度、工事の進捗状況を見ましたが、3回目まではそんなに進んでいなかった工事が4回目には大分進んでいるように見えました。

 「15~16年後に完成」ということであれば、ヘタをすれば生きているかも知れません。

 そうすればスペインに行って観ることができます。

 「ボビー、これはエライことになった。完成したサグラダ・ファミーリャを観れるかも知れないぞ」と、セニョールが云いました。

「よかったね、じゃあ葬式代だけでなく、スペイン行きのお金もプールしておかないとね」と、ボビーが云いました。

 「大聖堂の中で“突然死”というのもドラマチックでいいかもな」

 「バカなことを云わないでよ。セニョールが良くても後に残ったセニョーラやボクが大変だよ。散々好き放題に生きて来たんだから、せめて死ぬときぐらいは平凡に死んだら・・・」

 と、ボビーとセニョーラはあきれ顔をしていました。

 

 

セニョール青春記 ≪ 寮祭 ≫ (7月更新分)

今年も寮OBがやって来ました。

 今年のメッセージは、“いま一度立て! 死に花を咲かせよ” でした。

 今年から60才を迎える連中が出てくるからです。

 年々垂れ幕が増えていくのを、みんな面白がっているようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

さて、寮では年に1度、“寮祭”が開かれます。

 このときばかりは、女子大生の出入りが解禁になるので寮生は色めき立ち、風呂でアカをゴシゴシ落とし、部屋を掃除し、

 ダンスパーティーなどを催し、迎え入れました。

 が、それは女性にモテるヤツの話で、セニョールのようにモテない連中はイジケて、隅っこにたむろし、ヤケ酒を呑んで大騒ぎをしていました。

 そして、“酒を呑むだけでは芸がない”と粋がり、寮祭の前になるとドロボーをして盗品を陳列しました。

 その盗品たるや普通のモノではありません。

 宝ヶ池(寮は近くにあった)の遊覧ボートを持って帰り大浴場に浮かべたり、比叡山の遊園地からベンチを担ぎ下ろしたり、

 はたまた、京福電鉄の操車場から電車の車輪をゴロゴロと持ち帰り、陳列して“奇”を競いました。

 パチンコ屋の“祝開店”花輪や喫茶店の“電光看板”や“表札”などはザラです。

 「そんなモノをいつ、盗んでくるの?」とボビーが尋ねました。

 「寮生は夜行性で酒ばかり呑んでるから酔っ払うと夜中に出かけて行き、事前に集めておくんだ」と、セニョールが答えました。

 「よく警察に捕まらなかったね」

 「だいたい5~6人で行くから、前と後ろに見張りをつけ人が来ると色々なパフォーマンスをしたな。ベンチは下ろして座れば問題ないし、車輪もみんなで座っていれば何か分からないだろう。ボートは自転車2台に乗せ、カヌーを運んでるような振りをして持ち帰ったな」

 「なにか困ったことはなかった?」

 「ウン、車輪を持ち帰るときレールの上をゴロゴロ転がしていたら踏切りの近くで信号機がチンチン鳴り出し、遮断機が下りてきた。あのときはアワテたな」

 「でも不思議な世界だね、学生寮は・・・」

 「京都は“学生の町”と云われ、学生に大らかだったから酔っ払っての悪戯は許されるとみんな思っていたんだね」

 「今の世の中、大らかさが段々と無くなり、ユーモアが少なくなってきたから、心から笑える事が少なくなったよね。

 駄洒落では口先で笑うようなもんだもんね」

 「人間も段々と血が凍って、ロボットになって行くんだろうな」

 シトシト雨のなかでのお話でした。

 

『 先月の正解 』

 正解はピーマンだけでした

 

 

 畑の生物学 (6月更新分)

 昨年は“畑の経済学”、今年は“畑の生物学”、段々とアカデミックになって来ました。

 長年、畑をやっていると色々なことが起こります。

 小指のようなニンジンができるかと思えば、長さ40~50センチのゴボウのようなものができたり、大ナスを植えているのに小ナスができたりである。

 これらは土壌や肥料との関係であるが、次のような現象はまさに生物学である。

 ピーマン類には、普通の青ピーマン、パプリカ、辛し南蛮(激辛ピーマン)などがあります。

 青ピーマン、パプリカと辛し南蛮を同じところに植えてはいけません。

 それぞれお互いの花粉で交配し、“中辛”の青ピーマンと“中辛”の辛し南蛮ができるからです。

 交配しないように畑の端っこと端っこに植えなければなりません。

 同様のことがキュウリと夕顔(トウガン)にも云えます。

 ドデカいキュウリができるからです。

 また、キュウリとニガウリもダメです。

 苦いキュウリになるからです。

 その点、カボチャとスイカは大丈夫です。

 交配することにより、より甘いものができます。

 スイカはカボチャの苗に接木をするくらいですから。

 セニョール、ウソを書いたらダメじゃん。本当のこともあるけど・・・」と、ボビーが云いました。

 「ウッ、ボビー、分かるか? 読む人にも分かるかなア」

 「もっともらしいウソを創り上げているから多分、分かる人は少ないだろうね。それにしても、セニョールもヒマだよね、バカなことばかり考えて・・・、マア、これを来月までのクイズにしたら」

 どれが本当でどれがウソか、皆さん分かりますか?

 

 

死に花を咲かせよ (5月更新分)

セニョールとセニョーラは最近、本格的にフラメンコ(踊り)を始め、週1回上田の教室に通っています。

 日本のリズムは、盆踊りに代表されるように2拍子が多いのですが、フラメンコは3拍子と4拍子が複雑に入り混じったリズムです。

 この今までに体感したことのないリズムに乗ってステップを踏むのは至難の技です。

 足がもつれ、つまずき、遅れ、なかなかうまく出来ません。

 やはり、無意識に馴染んで来た2拍子のリズムからそう簡単には脱皮出来ません。

 もう一つ違うのは上半身の使い方です。

 日本人は “猫背” に成りがちですが フラメンコは肩甲骨を寄せて胸を張り、背筋を反って踊ります。

 最初はギコチなくロボットが踊っているようですが、それでも練習を重ねると、段々とそれらしく出来るようになります。

 そして、練習を終えるとビッショリと汗をかきます。

 それだけ運動をしているのです。

 「セニョール、大変な事を始めたね。ついて行ける?」と、ボビーが云いました。

 「ウン、レッスン時間だけではマスター出来ないから、家でも練習してなんとかついて行ってるよ。何事も練習あるのみだ」

 「そうだね、他人様に出来る事が自分に出来ないハズはないもんね。人間、努力をすれば大抵の事は出来るようになるんだけどなア。他にも “和太鼓” と “スキー” をするんでしょ」

 「ウン、フラメンコ(ギターと踊り)と和太鼓とスキーが、我が人生最後の “遊び” かな。サアー、生きてる内にどこまで上達するか、これは見ものだぞ」

 「“死に花を咲かせよ” だね。セニョール、頑張ってね、ボクも “ドーナツスピン”を練習するから」

 ― ボビーは尻尾を咥えてクルクル回る遊びが好きなのである ―

 「ボビー、ついでに “イナバウアー” も出来るようになれよ。ボビーの華麗なイナバウアーを見たいなア」

 ボビーもその気になって時々のけ反っては転んでいます。

 セニョールも “スペインでジプシーと踊るぞ” と頑張っています。

 セニョール館のシーズン・オフは、ステップと太鼓とイナバウアーで華やかなのである。

 

 

 戌 年 (4月更新分)

「セニョール、今年はボクたちの年だね、3月が誕生月でしょう。何回目? 6回目くらいかな?」

 「バカなことを云うな。まだ5回目だぞ」

 「じゃあ、“赤いチャンチャンコ”だね」

 「バカバカしい、俺は “紫のジャンバー” を着るんだ。紫は高貴な色で、しかも女性を引き付ける色だからな」

 「セニョールのこだわりはどうでもいいけど十二支はどうして出来たか知ってる?」

 「いや、知らんな」

 「十二支は古代中国で出来た暦で12年で天を一周する “木星” の軌道(天体の位置)を示したものなんだよ。本当は、『子(シ)、丑(チュウ)、寅(イン)・・・・・戌(ジュツ)、亥(ガイ)』 と云うんだけど日本に入って来て、民衆がなじみ易いように動物の名前がついたの。ほら、『鼠(ね)、牛(うし)、虎(とら)・・・・・犬(いぬ)、猪(い)』と云うでしょ」

 「ややこしい、順序などどうでもいいじゃあないか」

 「ちがうよ、順序が大事なんだよ。昔、神様が 『元旦の朝、新年の挨拶に1番早く来た者から12番目まで順に1年間、動物の大将にしてやろう』 と云ったの。牛はノロいから暗いうちに出発して一番乗りしようとしたんだけど鼠が背中に乗っていて、ゴール寸前にピョンとゴールインされたんだって・・・、それで鼠が一番になったんだよ。猫が十二支に入っていないのは、鼠に “2日の朝” と騙されたからなんだって・・・、だから、猫は怒って今でも鼠を追いかけ回すんだよ」

 「フーン、分かった。じゃあ、我らが “犬” はどうしてビリから2番目なんだ?」

 「犬ってすばしっこそうでどこかオットリしてるじゃあない。『犬も歩けば棒に当る』 って云うでしょ。タカを喰ってたら他の動物に先を越されたんだよ」

 「ウーン、そうかもな。ボビーを見てたら、足は短いし、オットリしてるもんな」

 「ア―ッ、失礼なッ!、セニョールだって足が短いじゃん。がに股で、ノッソ、ノッソと歩いてるじゃん。お酒を呑むことばかり考えて、ちっとも役に立たないし・・・」

 「もう、よそう、よそう、お互いにキズつくだけだから・・・、しかし、よくマア、60年も生きて来たもんだ。100年くらい生きて来た感じがするな」と、セニョールはボビーに隠れてコッソリお祝いをしました。

 

 

 美しきエゴ (3月更新分)

 トリノ・オリンピックが終わりストレスのない、穏やかな日常に戻った今日この頃ではないでしょうか。

 メダルはともかく、ここ姫木平はこの間、熱く燃えました。

 姫木で生まれ、エコーバレーで育った藤森由香選手がスノーボードクロス競技 (SBX) に出場したからです。

これは姫木でも、長和町でも史上初めての快挙でした。

 SBXは、今オリンピックで初めて公式競技になった種目ですからセニョールもどんな競技なのか知りませんでした。

 そこで、色々とビデオを見て、バンクあり、ジャンプ台ありの狭いコースを4人が同時にスタートし、順位を争う競技だということが分かりました。

 そして、駆け引きあり、転倒もありで、ゴールするまで誰が勝つか分かりません。

 “これは面白い! これから人気が出るだろう” と、思いました。

 出場が決まってからは出場決定凱旋セレモニー、壮行会、出発式、テレビ観戦・応援会・7位入賞凱旋セレモニーなど々、賑やかな日々でした。

なかでも、“テレビ観戦・応援会”は約120人の住民が集まり、最高に盛り上がりました。

 予選1本目は11位だったのでちょっと安心して礼儀正しい応援でしたが2本目は15位で決勝戦進出に余裕がなくなったため、白熱した応援になりました。

 後続の選手が失敗したり、転倒するとみんな手をたたいて喜び、応援しました。

 準々決勝で2番・3番の選手がもつれて転倒し由香ちゃんが2位に上がったときも手をたたいて、すごい喜び様でした。

 レースが終わった後、「人の失敗を喜ぶのは良くないな、“応援マン・シップ” に反する」と、セニョールが冷静に云いました。

「何云ってるのッ! 自分だって喜んで手をたたいていたクセに・・・」と、ボビーが云いました。

 「そうか? 夢中で見てたから自分が何をしたか覚えてないけど」

 「よく云うよ、テレビにかぶりついて、『 コケろーッ、コケろーッ、 由香ちゃんより前のヤツはみんなコケろーッ!』 と、大騒ぎしてたじゃない。ボク、恥ずかしかったよ。」

 「 ・・・・・・・・・・・ 」

 「結局、身近であればあるほど必死になるから、きれい事では済まなくなるんだね。 マアー、悪気はないから許されるか、“美しきエゴ” かも・・・」と、ボビーが云いました。

 選手同士はどうなのかセニョールはアスリートではないのでコメント出来ません。

 相手の軍門に下ったときのみ、両者間に “スポーツマン・シップ” が芽生えるのかも・・・。

 

 ≪ついでに、セニョールの毒舌≫

 ・ トリノのメダルは5円玉を“大番焼き”にしたようで“気品”がない。

 ・ 荒川選手は妖艶な色気があり、しかもステップの華麗な躍動感とエッジの使い分けはスゴい、イナバウワーもいい、惚れたッ!

 ー 毒舌になってないじゃん、今更惚れてどうするの ー (ボビー)

 ・ 村主選手は切ない表情でドラマチックに演じるのでグッと迫るものがあるが、ステップをもう少し磨きましょう。

 ・ 安藤選手はジャンプの失敗はともかく、コスチュームが重い、木綿のように・・・。“和田エミ”の感性は、ちょっと時代遅れか。

 

 

スキーに飽きた症候群 (2月更新分)

セニョールは学生時代、栂ケ池高原スキー場のロッジで40日間、“居そうろう”アルバイトをしたことがあります。

 当時の“居そうろう”の条件は、食事の準備・サービス・後片付け、館内・ルームの掃除、雪かきなどの仕事をする代りに

3食付き、日中は好きなだけスキーをさせるというものでギャラは往復の交通費くらいでした。

 そこで、毎日スキーをしました。

 最初は楽しくバンバン滑りましたが、そのうち段々と滑るのが億劫になり、苦痛になって来ました。

 そして30日を過ぎた頃から滑りに行かなくなりました。

 それから10年くらいスキーを物置に入れっぱなしでした。

「今は、スキーが好きで毎日キチガイのように滑っているのに、そのときはどうして滑らなくなったの?」と、ボビーが聞きました。

 「ウーン、ムダに滑り過ぎてスキーに飽きたんだな」

 「今だって滑り過ぎてるんじゃあないの?」

 「その頃は誰かに滑り方を教わるのでもなく、レッスンを受けるわけでもなく、ただ我流で滑って楽しんでいた。だから飽きたんだな。今は少しでも上手になろうと向上心を持って練習しているから課題が一つクリアー出来ると、喜びと満足感があって楽しいね」

「結局、物事は向上心を持って当らないとすぐ飽きてしまうということ?」

 「そうだよ、スキーにはスキーの立派な力学があるから

 その力学を利用して滑る滑り方を身体に覚え込ませないと本当の滑りにならないんだよ」

 「フーン、スキーって奥が深いんだね」

 「ウン、奥が深いから簡単には攻略できないしだから今は、面白くって飽きないんだよ」

 「うちのお客さんにも一人いるよね。チョコっと滑って、昼寝して、夜お酒ばかり呑んでる、“スキーに飽きた症候群” の人が・・・」

 「アアー、いるいる、でも彼はそれが楽しみで来てくれるんだからそれはそれで良いんじゃあないかな。ボビー、あまり悪口を云うなよ。このウンチクをきっと見てるから」と、ボビーとセニョールは段々とヒソヒソ声になりました。

 

お心当たりのお客さまはお申し出ください。

悪口のお詫びにワインを1本ご馳走します。

 

 

お酒の進め (2006年 1月更新分)

12月、1月はお酒を呑む機会が多い月です。

そこでお酒のウンチクを一つ。

 セニョールは毎晩お酒を呑みます。

 お酒は身体にとても良いからです。

 特に中高年になって老化現象が出始めた人にお進めします。

 歳を取ると毛細血管が萎縮し身体の末端まで血液が循環し難くなります。

 これが老化を一層早めます。

 皮膚はシワシワになり、手足の運動機能も低下します。

 これを解決するのがお酒です。

 お酒を呑めば毛細血管が広がり、血液がドンドン身体の隅々まで行き渡ります。

 血液が行き渡ることにより、体細胞が目覚め、新陳代謝が活発になり、シワシワの皮膚を伸ばしてくれます。

 呑む量は適量よりちょっと多めに呑むことです。

 なぜなら、段々と酒量が増えて気持ちが大らかになり、そして、皮膚も若返り、人生が楽しくなるからです。お肌の老化にお悩みのご婦人方には特にお進めします。

「そんないい加減なことを云って、血圧が上がったらどうするの」と、ボビーが訝しげに云いました。

「血圧はお酒を呑んで酔ってるときの方が正常なんだ。酔いが醒めると血管が収縮するから血圧が上がるんだよ。だから、常に酔っている状態にしておくことが肝要だ」と、セニョールが説明しました。

「それじゃあ、“アル中”じゃん。そんなこと人に進められないよ」

「“アル中”のどこが悪い。それで若返えり、人生を楽しく満喫できたら、“百薬の長”だろう」

 ボビーは「皆さん、今回のウンチクはほどほどに聞いた方がいいですよ。セニョールが責任を取ってくれませんから」

 そして「ホントに、『福沢諭吉』気取りで好き勝手なことばかり書くんだから・・・、いつも、尻拭いするのはボクなんだからね」と、困っています。

 

 

 

 

 

歯医者のバカヤロー (12月更新分)

久しぶりのバカヤロー・シリーズです。

セニョールはこの20年、歯槽膿漏に悩まされて来ました。

 これにやられると歯茎が腫れ、グラつき、痛くて物が噛めません。

 そして哀しいことに、1本1本抜けていきます。

 “東に名医がいる” と聞けば飛んで行き、“西に親切な医者がいる” と聞けば通いました。

 どの医者も初診のとき、「私は歯を抜くことを好みません。親から貰った大切なものを抜くのは人道に反するからです」と、云いました。

 “なかなか感心な医者だな” と思って通っていると、「この下歯はグラグラしているから抜きましょう」と云って、「ポン」と抜きました。

 そして「噛み合せがなくなったから、ついでに上歯も抜きましょう」と、まだ元気な歯を「ギュイッ、ギュイッ、ポン」と抜きました。

 セニョールは「最初に云ったことと違うじゃあないかッ!」と、怒りました。

 また、こんなこともありました。

「この奥歯は一度抜いて根っ子をきれいに洗い、磨き、殺菌してまた埋め戻します」と、云いました。

 “一度抜いたものを埋め戻して役に立つのか” と疑問に思いましたが、医者を信じて同意しました。

 この歯は元気な歯だったので、抜いたときアゴが引っ張られて「ウォー」と叫びました。

 そして、きれいに磨き、殺菌して埋め戻しました。

 その戻し方は、助手にアゴを支えさせ、アテ木をあて、木づちでガンガンと打ち込みました。

 このときもセニョールは「ウォー、ウォー」と叫びました。

 これだけ叫んだにも拘わらず、ある朝ウガイをして「ペッ」と吐き出すとコロン、コロンといとも簡単に抜け落ちました。

 これにはセニョールも相当、アタマに来て「歯医者のバカヤローッ!」と、怒鳴りました。

 「心臓手術とか臓器移植とか医学はドンドン進歩しているのにどうして歯の治療方法は進歩しないのかなア。やってることは昔と同じだぞ」と、セニョールが苦情を云いました。

 ボビーは「歯槽膿漏は、雑菌が歯茎の中に侵入して起こるんでしょ。口の中が雑菌だらけなのはみんな同じなのになる人とならない人がいるということは人によって唾液の殺菌能力が異なるということじゃあない。だったら、殺菌能力を高める薬を開発すればいいんだよ」と、ボビーが云いました。

 セニョールは「歯槽膿漏がなくなると、歯医者は儲からなくなるからそれで、敢えて薬を開発しないんだッ!」と、意地悪く云いました。

セニョールは文句を云いながら、入れ歯作りに通っています。

 

 

残念・無念 (11月更新分)

ある朝、大門街道を走っていると道路横に鹿が転がっていました。

 タヌキはよく跳ねられていますが、鹿は珍しいことです。

 車を止めて見ると、前夜トラックに跳ねられたのか首の骨が折れて死んでいました。

 セニョールは、日頃、熊、鹿、猪が車にぶつかってくれないかと期待して運転しています。

 なぜなら、料理して食べれるからです。

丸々と太ったその鹿は、80キロから100キロ位はあるシロモノでした。

 もう用事どころではありません。

 早速引き返し、ペンション仲間で解体出来る人を探し回りました。

 ある人が出来ると聞き、話を持ち掛けますが「血が回って美味しくないですよ」と、なかなか乗って来ません。

 セニョールは諦めず「“もみじ鍋”にしたら最高だ。こんなチャンスはそうあるものではない。解体して山分けしよう」と、必死に口説きました。

 彼も渋々同意したので、鋸、ナタ、出刃包丁を持って現場に引き返しました。

 ところが、ところが、である。

 あたりをいくら探しても鹿が見当たりません。

 誰かが持ち去ったのです。

「クソッ、盗まれたか、俺の鹿を・・・、今夜は『もみじ鍋で熱燗を』と楽しみにしてたのに・・・、ウーン、残念、無念ッ!」

 無理やり引っ張り込まれた彼は「ウーン、残念でしたね。また、声をかけてください」と、ホッとしたように帰って行きました。

「セニョール、見つけたらすぐ車に積んで持ち帰らないとダメだよ。この辺の人はみんな狙ってるんだから」と、ボビーが云いました。

「しかし、あんな大きなものを1人りでは積み込めないぞ。それより俺が見つけたものを盗むとは何事だッ。警察に届け出てやる」と怒り出しました。

怒り心頭のセニョールは「よし、この冬は森の中にワナを仕掛けて絶対、もみじ鍋を食べるぞッ」と、息巻きました。

それ以来、その話が広まり「どこそこでムジナが死んでいますよ」とか、「タヌキが転がっていますよ」とか、通報が入るようになりました。

 しかし、セニョールの狙いは熊か鹿か猪なので丁重にお断りしています。

 

 

 イスラム (10月更新分)

先月、イスラムについてちょっと触れましたが

 スペインまで行けばジブラルタル海峡の向うはモロッコです。

 スペインはカトリックとイスラムの融合した文化ですが、モロッコは純イスラム文化です。

 今のモロッコは知りませんが、30年前はまだ貧しい国でした。

 行く先々のバス停で降りると子供たちが寄って来て“物乞い”をしました。

 その様子は堂々としていて、施しを受けて当たり前という感じでした。

 ちょっと不思議に思い、英語を話せるモロッコ人に尋ねると「イスラムの教えの1つに、“富者は貧者に施しをせよ”とある。

 だから、貧者が富者に物乞いをするのは当たり前という観念がある」とのことでした。

「なるほど・・・」と思い、町の中を散歩すると物乞いの風景がよく見られました。

 セニョールは旅行者だからお金を持っていると思われたのでしょうが貧乏旅行者なので丁重にお断りしました。

 この施しに類する風景も見ました。

 夜になるとホテルのロビーにホームレスの人達が集まって来ました。

 ロビーでゴロ寝をして一夜を過ごすためです。

 これも貧者に対する施しの観念から、従業員は彼らを追い出しません。

 そこでセニョールもこれにあやかり、宿代をうかすために彼らと一緒にゴロ寝をしました。

 「フーン、ホテルの話は面白いね。日本では考えられない事だもんね」と、ボビーが云うと

 「イスラムには“信仰”だけではなく、五つの“勤行”というのがあるらしい。その勤行の1つに“貧者に対する施し”があり

 話したような風景がアチコチで見られるんだよ」とセニョールが答えました。

「でも、良かったね、宿代がういて。その分、お酒をたくさん呑んだの?」

「ところが、イスラムでは禁酒の観念があって町でお酒も売ってないし、居酒屋もないんだよ。その代わり、マリファナなど麻薬は許されていて、アチコチで吸っていたな」

 「フーン、なぜお酒はダメで、麻薬はいいの?」

 「それはね、ウーン、またこの次に話そう、夜も更けてきたし・・・」

 秋の夜長、クリの皮を剥きながらのお話でした。

 

 

≪セニョール青春記≫ ― 金が無くても酒は呑める (その2) ― (9月更新分)

今日は別の手法を伝授しましょう。

昔は大学の周りに“質屋”がたくさん有りました。

 貧乏学生が金に困って、借りに行くからです。

 これに目を付けたセニョールは、寮生のタイプライター、カメラ、オーディオ、文学全集などを質屋に入れて、よく酒を呑みました。

 こういう質草はマジメな学生が持っています。

 マジメな学生は昼間は大学に行って寮にはいません。

 そこを狙って留守中に持ち出し質屋に入れます。

 タイプライターやカメラは手で運べますが、オーディオ・セットや全集はタクシーで運びます。

 貧乏をしていてもタクシー代は有ったのです。

 そして、呑めや唄えやの大騒ぎをします。

 その頃、寮でも大騒ぎをしています。

 「俺のタイプライターが無くなったッ!」

 「俺のオーディオを知らんかッ!」

 「誰が俺の全集を持ち出したッ!」と・・・。

 「竹田(セニョールのこと)が持ち出してたぞ」と、告げ口をするヤツもいます。

 被害者はセニョールの部屋でウデ組みをして帰りを待っています。

 ところが午前3時になっても4時になっても帰って来ません。

 待ちくたびれた彼はセニョールの布団の中で寝ています。

 夜が明けて帰ってみると、我が布団が占領されているので、仕方なく潜り込んで添い寝をします。

 翌昼、目が醒めると彼がウデ組みをして待っています。

 「俺のオーディオ・セットを質に入れたのはお前か」

 「何ッ?、オーディオ?、アー、お陰で昨夜はいい酒が呑めた」

 「いい加減にしろ、すぐ質から出してくれ」

 「そんな金があれば、だれも質なんぞに入れんぞ」

 「じゃあ、誰が出すんだ」

 「それはお前だろう、お前のものなんだから」

 「そんなッ!他人のものを質に入れて酒を呑んでおきながら・・・、お前が出すべきだ」

 「俺が・・・? 何故・・・? 俺はただ気持ち良く酒を呑んだだけだぞ。オーディオは、お前にとっては宝だろう。が、俺にとっては ただの“質草” だ。自分の大切なものは自分で責任を持たないと他人をアテにしてたら流れてしまうぞッ!」

 彼は「ドキッ!」として、もう何も云うことが出来ません。

 泣く泣く、自分で質屋から出しました。

 「?????、セニョールの論理は正しいように聴こえるけど、どこかおかしいんだよな。それはセニョールが出すべきでしょう」と、ボビーが云いました。

 「ウン、金が有ったら出してやるんだけどな。“金の有る者が出す” というのが道理だろう。これは “イスラムの教え” でもある」セニョールは急にイスラム教を持ち出しました。

 「?????????」

 ボビーは、“もう、話しにならない” と諦めました。

 

 

怒れッ! ギックリ腰 (8月更新分)

ペンションは、身体が資本の仕事です。

 森に移り住んで、一番、気を付けているのは、ギックリ腰です。

 これにやられると仕事にならないからです。

 にもかかわらず、昨年、お盆前に不用意にビールケースを持ち上げたとき、ギクッと来ました。

 これから忙しくなるというときに・・・である。

 でも、お客さんの前ではヨタヨタできません。

 我慢して、シャキッと背筋を伸ばし、サービスをするものの厨房に戻ると、途端にヨタヨタです。

 厨房では杖を突いて仕事をしていました。

 その杖たるや全体重を受けて、歪み、折れそうになっていました。

 なぜ、ギックリ腰になると、皆、笑うのでしょうか。

 ヨタヨタしながら「ギックリ腰になりまして・・・」などと云おうものなら素直な人はワッハッハと笑い、ちょっと気を使う人は笑いを押し殺して顔が歪みます。

 “お見舞い” など来ません。

 これほど辛い病気はないというのに・・・

 「どうしてみんな笑うのかなア」と、痛いのを我慢してセニョールが呟くと「多分・・・、“死” には至らないという “安心感” と、医者も薬も要らずただ安静に寝ていれば治るという “気楽さ” と、元気だった人が突然、ヨタヨタするミスマッチの “滑稽さ” とが入り混じって “笑い” になるんじゃあないの」と、ボビーは分析しました。

「でもなア、ギックリ腰は “急性腰痛症” というレッキとした病気なんだぞ。ヨーロッパでは “魔女の一撃” と恐れられているんだ。これじゃあ、日本の“ギックリ腰”が可哀相だよ。ギックリ腰よ、もっと怒れッ!」と、セニョールは “激” を飛ばしました。

 「ちょっと、ちょっとッ! そんなことを云ってもいいの。ギックリ腰がアバレ出したらどうするの」と、ボビーは諌めました。

 

 

≪セニョール青春記≫ ~ 金が無くても酒は呑める (その1) (7月更新分)

毎年6月には、何処からともなく“屍”が集まって来ます。

そして、呑んで騒いで後片付けもせず、帰って行きます。

 この連中が集まって来ると、セニョールは学生気分に戻り幟にメッセージを書いて木に吊り下げます。

 今年のメッセージは、「来たれ屍よ!我らが青春の墓穴に!」でした。

 ・・・・・・・・・・

 思い起こせば、よく酒を呑んだものです。

 毎月月末が近づくと、寮母さんの部屋の前で張り込みをしました。

 何故?って、寮生に家から仕送りが届くからです。

 現金書留が配達されて来ると、早速、その寮生の部屋に押しかけ、「オイ、今夜、酒を呑みに行こう」と持ちかけました。

「イヤ、俺はレポートを書かないといけないから」と、彼は警戒して拒みました。

 「レポートなんぞ、何時でも書ける。今夜、酒を呑むことの方が人生にとってどれだけ大切か。サアー、金を持って付いて来い。念のため、全部持って来いよ」と、無理やり引っ張って連れ出しました。

そして、お座敷で呑めや唄えやの大騒ぎが始まります。

最初は “これはエラいことになった” と財布をシッカリ握って塞ぎ込んでいた彼も呑まされて、酔うほどに、段々と元気になり最後には裸踊りを踊る有り様です。

気が大きくなった彼は、「ヨシッ、今夜は、この金でパアッと騒ごう」と散財しました。

あくる日、彼は真っ青になって飛んで来ました。

「オイ、金が無くなった、これから1ヶ月どうやって生活したらいいか」

「金が無ければアルバイトでもして“日清ラーメン”を食ってしのげ」

 「そんな、ヒドい、お前の金を少しよこせ」と、彼は必死に云いました。

 セニョールは「ヨシ、じゃあ50円やろう、ラーメンくらい食えるだろう。だいたい、貧乏人の俺に金なぞある訳がないだろう。お前だって、あれだけ呑んで、裸で踊って、人生を楽しんだんだからそれでいいじゃあないか。マアー、アルバイトでもするんだな」と、取り合いませでした。

 それ以来、彼は月末になると廊下で出会っても目を合わさないようにしていました。

「セニョール、それはちょっとヒドいよ。そういう時は助けてあげないと」と、ボビーが云いました。

「ウン、俺も金があったら助けてやるんだけどな。金がある時は、みんなに酒を呑ませたからなア。自分の金も呑み、人の金も呑み・・・、マアー、人生は持ちつ持たれつだ」と、少しも反省をせず今月もまた、寮母さんの部屋の前をウロウロしていました。

 

 

畑の経済学 (6月更新分)

今年も畑の季節がやって来ました。

この春は寒暖の差が激しく、“遅霜”を警戒してなかなか苗を植えることが出来ませんでしたが、やっと先日、植えました。

 畑を始めて1~2年は、とにかく種を蒔き、苗を植え、育て、そして収獲の喜びを感じていましたが、4年目になると、限られた畑の “最有効利用” をいろいろと考えます。

 畑にも “経済学” があるのです。

 例えば、野菜にはキャベツ・レタス・ブロッコリー等のように1本の苗から1個しか収獲できないものと、キュウリ・トマト・ナス等のように1本から30個くらい収獲できるものとがあります。

 1坪当りの前者の収穫量は10個くらいですが、後者のそれは200個くらいになります。

 植付け面積を大きく占める前者を植えるより、少面積でたくさん採れる後者の方が経済性が高まります。

 また、キャベツの苗を1本50円で買って、育て、食べるより、1玉100円で買って食べた方が畑を有効利用できるということになります。

 このように高原では、春植えの野菜は種を蒔いても寒くて発芽しませんから苗を買って植えることになります。

 では、ニンジン、ハクサイ、ダイコンはどうか。

 これらも1本の苗から1個しか収獲できません。

 が、暖かくなってから種を蒔きますから発芽します。

 立派に成長するよう間引き、間引き菜は食べ、残りを育てます。

 種代は安いので十分、割に合います。

 高原での野菜作りは種を蒔いて発芽するものと、しないものとに分かれます。

 バカでは畑はできません。

「どうだ、ボビー、セニョールの経済理論は大したものだろう。俺も大学で経済学を学んだことが役に立ったな」と、セニョールは得意そうに云いました。

「そんなこと畑をやってる人ならだれでも知ってるよ。お酒ばかり呑んで2年も留年したくせに・・・、本当に経済学を学んだのならもっと “お金持ち” になったんじゃあないの。“野菜持ち” になっても威張れないよ」と、また、ボビーにやられました。

 

 

“うどん” と “そば” (5月更新分)

セニョールは麺類が大好きです。

 鳥取県で生まれ育ち大阪でサラリーマンをしていましたから、西日本の文化である “うどん” が好きです。

 今、長野の山の中に移り住み、そば文化に接し自分でも時々打って食べます。

 最初はモソモソしてあまり美味しいと思わなかった “そば” が食べるにつれて、その風味が美味しくなりました。

 そうです、“うどん” と “そば” の違いは“うどん” はナメらかな食感、 “ソバ” はモソモソしていますが風味を楽しむ麺類です。

 先日、セニョーラの実家である四国・香川県に寄って来ました。

 香川と云えば、“さぬきうどん” の本場です。

 色々なキャラクターを持った“うどん屋さん”がたくさんあります。

 中でも、洗面器のようなドンブリに5玉入った“タライうどん”は珍品です。

 “うどん” を食べながら、“そば” との値段の違いを考えました。

 “うどん” の値段は、“掛けうどん” が250円位、“キツネ・玉子うどん” は400円位、“テンプラうどん” は600~800円位です。

ところが “そば” は、“たぬきそば” が600円位、“ザルそば” は800~1000円

 “テンプラそば”にいたっては1200~1500円です。

 “ザルそば” は、セニョールに云わせたら “掛けそば” の冷えたものです。

 「“うどん” と “そば” には何故これだけ値段の隔たりがあるのだろう。小麦粉もそば粉も原材料費は大した違いはないのに・・・。むしろ、“うどん” の方が作るのに大変だぞ」と、セニョールが云いました。

 「“そば” は東京文化で、イキな江戸っ子のミエを張った値段じゃあないの。関西人は、ミエを張らないで実質的な “もの” の価値にお金を払うから“うどん” が安いんだよ。」と、ボビーが答えました。

 「ウーン、東京と大阪の違いは分かった。

 しかし、産地の長野県まで “そば” が高いというのはどうも解せないな」

「長野県は、東京値段に便乗した観光地値段でしょう。でも、高いよネ」

 「たかが麺類、庶民の食べ物なのにこうも値段が違ってはおかしい。石原知事と田中知事は、なにをしとるッ!。もっと庶民のために仕事をせんかッ!」と、セニョールは怒り出しました。

 ボビーは「アッ、いつものヒステリーが始まった。放っとこーと、あ~ア、ボクも “そば” が食べたいなア。いつもカリカリだからウンザリだよ」と、グチを云っていました。

 

 

 恐るべき、退化 (4月更新分)

現代人は確実に退化しています。

例えば、セニョールはスキーのとき5本指のソックスを履きます。

水虫ではありません。

 その方が足の指の運動をスキー板から雪に伝えることが出来るからです。

 が、そのソックスを履くのがヤッカイなのです。

 サッと履こうとしても指が思い通り動きません。

 親指、人指し指までは何とか脳の指示に従って動きますが、中指、薬指、小指に至っては全く指示に従いません。

 手で1本1本嵌めてやっと履きます。

 同じ事が手の指にも言えます。

 楽器を弾けば分かります。

 セニョールはフラメンコ・ギターを練習していますが、指が思い通りに動きません。

 ギターは左の指で弦を押さえ、右の指で弦を弾きます。

 このとき、親指、人指し指、中指までは脳の指示に素直に従いますが、薬指と小指はなかなか云うことを聞きません。

 特に小指は、弦を押えようとしても、弦を力強く弾こうとしても思い通りに動きません。

 運動能力が確実に低下しているのです。

 パソコンのキーボードをブラインドで打つ人は薬指、小指の運動機能が回復しているかも知れませんが、足の指の機能は確実に退化しているハズです。

 「人間はかわいそうだね。技術の進歩とともに、一方で退化しているんだから・・・、セニョールが “人間は縄文の昔に戻って出直すべきだ” と云うのが分かるよ」と、ボビーが云いました。

 「そうだろう。クツを履いていたらその内、足の指が塊になって牛のように2本爪になるだろう。手もミトンのようになるだろうな。裸足で大地を踏みしめ、走り回り、獲物を追い、手と足で木に登って木の実を食べる、そういう生き方が忘れられてるからな」と、セニョールが云いました。

「手はまだもう少し大丈夫だろうけど足の指の退化は早いね。人間は足の指を生きて行く為の道具にしてないもんね」

 ボビーとセニョールは額を寄せ合いボソボソと話していました。

 

 

スノー・シューイング (3月更新分)

先日、お客さんとスノーシューで雪の“霧が峰高原”を歩いて来ました。

 普段、スキーでは見れない白銀の世界が広がっています。

 “ブランシュ・スキー場”にお願いし、レスキュー隊のスノーモービルで山頂まで送ってもらいました。

 まず、このスノーモービルが面白いのです。

 “ピーポー、ピーポー”とサイレンを鳴らしスキーヤーの注目を浴びながらゲレンデを登って行くときの爽快感は、“優越感”そのものです。

山頂に着き、最初に目に飛び込んで来るものは360度の大パノラマです。

 雪に覆われた富士山・八ヶ岳・蓼科山・噴火中の浅間山・北アルプス・御嶽山・中央アルプスそして南アルプスの山々です。

 この日は雲一つない晴天に恵まれましたのでパノラマを十分満喫することができました。

 山頂でスノーシューを履き、雪原を歩き始めました。

 パウダーの締まった雪は、キュッキュッと心地よい鳴き声を出します。

 夏のハイキングコースやブッシュは雪で覆われているので特にルートはありません。

 雪からちょっとのぞいているレンゲツツジの芽を傷めないように気を付けて歩きました。

 雪が締まっていてスノーシューが埋まらないので木々を傷つけることもありません。

 が、スノーシュー人口が増えてくると色々な問題が起、こるので近い将来にはルート作りも必要になるでしょう。

 八島湿原や霧が峰高原の広々とした雪景色を見ながら呑む暖かいコーヒーは、また格別です。

 前夜、セニョールはアイゼン、ピッケル、ザイル、スコップなど冬山に必要な用具をリュックに詰め込みました。

それを見てボビーが

「易しい山歩きなのにどうしてそんな重装備をするの?荷物が重くなるじゃあない」と、云いました。

「ウン、易しい山でも冬山は冬山だからな。天候が急変することもあるし、急斜面を滑り落ちることもあるからね。どんなトラブルが起こっても対応できる用具だけは持っていないと山に登る資格はないんだよ」

「フーン、大ざっぱなセニョールにしては随分慎重だね」

「山を甘く見るから遭難するんだよ。ガイドにはお客さんを安全に案内する責任があるからね。セニョールはどうでもいい事には大ざっぱだが大切な事には慎重なんだぞ」

セニョールはいつかボビーも連れて行こうと思いました。

今、ボビーのスノーシューを考案中です。

 

 

ウィルス (2月更新分)

寒くなると、ウィルスが活発に活動し始めます。

下界ではSARS、鶏インフルエンザなどが流行し、テレビを見ていると鶏をドンドン処分していました。

 ボビーはこれを見て云いました。

「おかしいんじゃあないの。人間だったら人道的に治療をするのに動物だと簡単に処分するというのは・・・。そういうのは、本当に“命”を大切にしてないね。動物の“命”を軽視するということは、結局人間の“命”も軽視してるんだよね」

「ウーン、そうだなア。

 お陰でタマゴの値段は上がるし、戦争も無くならないし・・・」

 ここ姫木平は天然の冷凍庫なので、ウィルスも凍えて動きようがありません。

 ウィルスがいないハズなのに、4年前大流行し、セニョールも感染しました。

パソコンがやられたのです。

 ある時、化け文字のメールが飛び込んできました。

 そのメールをプレビューするとコメント欄が白紙でした。

 “おかいいな”と思い、発信者・件名をもう一度みると文字化けして誰だか、何だか分かりません。

 それでも気付かず「このメールの発信者はどなたですか。コメント欄も白紙になっていますが・・・」と、ご丁寧にも返信を打ちました。

新聞などでウィルスが飛び回っているのは知っていましたが、どういう形でパソコンに侵入するかを知らなかったのです。

結局感染し、アビエルタ発信のウィルスメールが飛び回りました。

 あるお客さんから「セニョールのパソコン、ウィルスに感染してませんか?」と、電話をいただきました。

 それで気付き、それからが大変です。

「アビエルタのメールが届いても開かないように」

 と、メールリストの相手先に一人一人電話しました。

 幸い二次感染者はでませんでしたが、今度はそれを駆除する方法が分かりません。

 プロバイダーに電話で泣きつき「今度はこのボタンをクリックして・・・、この記号を削除して・・・」と、指示してもらい、2時間かけてやっと、駆除しました。

この駆除するまでの3日間は疲れました、本当に疲れました。

セニョールは被害者ですが、二次感染者にとっては加害者になるからです。

それ以来、おかしなメールは全て削除しています。

悪しからず・・・。

 

 

哀しき、ジェントルマン (2005年 1月更新分)

スキー・シーズンがやって来ました。

スキーと云えばゲレンデ、ゲレンデと云えばリフト。

 このリフトがなかなか曲者なのです。

リフは使い方によっては、重宝なものです。

スキーは重力に従って滑り下りるスポーツですから

リフトで上にさえ上がれば、高令になっても楽しめます。

そんなリフトも、時として悪魔の道具に変身します。

ある年、セニョールはいつものようにスキーを楽しんでいました。

 何回目か1人でリフトに乗ろうと腰を落として構えていると突然、若いレディが「すみません、お願いしま~す」と割り込んで来ました。

セニョールは「ハイ、どうぞ、どうぞ」と位置をズラして構え直しました。

リフトの腰掛けが段々と近づいて来ていざ腰掛けようとしたとき、臀部に“ガーン”と衝撃を受けました。

腰掛の鉄パイプのヒジ掛けが尾テイ骨にまともに当ったのです。

こちらは腰掛けようとする、腰掛は動いて来る、倍の衝撃になるのです。

悲鳴を「ウッ!」とかみ殺し、落っこちそうになったのをかろうじて座りましたがその痛さたるや、尋常なものではありません。

目から火花とはこの事です。

線香花火のように火花が飛び散り、涙がボロボロ出てきました。

幸いゴーグルをしていたので、レディには気付かれないようにメガネの中でオンオン泣きました。

一定の間隔をおいて座ろうとしたことがそもそも災難の始まりです。

「ガラにもなく、カッコウをつけるからそういうことになるんだよ」と、ボビーが冷ややかに云いました。

「でもなア、若いレディにくっ付いて座るのは失礼だろう。『セクハラだッ!』と騒がれたらどうする。アビエルタは倒産してしまうぞ。セニョールの世代は、女性に対して必要以上に気を使うんだな。哀しいなア、男は・・・、ジェントルマンというものは・・・」

「セニョールはもう、“人畜無害” なんだから・・・、若い女性も全然、警戒してないよ。だから、意識しないで自然に振舞ったらいいんだよ」

 セニョールは、哀しそうな目をして「“人畜無害”はないだろう、ボビー!、俺もまだまだ、“男”だからなア」と、“男”を捨て切れないようでした。

 

 

半妄想 (12月更新分)

11月の畑はダイコンやハクサイの収獲・保存と、来年のための土造りで忙しい月です。

 昨年は冷夏で、今年は台風で、野菜の値段が高騰しました。

その点、自家栽培していると世の中の変動には影響されず、野菜をバサバサ食べることができます。

 やはり、自給自足が一番です。

でも、ここには海の幸がありません。

そこで大百姓になったセニョールは、ある日、クジラの赤ちゃんを買ってきました。

「ボビー、クジラを買ってきたぞ」

 「どうするの?」

 「ウン、畑に植えて大きくするんだ」

 「エーッ! 畑に埋めたらクジラが死んじゃうよ」

 「いいや、帰りに保健所に寄ってレントゲンで遺伝子を改造したから大丈夫だ。今は遺伝子を改造して何でも出来る“恐ろしい世の中”なんだぞ」

「そんなバカな。クローン何とかは聞いたことがあるけど、クジラを畑でなんて、ま~た、変なことを思いついて・・・」

「変なことじゃあないよ。来るべき食糧難時代に備えて今から生き延びる方策を考えておかないとな。1年もすれば20メートルくらいに成長するから、ボビーと3人で2年分の食糧にはなるぞ。これはノーベル賞ものだぞッ!」と、セニョールは得意そうに云いました。

「セニョーラ、セニョールがまたバカなことを云い始めたよ。どうする? もう、追い出そうか」

「困ったものネー。でも、老い先が短いんだから好きなことをさせてあげなさい。特に害もないことだし・・・」

 「ウン、分かった。セニョール、じゃあ、畑に植えに行こうか」

 「ヨシ、行こう、行こう。クワとスコップは持ったか?そもそも人間は、固定観念に囚われ易い。クジラは魚じゃあないから、ちょっと遺伝子を変えれば畑でも育つんだ。もっと、自由な発想で・・・。縄文の昔に戻って・・・」

 セニョールは、瞳孔の開いた目で熱くウンチクを語りました。

 ボビーは、熱弁を聞きながら段々と、“ひょっとしたら10年後には本当にできるようになるかも”と、思い始めました。

 やっぱり、ボビーの目も瞳孔が半分開いていました。

 

 

しつけ (11月更新分)

セニョール家には1匹のイヌがいます。

 犬種は“シーズー”、名前は“ボビー”、オスで2才です。

 このボビーを見ていて、“しつけ”についてつくづく考えさせられます。

3年前、同種のイヌが亡くなり、ボビーは2代目です。

初代のボビーがセニョール家の一員になったとき、ペットが初めてのセニョール・セニョーラは人に教えてもらったり、本で育て方を勉強しました。

それは、「小さいときにキチンと“しつけ”をしないと我儘になり、云う事を聞かなくなる」というものでした。

そこで、トイレを失敗すると怒り、タンスをかじると怒り、スリッパを咥えると怒りました。

その怒り方は、新聞紙を丸めて目の前の床をパンパン叩たき、恐がらせて“しつけ”をしました。

ある日会社から帰り、寛いで夕刊をひろげるとボビーが恐がってサッと逃げました。

これにはセニョールも反省させられました。

よく考えると、イヌにとってはどこでトイレをしてもいいハズだし、タンスやスリッパをかじっても、それはイタズラではなくただ遊んでいるだけなのです。

 それも1歳くらいまでの遊びで、その内しなくなります。

人間の生活に具合が悪いからといってイヌにそれを強要するのはおかしいと思いました。

その“しつけ”のせいか、初代ボビーは人間に対して恐怖感、不信感をちょっと持っていたようです。

 自分より弱いと思った小さな子供にはワンワン吠えて威嚇しました。

 この反省から、2代目はおおらかに育てました。

トイレだけはどこでもというのは困るので諭すように教えましたが、タンスをかじろうが、スリッパ遊びをしようが怒らないで見ていました。

それらも1才を過ぎると、しなくなりました。

お陰でタンスの引出しはボロボロ、スリッパは何束も入れ替えましたが・・・。

そういう育て方が良かったのか、ボビーは人間を恐がらない、良い性格に育ちました。

小さな子供ともジャレて仲良く遊び、吠えたりして威嚇しません。

「ボビーは賢いイヌになったね」と云うと、「ウン、ノビノビと生きてるよ。人間はボクをイジメないから、みんな友達だよ。トイレだけはセニョールが困るから協力するけど・・・」と、云いました。

 これも、おとなしい性格のシーズー犬だから通用したのかも知れませんが・・・。

 

 

身体のメカニズム (10月更新分)

セニョール一家は、4月と9月には鳥取に一週間帰ります。

そこで気が付いたことを一つ。

高地と低地では生理的現象が異なるということです。

我がセニョール館は標高1400メートル、湿度が低くカラッとした気候です。

一方、実家は海抜150メートル、湿度が高くジメジメしています。

この湿度の高低が身体に影響を及ぼします。

例えば、トイレです。

セニョール館では1日に通うトイレの回数が少ないのに、実家では多いのです。

それは何故か?

湿度が低いと汗をかかないが、皮膚が乾燥し体表面から蒸発する水分の量が多いのです。

ということは、摂取した水分がドンドン体細胞に吸収され、オシッコに回る量が少なくなるのです。

一方、湿度が高いと汗をジットリとかくので、肌がシットリしています。

蒸発が少なく、したがって体細胞の吸収も少なく、ドンドン、オシッコに回ります。

実家では夜中にニ、三度はトイレに行きます、眠いというのに・・・、日中もよく行きます。

セニョーラも、「セニョール館では肌が乾燥して化粧のノリが悪い」と云っています。

だから、いつも粉をふいたような顔をしています。

やはり、湿度がワルサをするのです。

「ボビーはどうだい?」と、セニョールが聞きました。

「ボクはイヌでしょう、元々汗腺がないから関係ないよ。その代り、体温調節は口からハアーハアーと熱を吐き出しているから・・・、汗腺があるのは哺乳類の中でも“人間”と“馬”だけだよ。でも、ジメジメしてたら毛は縒れるし、ダニとかノミがつきやすいじゃん。ボクはセニョール館の方が快適だな」

「ウーン、快適は快適だが“新陳代謝”という面ではどうかな?下界の方が毒素を体外に排出してくれるんじゃあないかな」

「でも、空気がキレイなのは断然、セニョール館だよ」

「ウーン、空気と新陳代謝とどっちが身体にいいのかな?これは、ちょっと難しい問題だな」と、セニョールは珍しく真剣に考え込みました。

「どうしたの? 今日は・・・、いつもと違って、理論的じゃあない。どこか具合でも悪いの?」と、ボビーは心配そうに覗き込みました。

 

 

いたずら、オリンピック (9月更新分)

男子マラソンで本当にハプニングが起こり書いたことがちょっと色あせましたが、そのまま掲載します

コバルトブルーのエーゲ海に囲まれたギリシャでは今、熱い戦いが繰り広げられています。

「サアー、いよいよ新体操の競技が始まりました。最初の演技は、ボールです。高々とボールを放り上げました。高い、高いッ!、アレッ! なぜかボールが二つになりました。選手は戸惑いながらも、一つを背中で受け止めました。アッ! 選手が倒れました。苦しそうに背中を押さえています。どうしたのでしょうか。どうやら、背骨が折れたようです。観客がボウリングのボールを投げ入れた模様です」

エラい災難です。

「野口が、トップでスタジアムに入って来ました。勝利を確信したのか、笑顔で観客に手を振っています。アレッ! 野口が突然、消えました、消えました。どこに行ったんでしょうか。アッ! 落とし穴の中でモゴモゴしています。穴から這い上がることが出来ません。その間にヌデレバが追い抜き、トップでゴールしました。野口は悔しそう、涙を流しています」

こういう場合は、どうなるのでしょう??

「ツーアウト、ランナーは三塁、サアー、城島の登場です。打った、打った、打球は三遊間を抜けました。アッ! ボールが消えました。レフトの選手が探しています。その間に、城島はホームを踏みました。日本、逆転しました。アレッ! どうやらモグラの穴にめり込んでいた模様です」

この場合は、???

「体操男子団体、富田が金メダルをかけて“鉄棒”最後の演技を行います。サアー、離れ技を決め最後の着地に向けてグルグル回っています。アッ! 鉄棒が折れました、折れました。富田は落下しました」

この場合は、????

「男子平泳ぎ200メートル決勝、北島が2つ目の金メダルを狙って飛び込みました。サアー、あと5メートル、北島トップ、北島ガンバレ、北島ガンバレ。アッ! 観客が北島めがけて投網を投げました。北島は投網に絡まれ、ゴールを前に泳ぐことが出来ません」

サテ、この場合は、?????

ボビーは、あまりのバカバカしさに、今回はコメントしませんでした。

 

 

ナゾナゾ? (8月更新分)

今月は、ナゾナゾ遊びです。

正解を読む前に考えてみませんか。

夏のある日、ボビーとセニョールはフィールドのデッキチェアで夕涼みをしていました。

「セニョール、ナゾナゾ遊びをしようよ」

「あアー、いいよ、問題を出してごらん」

「じゃーね、“森のオペラ歌手”って、なーんだ?」

「何、オペラ歌手? ウーン・・・、 分かった。昔、マリア・カラスという歌手がいたから、“カラス”だろう」

「ブー、正解は“カッコウ”でした。

 カッコウは谷の向こうで鳴いてもよく聞こえて来るでしょう」

 「ウン、そうだな、どんな声帯を持っているんだろうね。あの声の響きには、三大テノールも敵わないな。ヨシ、つぎ行こう」

「じゃあ、“高原のトランペット”って、なーんだ?」

「エーッ!?、そんな音の出るものがあったかなア、ウーン・・・」

「正解は、“ニッコウキスゲ”でした。ニッコウキスゲの花は、黄色くてラッパのような形をしてるでしょ、だから」

「フーン、なるほどな、つぎ」

「“高原のバナナ”って、なーんだ?」

「バナナ、バナナ、ウーン・・・」

「これも、“ニッコウキスゲ”でした。ツボミが膨らんでくると、黄色くなってバナナみたいでしょ」

「つぎ、もっと難しい問題を出せよ」

「じゃあね、これはちょっと難しいよ、“森の恋文”って、なーんだ?」

「恋文、恋文・・・、ウーン、俺は貰ったことないからなア」

「正解は、“落し文”でーす。落し文は甲虫類オトシブミ科の虫が葉っぱに卵を産み付けて、口と足で上手に円筒形に折りたたんで、枝からポトッと落とすんだよ。セニョールは自然の営みをよく観ていないね」

セニョールは、段々、きげんが悪くなって「ヨシ、今度は俺が出すから当ててごらん」と云って問題を出しました。

「“森の大工さん”って、なーんだ?」

「そんなの簡単じゃん、“キツツキ”でしょ」

「ウッ、ムムムム・・・、じゃあ、これはどうだ、“高原の女王”って、なー」

「“ヤナギラン”じゃん。華やかで、気品があるから」

「ヨシ、“しっぽのある花”は?」

「“トラノオ”じゃん」

「今度こそ、“森の土木やさん”は?」

「“モグラ”じゃん」

「やめた、やめたッ!」

セニョールはとうとう怒って、「ボビー、そろそろ晩酌の時間だから中に入るぞ」と云って、スタスタと入って行きました。

ボビーは“クスッ”と笑って「いくつになっても子供なんだから・・・、お酒を呑めばきげんが直るから、マアー、いいか」と、一番星を探し始めました。

 

 

セニョール青春記 ー 無銭旅行 ー (7月更新分)

毎年6月には悪友共が集い、一晩、お酒を呑んで騒ぎます。

そして帰った後、しばらくはその余韻に浸り、当時を思い出します。

学生寮は全国から集まって来るので旅行をしたとき非常に便利です。

家に押しかけて行き、“一宿一飯+大酒”にあずかれるからです。

旅行資金が無くなると、「息子さんに返すから」と云って借金までします。

親としては「大事な息子がいじめられては・・・」と思い、渋々貸してくれます。

セニョールは、旅行をするときはいつも寮生名簿を持ち歩きアチコチでその恩恵にあずかりました。

大学2年の夏、北海道を40日間旅行したことがあります。

40日もウロウロしていると、さすがに押しかけて行くところが無くなります。

襟裳岬では、運悪く寮生の家が無かったので空腹を満たすため海岸まで下りて行き、コンブを食べました。

岩場に打ち上げられている生コンブは幅20~30センチ、長さ3~4メートルありました。

これを端からゾロゾロと口に入れていきました。

最初は美味しいのですが、1メートルも食べると飽きてきます。

「肉も食べたいな、ご飯も食べたいな」と思いながらも

「金無しで生きて行くためだ」と考え直し頑張って全部食べました。

 長いものをゾロゾロと両手で口の中に運んでいる光景は異様なものに映ったことでしょう。

 満腹になるのはなりましたが、何か物足りないおかしな感じでした。

 やはり、色々なものを食べ合せてこそ、本当の満腹感が得られるようです。

 サロマ湖でも寮生がいませんでした。

 湖畔にテントを張り、細々とインスタントラーメンを作っていると隣りの人が見かねたのか「そこの学生さん、こっちで一緒に食べましょう」と声をかけてくれました。

 “コレ幸い”と箸と皿を持って伺うと、こちらはバーベキューの火を起こしていました。

 食材はと云うと、肉あり、魚介類あり、野菜ありで豪華な晩餐でした。

 このとき、生まれて初めてホタテの貝柱を食べました。

 やわらかくて甘い上品な味に“世の中にこんな美味しいものがあったのか”と涙が出るほど感動しました。

 お陰さまで腹一杯食べ、本当の満腹感を味わいました。

 これ以来、お金は無くてもグルメになったようです。

「セニョール、一宿一飯はいいけど、借りたお金はちゃんと返したの?」と、ボビーが聞きました。

「ウーン、返したかな、どうだったかな。案外、安酒を呑ませてチャラにしたかもな」と、セニョールは答えました。

「あ~ア、セニョールにも困ったもんだ。でも、考え方をちょっと変えるとお金が無くても、十分、人生を楽しむ事が出来るんだよね」と、ボビーは云いました。

 

 

2年で百姓 (6月更新分)

畑の季節がやって来ました。

「セニョール、去年はよく出来たね」と、ボビーが云うと「そうだろう、世の中、冷夏で野菜の値段が上がったが我がウンチク農園ではバカスカ採れたもんな」と、自慢そうに答えました。

キュウリ、ジャガイモは勿論のこと、トマトも大きいのがたくさん採れました。

一昨年は小指のようなニンジンしか出来なかったのが立派なのがたくさん出来ました。

 ニガウリなど1本の苗から50本も採れ、毎日食べたら口の中が苦くなりました。

「ボクは、苗が肥料負けしないかちょっと心配してたけどやっぱりたくさん入れたのが良かったのかなア」

「ウン、肥料もだけど、秋に枯葉を入れるだろう。これが堆肥になり土が随分良くなったんじゃあないかな」

「周りのお百姓さんが 『お宅のは立派なのが出来てるね』 とホメてくれたもんね」

「ウン、“百姓10年” と云うけど、セニョールは “2年” で百姓になったな」と、得意そうに云いました。

「でもおかしいな、ニンジンやダイコンなど二股、三股のものがザラに出来るし、キュウリなど曲がってて当たり前なのにこれだと商品にならないというのが・・・」

「そうだね、どこかおかしいね。見た目にキレいなものしか商品価値を持たないというのは・・・、今の人間は外見だけでものごとを判断して、ものの本質を見ていないよ。ものの価値は、そこに投入された労働力と需給バランスによって決まるから

余分な手間をかけたり、変形したものを除くとそれだけ値段が上がるよね。結局、消費者も一緒になって値段を吊り上げていることに気づかないのかなア」

 ボビーは話題を変えて、「ところで、今年は朝市をどうするの?」と、聞きました。

「ウン、今年は周りのペンションと一緒に “オープンガーデン” をすることになったから道路沿いで “新鮮ヤサイ市” を開くつもりだ」

「たくさん出来て、たくさん売れて、たくさん貯金ができたらいいね。もう、スペインにも3年行ってないんだから・・・」と、ボビーは “けな気” なセニョールを応援しています。

 

 

とうとう、対決 (5月更新分)

またまた、警察のお話です。

先日、鳥取に帰って来ました。

沿道の花見をしながら、カラオケを唄いながら、¥走行していると、突然、覆面パトが赤ランプをクルクル回して後ろに付きました。

“緊急出動かな?” と思い、走行車線に戻り追越車線を譲るとセニョールの車の前に割り込んで来ました。

そして、電光板に「パトカーの後に続きなさい」とテロップが流れました。

“何ッ! 俺の車を捕まえるのか、なぜ?”と思いながら路側帯に止めると、助手席の警官が飛んで来ました。

「スピード違反と追越車線常時走行で止めました」と、丁寧に云いました。

「スピード違反? どうして?」 と聞くと、「この道路は80キロ制限なのに、30キロオーバーで走っていました。パトカーに来てスピードメーターを確認してください」と答えました。

セニョールはカーッ!ときて、「何がスピード違反だッ! 今日の道路事情では “適正スピード” だ、危険走行ではない。スピードメーターなど確認する必要はないッ!」と、車から降りませんでした。

 ウィンド越しにモメているので、もう1人の警官も飛んで来ました。

セニョールは2人を相手に「俺がスピード違反と云うなら、あの車も、ホレ、今の車も捕まえろ」と、ゴネました。

 「他の車がどうこうではなくて、あなた自身が違反したかどうかが問題です」

 「バカモン、法は万民に平等であるハズだッ!」と、一喝しました。

 「それだけでなく、あなたは追越車線を常時走行していました、これも違反です。」

 「俺が追越車線を走っていたのは他の車が120キロ以上出さないように車線を塞いでいたんだ。交通安全に協力しているのに俺を捕まえるとは何ごとだッ!」

 こうなると、セニョールの屁理屈はもう止まりません。

「俺は今日、長野から鳥取まで700キロ走るのに80キロ走行では14~15時間かかってしまう。この不況下に、そんなに時間をムダにしてもいいのかッ!民間人は常に時間コストを考えて行動しているんだッ!」 とか、「警察は、80キロ以上はスピードがでない車を製造するようメーカーを指導・監督しているのかッ!」 とか、「自衛隊はイラクに行っているのに、警察はこんな所で車を止めていていいのかッ!、イラクの治安維持に協力すべきではないのかッ!」 とか、天下・国家を語り始めました。

2人の警官もホトホト疲れてきたのか黙ってしまいました。

そこで、すかさず「注意をしていると云うんなら聴くぞ」と助け舟を出すと、「そうです、そうです、私たちは注意をしているんです。なにもキップを切るだけが能ではありませんから」と、ホッとしたように云いました。

「ウン、注意だったら聴こう」

 「では、気を付けて走ってください」と、敬礼して手ぶらでパトカーに帰って行きました。

 「スゴいなアー、セニョールの屁理屈は・・・、注意処分にしちゃうんだから」とボビーが感心して云うと、「セニョールは “適正なスピード” で走っていたんだ。決して、スピード違反ではなんだよ。あそこでキップを切られたら、5~6万円の罰金を払うことになるだろう。そうしたら、ボビーのエサが買えなくなるじゃあないか。だからセニョールは頑張ったんだよ」と、云いました。

ボビーはここで逆らったら、また、屁理屈を聞かされると思い「セニョール、ありがとう」と取りあえずお礼を云いましが、本当は自分がお酒を呑めなくなるから頑張ったのを知っています。

 

 

許せぬ警察 (4月更新分)

スキーシーズンが終わると、セニョール一家は鳥取へ里帰りします。

ある年、中国自動車道を120~130キロで走っていると

サービスエリアからの合流点に白バイが止まっていました。

“オッ、今日は取締りをやってるな” と思い、減速して走行車線に戻りました。

他の車もみな走行車線を一列になって走りました。

そのとき、一台のベンツが140~150キロのスピードでスーッと追越車線を走り抜けて行きました。

みんな100キロ走行にジレていたので我も我もとそのベンツの後を追いかけて追越車線を走りました。

セニョールも4、5台後を走りました。

しばらく走っていると、そのベンツがスピードダウンして走行車線に戻りました。

が、一旦スピードアップしたら、もうダウンできません。

そのまま追越車線を走っているとそのベンツは先頭の車を先にやって、また追越車線に戻って来ました。

そしてパトライトをクルクルと回し始めました。

覆面パトカーだったのです。

結局、先頭の車は捕まり路側帯に止めさせられました。

それをよそ目に走り過ぎ“アアー、よかった、俺でなくて・・・” とホッとしながらも、その卑劣なやり方に段々と腹が立ってきました。

「誘い水をかけて、スピード違反を煽り、摘発するとは言語道断だ。こんな事があっていいのか、許せん。俺だったら出るところに出て、対決してやる」と、セニョールは怒りました。

横に乗っていたボビーも、「そうだね、あれはひど過ぎるよね。警察官も最初は皆、正義感と使命感に燃えていたんだろうけど“権力”の傘の中にいる内に、自分が“特別な人間”になったような錯覚を起こすんだね。“権力”は不思議な魔力を持ってるから・・・、だから、警察の不祥事が次から次と後を絶たないんだね。安っぽい人間ほど権力を持たすと恐いよね」と、憐れむように云いました。

 

 

酔っ払いスキーヤー (3月 更新分)

先日、真っ昼間から“呑み会”がありました。

何事にもマジメに取り組むセニョールは、お酒も一生懸命呑みました。

午後2時頃お開きになり、いい気持ちで帰ると睡魔に襲われました。

そのとき、セニョールは考えました。

“まだ陽が高いのに、このまま寝てしまっては一日が無駄になる” と。

 そこでスキーウェアーに着替え、ゲレンデに向かいました。

「こんにちは、今日もよろしくお願いしま~す」と、リフトのおじさんに云うと「アッ、臭い、呑んでるだにッ!」と、云いました。

「ちょっと、呑み会があって・・・」

「マアー、気を付けて滑べるだに」とアキレ顔で云いました。

 リフトで上がり、1本目、フワフワと宙に浮いて滑っている感じでした。

 “いつもと違う、雪を押さえつけていない” と感じながらも滑って下りました。

 そして、2本目、フワフワと滑べりながら、転倒しました。

 そのとき、思いっきり左肩を強打しました。

 足首を捻挫し、右肩を強打し、あちこち強打しているのに今度は左肩です。

 が、上半身の打ち身は滑るのには支障がないので、続けて滑りました。

 すると、ゲレンデの寒さで段々と酔いが覚め、本来の滑りが戻ってきました。

 痛さを我慢して2時間ほど滑り、帰ると

 「ほらごらん、あんなに酔っ払ってて滑れるハズがないのに・・・、セニョーラ、止めないとダメだよ」と、ボビーが云いました。

「思い込んだら命がけで、人の云うことを聞く人じゃあないでしょ。自業自得よ」と、もう面倒を見切れないという感じで云いました。

 それでも、ボビーは心配して「セニョール、そんなに痛かったらお医者さんに行ったら」と云うと、「ヤブ医者なんぞに診せても、どうせ 『“五十肩”です、お大事に・・・』 と云うに決っまとる。自然療法で治すのが一番だ」と、セニョールはカラ元気で云いました。

 ということで、アチコチ自然療法で治しているので骨がもう、木の枝のようにジグザグしています。

「やっぱり、お酒とスキーは相性が合わないのかなア」と、セニョールは珍しく反省しました。

 

 

ボビーの見た一年 (2月 更新分)

 去年の2月、松本空港に降りたときは身が縮むほど寒かった。

 周りには、見たこともない白いものがあるし・・・、セニョール館に着いたらもっともっと寒くって、白いものがたくさんあったよ。

セニョーラがソーッと下ろして、「これが雪だよ」と教えてくれた。

 冷たかったけどフカフカしてて意外と暖かだった。

 寒さはすごいよね、-10度、-20度になるんだから・・・。

 ときどき、ダイヤモンドダストがキラキラ舞ってキレイだったよ。

 元々ボクはチベット原産だから、寒さにはすぐに慣れた。

 少しずつ暖かになって、“フキノトウ”が芽を出し、”フクジュソウ”や“ザゼンソウ”や“ミズバショウ”が咲き始めるの。

 セニョールはボクを車に乗せて“タラの芽”とか“ゼンマイ”とか“コゴミ”を採りに連れて行ってくれたよ。

 やっと冬が終わり、芽吹きの気配が森中、漂ってた。

 そして、芽吹きが始まるんだけど、これがカワイいんだよね。

 カラマツは固いツボミがハジけて、中からギャザーのような新芽が出てくるし、モミの木もハジけて柔らかなハリハリッとした新芽が現れてくるし・・・。

そして段々と大きくなって、冬枯れの森は柔らかな緑に覆われてくるんだ。

この頃から小鳥も巣づくりを始め、虫を咥えて飛び回るんだよ。

毎年、三角屋根にコムクドリが巣を作るけど、208号室ではヒナがピーピーと鳴くのが聞こえるよ。

ヒナがかえる頃になると、“レンゲツツジ”が咲き始めるんだよ。

6月になると、セミがミーン・ミーンと鳴き始め、7月にはパタッと鳴き止むの。

 “春ゼミ”といってちょっと小ぶりだけど、姫木平の短い夏を知ってるから6月のうちに精一杯鳴くんだって・・・。

 7月、8月は山野草の宝庫だよ。

 “ニッコウキスゲ”とか“ハクサンフウロ”とか“コバイケイソウ”などがたくさん咲くんだよ。

 なんでも、セニョール館では100種もの山野草が咲くらしいけど、去年の夏は天候不順で今ひとつだったみたい。

 いつもは爽やかな夏で、セニョールも木陰でよくコーヒーを飲むらしいけど爽やかな夏日はほんの2~3日で、あとは曇ったり、雨が降ったりで散々の夏だったみたい。

 だから、秋には“クリ”や“ヤマブドウ”や“ゴミシ”など木の実が採れなかったんだって。

 お陰で食前酒の漬け込みができなかったみたい。

 でも、紅葉はキレイだったなア。

 全山染まるんだから・・・。

 あの大自然の色には、ピカソもルノアールも敵わないよね。

 特に、カラマツのオレンジ色の紅葉は北欧並みの美しさだよ。

 そして、木枯らしが吹き始め、枯れ葉が舞い、寒い、寒い冬がまたやって来た。

 いくらボクがチベット原産でも寒いものは寒いから、最近はセニョールの布団にモグリ込んで寝ているの。

 セニョールが「一年の感想を書け」と云うからキレイごとを書いたけど、本音はお客さんがあるときは、いつもオーナールームに閉じ込められて遊んでもらえないからそれが一番、つまんなかった。

 でも、セニョール館は、いろんな人間がたくさん出入りしてて、まるで動物園のようで面白かった。

 ボクも1歳と4ヶ月になって随分たくましくなったけど、まだまだイタズラ盛りだよ。

 

― おしまい ―

 

 

初  夢 (2004年1月 更新分)

お正月の楽しみは、何と云っても“初夢”です。

セニョールは眠りが浅いせいか、毎晩“夢”を見ます。

寝るときはいつも、今夜はどんな夢を見るか楽しみです。

そこで、久しく見ていない夢で、この正月あたり是非見たい夢があります。

それは、セニョールの願望の一つで、夢に現れて来るのです。

セニョールは生きている内にやっておきたい事が二つあります。

一つは“シルクロードの横断”、そしてもう一つは“エベレストの登頂”です。

突然“エべレスト”などと云うと、また、セニョールの冗談が始まったと思うでしょう。

ところが、セニョールは本当にアルピニストなのです。

若い頃、北アルプスの山々によく登りました。

上高地から梓川沿いに徳沢、横尾に、そして奥穂高岳から槍ヶ岳などをよく縦走したものです。

剣岳にもよく登りました。

雪の穂高連峰、立山連峰は神秘的で最高です。

ロック・クライミングもやりました。

海外では、ヨーロッパ・アルプスの最高峰“モンブラン”を単独登頂しました。

このときは、周りのアルピニストから「カミカゼ、カミカゼ」と冷やかされました。

“神風特攻隊”になぞらえ、“無謀な登山”と云う意味です。

オット、話が横にそれてしまいました。

そういう訳で、セニョールは5~6年に一度、エベレストに登っている夢を見ます。

ところが、サウス・コルまでは登って行くのですが、それから先の頂上までは登っていません。

エベレストに登ったことの無い哀しさか、サウス・コルから見上げる頂上はいつもガスに包まれています。

やはり、写真とかテレビでしか見たことがないからでしょうか。

最近、60代、70代の人が登っていますから、決して不可能なこととは思っていません。

もう久しく見ていないので、今年の初夢は、そろそろ、その夢を見たいものです。

と、ボビーは“アッ、これはヤバイ、セニョールが正気で考え出した。シルク・ロードならまだしも、エベレストなんて・・・

 何とかゴマかさないと” と思い,「セニョール、お正月は忙しくて夢など見てるヒマなどないでしょ」と、云いました。

「ウーン、確かに寝不足、寝不足で疲れて、夢を見たことないな」

「だから、エベレストの初夢など見なくてもいいのッ!」

「でもなアーボビー、初夢は“元旦の夜見た夢”というのはおかしいんじゃないか。 年が明けて、いつでもいいから初めて見た夢が“初夢”だと思うな。誰がそんなことを決めたッ、俺の許可なしにッ!」と、セニョールは突然カラミ始めました。

 ボビーは“ウッ! セニョールが理屈を云い始めた。これは益々正気だぞ。ウーン、お酒をドンドン呑ませて、ボケさすより方法がないかなア”と、思案しています。

皆さんは、どんな“初夢”を見ましたか?

 

※ 「正気」 ・・・ 11月更新分をご参照。

 

 

土とセニョールの知恵くらべ (12月更新分)

今年も寒くなって来ましたが、例年に比べちょっと暖かいです。

が、間もなくパウダーのいい雪が降ることでしょう。

森に移り住んだ年の12月、オープン前のことでした。

セニョールは、道路際に郵便ポストを立てようとスコップで穴を掘ろうとしました。

ところが、土がコチコチに凍っていて歯が立ちません。

そこで、ツルハシを持って来て土に挑みました。

が、それでも跳ね返されて掘れませんでした。

この辺りは、-10度、-20度の世界ですから土が凍ります。

40~50センチの深さまで凍り、コンクリートのように固まってしまうのです。

これを“凍結深度、何十センチ”と云います。

土は勝ち誇ったように、「どうだ新参セニョール、大自然の力を思い知ったか」と云いました。

 セニョールは「なにクソッ、負けてなるものか」と、何度もツルハシを振り上げますが、跳ね返されました。

土は「そもそも、人間が自然に勝とうとすることが間違っているんだ」と笑いながら云いました。

負けず嫌いのセニョールは「ウーン、ギリギリ、ギリギリ」と歯軋りしました。

そして、考えて考えて妙案を思いつきました。

「ボビー、熱湯を持って来てくれ」

ボビーは「ヨイショ、ヨイショ、何するの? お湯で、ヨイショ、ヨイショ」と云いながら、バケツを引きずって来ました。

「ガンコな土にぶっ掛けてやるんだ」と云って、バサーッとウツしました。

「アツッ、アツツツッ、何するんだッ、セニョールッ!」と、土は怒りました。

 でも、土もバカだから「アレッ? アレレッ? アリャリャリャ~、春が来たのかな?」と勘違いして、グニュグニュになりました。

セニョールは「ソレ見たか、人間を甘く見るなよ」と、勝ち誇ったようにポストを立てました。

 土は「ム、ム、ム・・・、騙されたか、この次は絶対に騙されないからな」と、悔しがりました。

ボビーは「セニョール、自然との戦いもその程度にしておいた方がいいよ。あまり奢り過ぎると、“阪神大震災”のようなバチが当るから・・・」と、云いました。

 

 

大妄想 (11月更新分)

ある朝、セニョールはフィールドに出てビックリしました。

空から一万円札がヒラヒラヒラヒラ舞い落ちて来て、フィールド一杯に散らばっていたからです。

「ボビー、ボビー、大変だ、大変だ」と、セニョールは叫びました。

「な~に? 朝早くから」と、ボビーは目をコスりながら出て来ました。

「ボビー、ほら、見てごらん、一万円札が山のようにあるぞ。セニョールもとうとう億万長者になったな」と云うと、ボビーはキョトンとしていました。

「これだけお金があったら、日頃の夢がかなえられるぞ。よし、早速、スペインのあちこちに点在してる古城を買い取って、姫木平に移築しよう」と、セニョールはとてつもないことを云い出しました。

「古城を買い取ってどうするの?」

 ボビーは仕方なく相槌を打ちました。

「改造して、お城のヴィラ・アビエルタを造るんだ」

「どうやって運ぶの?」

「ウン、霧ケ峰高原に大滑走路を造って、ジャンボ機で空輸するんだ。

100機くらいチャーターすればロープで吊り上げて運べるだろう」

「アルハンブラ宮殿とガウディのサグラダ・ファミーリアも移すかな」

「ついでにマドリッドやトレドやセビーリアも移そう」

「車山高原には風車を移して、ラ・マンチャ地方にしよう」

「白樺湖周辺は、コスタ・デル・ソル(太陽海岸、リゾート地)にするかな」

「アアー、そうそう、闘牛場やフラメンコ酒場も移さないとな」

「アッ! 大事なことを忘れてた。ワイン工場も移して、たらふくワインを呑むぞ」

「そして、セニョールが国王になって、ここを“スペイン王国”にするんだ」

「そうすれば、いちいちスペインに行かなくて済むからな」

「“パラドール”のようなヴィラ・アビエルタになればお客さんも喜ぶぞ」

などなど、セニョールのウンチクが延々と続きました。

ボビーは心配になって、「セニョーラ~、セニョーラ~」と大声で呼びました。

「セニョーラ、大変だよ、セニョールのボケが一段と進んだみたい。ほら、見てごらん、あのサバの腐ったような目を・・・

『スペイン王国を創るんだ』と云って、枯葉を一生懸命、ポケットにねじ込んでいるよ」

セニョーラはその様子を見て、安心したように「ボビー、セニョールはあれでいいのよ。出来もしないことをワアワアわめいてる方が、平和で・・・」と静かに云いました。

ボビーもその意味が分かり、「そうだね、セニョールが正気で何かを考えだしたら、本気になってするもんね。そうしたら、また一つ、苦労が増えるもんね」と云いました。

ボビーとセニョーラはソーッと館の中に入りました。

セニョールはワッハッハ、ワッハッハと笑いながら

舞い落ちる枯葉をワシ掴みして、懐にねじ込んでいました。

 

※ パラドール ⇒ 古城、修道院、貴族の館などを改造したスペインの高級国営ホテル

 

 

お前はフランス人か?(10月更新分)

セニョールはスペインに行くと主に田舎巡りをします。

都会や観光地は一通り見たので、観光ルートから外れた田舎の方が人間性が素朴で面白かったり、思わぬ新発見があったり、知られざるスペインを見ることができるからです。

初めて行った29才のとき、スペイン北部のローカル電車に乗っていると丘の上に中世の古城が見えました。

早速その村で下車し、宿を取って、古城を見に行きました。

そのお城の城壁には、たくさんの砲弾や銃弾の痕がありました。

たぶん、スペイン市民戦争の痕跡でしょう。

古城を見た帰り道、アゼ道を歩いていると一人の年老いた農夫が畑仕事をしていました。

「こんにちは」と声を掛けると「やー、こんにちは」と答えてきました。

そこで畑に座り込んで片言のスペイン語で話をしました。

「今日は天気がいいな」とか、「年はいくつだ?」とか、「カミさんはキレイか?」とか、そんなタワイの無い話をしていると突然、「お前はフランス人か?」と老人が云いました。

この短足・胴長・低鼻の典型的な東洋人であるセニョールを、である。

聞き間違いかと思い「エッ、いま何て云った?」と問い返すと、「“お前はフランス人か?”って聞いたんじゃよ」と云いました。

確かに「フランス人か?」と云っていました。

あまりに意外な言葉に、セニョールは慌てて「ノーノー、俺は日本人だよ」と云いました。

「日本人? そんなの知らんな」と老人は云いました。

田舎を訪れる日本人は少ないので知らなくても仕方ないが、“それにしてもフランス人はないだろう”と思いました。

老人が何故そう云ったのか気になって、それからズーッと考えました。

“スラッとして精悍な顔つきをしているからかな” とか、“俺の顔はそんなに彫が深いのかな” とか、“俺の着ているものはそんなにセンスがいいのかな” とか、いろいろと悩みました。

するとボビーが「夕暮れ時でハッキリ見えなかったんじゃあないの。セニョールの顔は決して彫りが深くないよ。貧乏旅行で、栄養不足から目が落ち窪んでいただけだよ。それより、その老人は不幸にして教育を受けることができなくて外の世界をあまり知らないんじゃあないの。隣りにフランスという国があるのは知っていて、外国人だからフランス人と云ったんじゃない。そんなに悩むことはないよ」と云いました。

確かに30年前のスペインの田舎には文盲の人がいました。

電車の中で辞書を片手に話をしようとしても、「自分は文字を読めないから」と云う老人もいました。

 “ボビーの云う事が本当なのかな”と思いながらも、悪い気はしませんでした。

 という事は、セニョールの中にも“西欧コンプレックス”が潜んでいるという事です。

 

 

アテ逃げ常習犯 (9月更新分)

もう“時効”になりましたから告白しましょう。

実は、セニョールは“アテ逃げ常習犯”なのです。

 ≪1回目≫

スーパーに買い物に行ったときのことでした。

1スペース空いているのでバックで車庫入れをしました。

すると“ゴン”と音がしました。

後ろを見ると、なぜか車が止まっていました。

横を見ると、1スペース空いていました。

どうやら、バックの距離計算を間違ったようです。

素早く辺りを見渡すと幸いに誰もいませんでした。

“ちょっと悪いけど、失礼するか”と急いで逃げました。

 

≪2回目≫

お客さんを迎えに行ったときでした。

バックするとまた、“ゴン”。

相手のサイドがボコッとヘッ込み、給油口のフタがパカッと開いていました。

このときは周りでたくさんの人が見ていました。

さすがに逃げるわけにはいかないので「この車の持ち主は誰ですか?」と大きな声で探しました。

が、持ち主が誰も現れませんでした。

そのうち、人も流れ、目撃者もいなくなりました。

「これだけ誠意を尽くしたんだから仕方がない、行きますか」と云うと、お客さんも「行きましょう、行きましょう」と云ってくれたので給油口のフタを丁寧に閉めて逃げました。

このときのお客さんは、高等学校の先生でした。

 

≪3回目≫

お客さんを案内しているときでした。

バックすると“ゴン”。

またまた後ろに車がいたのです。

相手のバンパーがヘッ込んでいました。

このときもお客さんが「大したことない、行ッちゃいましょう」と云ってくれたので逃げました。

このお客さんは、大学教授でした。

 

「さすがに教育者というものは心が広いな」とセニョールは感心しました。

「セニョール、感心してる場合じゃあないでしょ。バックするときはルームミラーとサイドミラーをよく見ないと」と、ボビーが云うと「あんな小さなミラーで後ろが見えるか。メーカーは“姿見”くらいのものを付けるべきだ。そもそも、車は前を向いて走るときに能力を発揮するようにできているからバックにはあまり工夫が施されていないんだ。メーカーが一番、悪い。マアー、ドライバーなら皆、2度や3度、経験があるだろう」と全然、意に介していませんでした。

いずれにしても、セニョール・ナンバーの車を見つけたら近くには止めない方が賢明です。

これからも、まだまだアテそうです。

 

 

ボビー失踪事件 (8月更新分)

ある夏の暑い日でした。

ボビー(初代)が突然、姿を消したのです。

それは鳥取の実家に帰っているときで、セニョーラは四国に里帰りしてボビーとセニョールとおばあちゃんで留守番をしているときでした。

ボビーに「お留守番!」と云って、玄関を閉めて買い物に出かけました。

帰ると、いつも喜んで出迎えに来るのに、そのときは家の中が静かでした。

“昼寝でもしてるのかな”と思い、「ボビー、ボビー」と呼んでも姿が見えません。

おばあちゃんに「ボビーは?」と聞くと、「アンタが出た後、キューン、キューンと悲しそうに泣いてたよ」と云いました。

イヤな予感がして家の中を捜しましたがどこにもいません。

近所を一軒一軒「うちのボビーを見かけませんでしたか?」と尋ねて回りましたがだれも見かけた人はいませんでした。

そこで、町の中の路地を車でユックリと捜して回りましたが見つかりません。

“ひょっとして、いつもの散歩道かも”と思い、捜しましたがヤッパリいません。

これにはセニョールも弱りました、本当に困りました。

“たかが犬”とはいえ、長年一緒に暮らしたパートナーです。

放って置くわけにもいきません。

“どうしたものか”と思案していると、目の前に駐在所がありました。

「こんにちは」とセニョールは中に入って行きました。

やあー、こんにちは、どうかしましたか?」と巡査さんが出て来ました。

「実は、困ったことが起きまして・・・」とセニョールはモジモジしながら云いました。

「困ったこと? 何でも話してください」

「あのー、そのー・・・」

「本官は警察官です、困り事があったら何でも云ってください」と巡査さんは促しました。

「あのー、そのー・・・、 絶対に笑いませんか?」

「笑うものですか、警察は庶民の味方です、絶対に笑いません」

そこでセニョールは意を決して話しました。

「実は・・・、うちの犬が行方不明になって・・・」

“プーッ”と巡査さんが吹き出しました。

「アーッ! 笑わないって云ったじゃあないですか」とセニョールはちょっとムッとしました。

「失礼、失礼、ところでどんな犬ですか? 何時いなくなったんですか?」

セニョールは真剣に説明しました。

巡査さんは「では、本署に連絡をとります」と云って電話をしました。

込み上げる笑いを一生懸命、噛み殺しながら連絡していました。

電話の向こうでは笑っているのがセニョールには見えました。

“なんだ、警察官というヤツはッ! 人の不幸を笑うのかッ!”と憤慨しましたが怒っている場合ではないので、とにかくお願いして外に出ました。

すると、ボビーがトコトコと歩いていました。

「ボビー、ボビー」とセニョールは中腰になって手を差し伸べました。

「セニョール~」とボビーは駆け寄って来て、腕にチョンと抱かれました。

「ボビー、どこに行ってたんだ、ダメじゃーないか、心配したんだぞ」

「だって、セニョールがボクを置いてきぼりにするんだもん。ボクだって一生懸命、セニョールを捜したんだよ」

「そうか、そうか、住み慣れない家でボビーも不安になったんだな」とセニョールはボビーの頭を撫でました。

ボビーは縁側の少し開けていた窓から飛び出したようです。

 

 

 セニョール青春記 ≪散髪屋になったセニョール≫ (7月更新分)

セニョールは、2浪してヤットコサ、京都の大学(京大ではない、京都の大学である)に進学しました。

学生寮に入り、大酒を呑み、バカ騒ぎをして学生生活を謳歌しました。

 ある時、酒を呑みながら「俺は散髪屋の息子だから頭を刈ってやるぞ」と云いました。

すると、希望者が現れました。

当時、寮にはバンカラ学生が多く、“酒は呑んでも散髪代がない”とか、“本を買えば散髪代が残らない”というような連中が多かったからです。

一番手として M 君が「スソを揃えてくれ」と云って来たのでカットしてやりました。

この話が広まり 、二番手として I 君が「“角刈り”にしてくれ」と云って来ました。

“角刈り”とはサイドを短く刈り上げ、てっ辺を平らに刈る髪型で30数年前、高倉健とか菅原文太がヤクザ映画にこのスタイルで登場し流行した髪形です。

“これはちょっと難しいな、出来るかな”と内心思いましたが今更「出来ない」とは云えないので「よし、やってやる」と云ってハサミを持ちました。

ハサミといっても文房具用の錆びて刃の欠けたものです。

ジョキジョキ切る間に何度も髪がハサミに挟まれ

I 君は「アッ、イタッ! アッ、イタッ!」と悲鳴を上げていました。

「もっと丁寧にやってくれ」と I 君が頼むと、「タダなんだからゼイタクを云うな」とお構いなしにグイグイ引きちぎりながらジョキジョキ刈りました。

多分、何十本かは引きちぎったでしょう。

ところが、いくら刈っても刈り直しても“トラ刈り”になって、うまく刈れません。

刈れば刈るほどトラ刈りが目立ってきました。

手のほどこし様が無くなったので「よし、できた。洗面所で頭を洗って来い」と適当に打ち切りました。

「サンキュー、サンキュー、散髪代が助かった」と嬉しそうに洗面所に向かった I 君が血相を変えて飛んで帰って来ました。

「な、なんだ、この頭はッ! 恥かしくて外を歩けないッ!」と怒り出しました。

セニョールは何食わぬ顔で「実は、俺は散髪屋の息子なんかじゃあない。素人に“角刈り”なんか出来る訳がないだろう。タダなんだから、ちょっとくらい我慢しろ」と云いました。

「ゲーッ! 散髪屋の息子というのはウソだったのかッ!」とカンカンになって怒りましたが、もうあとの祭りです。

切った髪は元には戻りません。

「“角刈り”にしてくれと頼んで来たのはお前の方だろう。仕上がりの良し悪しまで責任を持てるか」とセニョールは全く相手にしませんでした。

 何を云っても相手にされないので「お前を信じて、イタくても我慢してたのに・・・」と泣く泣く帰って行きました。

それから1週間、I 君は部屋に閉じ篭もって外に出なかったようです。

それ以来、なぜか、だれも「散髪をしてくれ」と云って来なくなりました。

「セニョール、ちょっと冗談が過ぎたんじゃあない。少しは反省したら」とボビーが云うと、「だいたい男が髪型なんぞを気にする方が間違っとる。トラ刈など1週間もすれば髪が伸びて分からなくなるんだから。あの一件で、彼も“人間、何が大切か”が勉強になっただろう」と平然としていました。

 

≪ 余  談 ≫

寮には、こんな学生もいました。

ソロバン3級で、“神童”と騒がれた田舎の秀才。

酒を呑んで唄う“炭鉱節”がうまいからと、将来のオペラ歌手を夢見る妄想家。

食糧調達係で近くの畑に“大根”を盗みに行き、警察に捕まったバカなヤツ、などなど・・・。

 

 

去年の収穫は? (6月更新分)

「セニョール、去年の収穫はどうだった?」と、ボビーが聞くとセニョールはプイッと窓の外を見ました。

 “アレッ!? 聞き方がまずかったかな”と思い「ジャガイモはたくさん採れたね」と云うと、「そうだろう、大きいヤツが500個も採れたんだぞ」と、得意そうな顔でセニョールは云いました。

「人参はどうだった?」と云って、“アッ、しまった”と思いました。

案の定、セニョールはプイッと横を向きました。

“小指”くらいの人参しかできなかったからです。

セニョールはきげんの悪そうな顔で「“5寸人参”というから高くても植えたんだぞ。とんでもない、あれは“1寸人参”だ、だまされた、詐欺だ」と、ブツブツ云っていました。

 ― 普通は20センチ位のものができる ―

それでも、食糧難世代のセニョールは大事そうに食べていました。

「キュウリはよく出来たね」

「ウン、キュウリは一時に食べきれないほど出来たから今年は何回かに分けて植えないとな」

「サトイモはどうだった?」

セニョールはまた、プイッと横を向きました。

植えた種イモに子イモが一つも出来なかったからです。

それでも種イモを掘り出し、キザんで数を増やして食べていました。

「トマトはどうだった?」

「マアーマアーだったかな、『甘い、甘い』ってお客さんも喜んでくれたから」

でもボビーは知っています、ミニトマトのように小さかったことを・・・。

 ボビーは意地悪く追い討ちをかけました。

「で、朝市の売上はどうだった?」

「朝市なんか開けるワケがないだろう。これっぽっちの収穫で」と、セニョールはとうとう怒ってしまいました。

それでもボビーはおかまいなしに突っ込みました。

「今年はどうするの? スペインは?」

「今年は畑面積を倍に増やした。肥料もたくさん入れたから、今年こそ朝市を開いて、スペインに行くぞ」と、ノドをゴロゴロ鳴らし、クワを担いで出かけて行きました。

「あんなに肥料をたくさん入れたら、苗が肥料負けしないかなア。でも、マアーいいか、クジけないで挑戦するだけも・・・」

と、ボビーは鼻ちょうちんを膨らませて、昼寝に入りました。

 

 

怒り狂ったセニョール (5月更新分)

山菜の季節になりました。

森にはフキノトウ、タラの芽、ゼンマイ、ワラビ、ウド、コゴミなどがたくさん芽を出します。

なかでも一番人気が高いのは、“山菜の王様”と呼ばれるタラの芽です。

テンプラにして食べるとおいしいからです。

この季節、セニョールも人よりたくさん採ろうと森の中を徘徊します。

が、たいてい食べ頃の芽は採られていて、採るにはちょっと早いものが残っています。

「3日後にまた来よう」と芽にツバをつけて帰ります。

そして再び行くと、もう誰かに採られてありません。

セニョールはちょっと頭にきて

「ヨシ、こうなったらタラの木を根こそぎ掘って裏庭に移植しよう」と考え、30本掘って帰りました。

「これで安心だ。来年からはワンサと採れるぞ」と、ニンマリしていました。

そして翌年、雪融けとともに芽がたくさん出てきました。

固い蕾が割れて、段々と膨らみ、大きくなっていく様を朝晩見てはヨダレを垂らしながら楽しみにしていました。

食べ頃になってきたので、「明日は採ってテンプラにしよう」と胸を膨らませて、夜休みました。

ところが、ところがです。

朝、起きて見るとタラの芽が全部きれいに盗られていました。

早朝散歩のお客さんが盗ったのでしょう。

これにはさすがのセニョールも怒り狂いました。

「ここまでするか、人が手塩にかけて育て上げたタラの芽を。犯人を見つけ出して八つ裂きにしてくれる」と、物置からナタを持ち出し、振り回しました。

髪は逆立ち、目は充血して吊り上り、鼻の穴は広がり

口からアワを噴きながら猛り狂いました。

その様は、まるで酔っ払った“仁王様”のようでした。

何をされるか分からないので、ボビーは近寄らないで見ていました。

そして、遠くから「セニョール、落ち着いて、落ち着いて。もともと山から無断で掘って来て植えたものでしょ。

どっちもどっちだから、そんなに怒る資格はないと思うけど・・・。日本人も1億いれば、中には出来損ないもいるよ。そんな“出来損ない人間”は放っとこうよ」と云いました。

それがまた気にさわったのか「なにが放っとけだッ! 人の楽しみが踏みにじられたんだぞ。だいたいボビーがイカン。一晩中、見張りをしていないからこんなことになったんだ」と、今度はボビーに当たり、ナタを振り回して追いかけ始めました。

「ヨシ、有刺鉄線を張り、電流を流して感電させてやる」 とか

 ― 傷害罪で警察沙汰になるのに ― (ボビーの声)

 「タラの芽に毒を塗ってやる」 とか

 ― 自分だって食べれなくなるのに ―

「ワナを仕掛けて、逃げれないようにしてやる」 とか

 ― 自分がワナにはまるんじゃあないの ―

 無茶苦茶なことを云い出しました。

しかし、どんなに怒っても、怒りをぶっつける相手がいないほどむなしいことはありません。

ただ、ナタを振り回し、空を睨みつけ、アワを噴いているしかないからです。

それから一年、またタラの芽が膨らんできました。

 今年は、周りにロープを張り巡らし、朝晩、ナタを持って巡回しています。

 ボビーは、“ナタなんか持って・・・、警察沙汰になったら困るなア”と心配しています。

 

 

 タヌキのお別れ (4月更新分)

雪が融け始めると色々な動物がフィールドに出没します。

ある晩、タヌキがフラッと裏庭に出て来て、ジッーと館の明かりを見上げていました。

それに気づいたセニョールがテラスから「チッ、チッ、チッ」と声をかけると

タヌキは急いで森の中に逃げて行きました。

 “動物とのコミュニケーションは難しいな”と思っていると明くる晩、また、そのタヌキが現れました。

 セニョールは夕食の残り物を1つ投げてやりました。

 が、やっぱりタヌキは森の中に逃げて行きました。

 次の夜も、その次の夜も出て来ては森の中に逃げ込みました。

 そのうち、投げた食べ物をクンクンと嗅ぎ始めました。

 そしてチョンと咥えて逃げました。

それで安心したのか、それからはセニョールの投げる食べ物を食べて帰るようになりました。

しばらくして、二匹出て来るようになりました。

 “アレッ、所帯を持ったのかな”と思っていると、3匹の子タヌキを連れて来るようになりました。

 子タヌキはまったく警戒心がなく、親タヌキの周りをジャレてクルクル回りながら一緒に夕食を食べて帰って行きました。

セニョールが近寄ろうとするとサッと逃げるのでテラスの上からタヌキ一家の団欒を眺めていました。

ところが秋の始め頃からサッパリ出て来なくなりました。

ボビーが心配顔で

「どうしたのかなア、あのタヌキさん一家は」と云うと、「秋は木の実が多いから、ここまで出て来る必要がないんだろう」とセニョールは答えました。

それでも何となく物足りなく、ちょっと気がかりでした。

木枯らしが吹き始めました。

そろそろ森には食べ物がなくなる頃です。

 “もう出て来るだろう”と待ち構えているとある晩、ヒョッコリ、タヌキが出て来ました。

 あの最初に出て来た親タヌキでした。

 いつものように食べ物を投げてやりましたが食べようとしませんでした。

「どうした、タヌ公」とセニョールは声をかけました。

 よく見ると、毛づやも悪く、やせ細り、元気がなさそうでした。

 ボビーも「どうしたの、タヌキさん、サアーお食べ」と云いましたがやっぱり食べないで、ボビーとセニョールをジーッと見上げていました。

そして弱々しい目で何かを訴えかけているように見えました。

「どうしたのタヌキさん、どこか具合でも悪いの?」とボビーが心配して云うと、タヌキは二・三度頭を下げるような仕草をした後、力なく森の中に帰っていきました。

それ以来、二度とタヌキは出て来なくなりました。

 ボビーは降り積もる雪を見ながら「あのタヌキさん、どうしてるかなア。もう死んじゃったのかなア。セニョールにお別れを言いに来たのかも知れないね」と云いました。

セニョールはジーッと雪を見ていました。

 

 

ボビーの復活 (3月更新分)

2月26日、ボビーが復活しました。

 大阪から飛行機に乗って来たボビーを受け取ったとき、顔も毛色も初代ボビーと瓜二つなので、セニョールは思わず目頭が熱くなりました。

 ここでボビーに自己紹介をしてもらいましょう。

「ボクの名前は 『 Boby Hermanos 』 って云うんだって、通称は“ボビー”だよ

 以前、ボビーというお兄ちゃんがいて

 それでボビー・エルマーノス(ボビー兄弟)と名づけたらしいよ

 シーズーでオス、2002年9月15日生まれだからまだ5ヶ月かな

 セニョールは 『 スペイン語で育てるんだ 』 と云って

 『 Ven  por  aqui 』  とか、 Tienes  mucho  frio ? 』 とか、『 Casero 』  とか色々云ってるけどチンプンカンプンでちっとも分かんない。

でも、そのうち分かるようになると思うよ

言葉は反復練習だからね。

ただ、セニョールのスペイン語もちょっと怪しいから

ボク、スペインで通用するかどうか心配だなア」

「ウーン、ボビー、よくできた。でも、後半はちょっと失礼だぞ」

と、セニョールは半分ホメました。

 空港ターミナルから1歩出ると大阪とは違う寒さにボビーはブルブルッと震えました。

「ブリーダーとか何とか言う人が 『 飛行機で行くんだよ 』 と云うから楽しみにしてたのに、真っ暗な貨物室に入れられて

おまけにこんな寒いところに送られて・・・」と、ボビーはブツブツ云っていました。

館に帰っても、あまりの環境の変化に不安で元気がなく、水も飲まず、ペットベッドの中でジーッとしていました。

 それが夜、夕食を与えると急に元気になり少しづつ、ジャレるようになりました。

セニョールもセニョーラも忘れていたのです。

動物とのコミュニケーションは食べ物を与えることから始まることを・・・。

 一夜明けた翌日はもう元気に遊びまわっていました。

 その姿を見て、死んだボビーが生き返ったような気になりました。

「よし、2月26日は“ボビー復活祭”としてセニョール家の祭日にしよう」と、セニョールは云いました。

「じゃあ、その日はボクもご馳走が食べれるね」とボビーが云うと、「いいや、ボビーはいつものカリカリだよ。セニョールがたくさんお酒を呑める日なんだから」と、自分のことしか頭にないようでした。

セニョーラが横から「そんなイジワルはさせないから、ボビーにもたくさんご馳走を作ってあげるからね」とやさしく云うと、ボビーはセニョーラの傍にすり寄って行きました。

 またまた、ボビーとセニョーラの間に同盟ができたようです。

 と、どこからか「セニョール~、セニョーラ~、新しいボビーが来たからってボクのことを忘れちゃあイヤだよ~」と、ボビーの声が聞こえてきました。

「アア~、決して忘れないよ~、そのために“ボビー”って名づけたんだから~」とセニョールとセニョーラは凍てついた星空に向かって云いました。

 

 

 “ジプシー”って、なに? (2月 更 新 分)

「セニョール、いつか話してたスペインのお話はどうなったの?」

「アア、そうだった、そうだった」

「どうして、スペインに興味を持ったの?」

「ウン、田舎から京都に出て随分色々なカルチャーショックを受けたけど、その一つがフラメンコだったんだ。 セニョールは音楽が好きだろう。初めてその音楽を聴いたとき、背筋がゾクゾクするほど感動したんだよ」

「フラメンコってどんな音楽?」

「ジプシーの音楽で一般的には情熱的な音楽と云われているけど実はそうじゃあないんだ。確かに、ギターの弾き方とかダンサーの振り付けやステップ、手拍子など激しく情熱的だけど、唄は非常にスローで悲しいメロディなんだよ」

「どうして悲しいのかなア」

「ジプシーはスペインでは差別を受けて社会の底辺に位置してるから、なかなか正業につけないんだ。だから、ブドウやオリーブなどの収穫の季節労働や大道芸やドロボーをして生きるしかないんだよ。そういう悲しさを唄に感じるね」

「それでスペインに行ったの?」

「ウン、日本の“民謡”も中南米の“フォルクローレ”も、世界の民族音楽はみんな土の中からにじみ出たものだからね。フラメンコを生み出した風土を見たくて行ったんだよ」

「行って見てどうだった?」

「グラナダにサクロモンテという丘があって、ここにジプシーの集落があるんだけど土を掘って洞窟生活をしてたな。反対側のアルハンブラ宮殿から見るとアリ塚みたいに見えたよ」

「フーン、やっぱり貧しいんだね」

「でも、お金など問題にせず、自由奔放に生きてるって感じだったな。一見“悲しさ”などないみたいだけど、どこかに潜んでいるんじゃないかな」

「で、その洞窟集落に行ってみた?」

「ウン、警戒して貴重品は持たずに汚い格好で行ったけど、同じ人間だから別に危害を加える訳ではなし、気のいい人たちだったよ」

「フラメンコをやってた?」

「この洞窟では観光用にフラメンコショーをやってるところがあるんだけど、このフラメンコを観てちょっとガッカリしたね」

「どうして?」

「人によってはフラメンコの原型を観れたと絶賛する人もいるけど、良く云えば“原型”、悪く云えば“ヘタ”なんだよな。洗練されたフラメンコを観たい人にはちょっと物足りないんじゃないかな。才能のある人はマドリッドに出て世界で活躍してるけど、それはほんの一部の人でしかないからね」

「ところで、ジプシーって、なに?」

「確か9世紀頃だったと思うけど、インド北西部から大移動したロマの人々で、一部はハンガリー、ロシアに向かい、一部はフランスに留まり、そしてスペインまで移動した放浪民族なんだよ。ジプシーはオリエンタルだからラテン系のスペイン人とは顔が違うね」

「フーン、スペイン以外で面白いジプシーの人っている?」

「昔、ユル・ブリンナーというアメリカの俳優がいたろう。“王様と私”というミュージカル映画で主演した人だけど・・・、彼はロシア系ジプシーの血を引いてるらしいね。セニョールは彼が唄うジプシー音楽のテープを持ってるけど、バリトンでさすがにうまいね。おっと、ついつい話が長くなった。今日はこのくらいにしよう」

「まだまだ、面白い話がいっぱいあるんでしょ?」

「ウン、最初、フラメンコでスペインに興味を持ったけど、実はスペインで別のモノを観てハマり込んでしまったんだよな。その話はまたにしよう」

「忘れないで、してよ」と、いうことで次回からはスペインの深奥に入っていきます。

今回はセニョールの独壇場でボビーは聞き役だったので、セニョールは大いに気を良くして窓際のイスに深々と座って得意そうに鼻からユックリ煙を吹き出していました。

 

 

キツツキの反抗 (2003年 1月更新分)

雪が降り始めると森には食べ物がなくなり、サルやウサギやカモシカが食べ物を求めて館のフィールドに出没します。

小鳥たちも冬枯れの枝に止まって寒そうにしています。

と、ある朝、コンコンコンコンとリズミカルな音が聞こえてきました。

最初は“何の音だろう”と夢見ごこちで聞いていましたが、朝になると音がするので、目をこすりながらコッソリ覗いて見ました。

すると、キツツキが屋根の庇の裏をツツいていました。

よく見ると、10センチくらいの穴を空け、今度は2番目の穴を空けようとしていました。

「こいつは困った、館が穴だらけになる」

セニョールは、ボビーを呼んで云いました。

「周りにたくさん木があるのに、どうして館をツツくのか聞いてみてくれないか」と。

「ウン、分かった」と、ボビーは首が折れるほど上を見上げて云いました。

「キツツキさん、キツツキさん、どうしてセニョール館に穴を空けるの ?」

「どうしてって? 本当はボクも木に穴を空けたいんだよ、中には虫もいるし・・・、でも、自然保護団体の人が来て、木に穴を空けたらいけないと云うんだ。ボクは何かをツツいていないと落ち着かない性格だからそれで仕方なしにセニョール館をツツいているんだ。セニョール館は人間が作ったモノで自然じゃあないからね」

セニョールはその話を聞いて憤慨しました。

「最近の自然保護とか動物愛護とかは自然の生態系を崩しかねないところまでエスカレートしている。この前など、“地球温暖化防止のため、落ち葉を燃やさないように”というバカな回覧が回ってきた。落ち葉を燃やすときの煙や匂いは晩秋の森の風物詩なのに・・・、その灰は土を中和して豊かな森を創るんだぞ。どうも最近、あれもダメ、これもダメと、うるさくてかなわん。ヨシ、キツツキに好きなだけツツけと云ってくれ。」

「エーッ!? 本当にいいの、そう云っても。修繕するお金があるの?」

「ウーン、イヤ、ちょっと待て。折角、妄想の世界に浸っているのに、急に現実に引き戻すようなことを云うなよ。じゃあ、変わりの板を用意するからと云ってくれ」

「キツツキさん、この板ならツツいてもいいって」

「そんな用意されたモノをツツいても面白くないよ。それより、木をツツいてもいいように人間に話してくれないかなア」

「ウン、分かった。でも、欲深い人間に話して分かるかなア。だいたい、人間の止め処ない“欲”が地球環境を壊しているんだよね。ボクたちは自然の生態系の中でヒッソリと生きてるのに・・・、人間は“縄文の昔”に戻って再出発すべきだよ。もともと、野山を駆け回って生きていたんだから・・・、今の人間は楽をしすぎだよ」

キツツキも「そうだ、そうだ、人間の作った勝手な規則に従うことはないよね。第一、話さないと分からないような人間には、いくら話しても無駄だもんね」と云って、また、木をツツき始めました。

セニョールはこの話を聞いて「ヨシ、俺も森の法律は自分で作ってやる」と云って、また、モクモクと落ち葉を燃やし始めました。

 

キツツキは鳥の名前ではありません。

「キツツキ科」という鳥類の分類名で、クマゲラ、アカゲラ、アオゲラ、コゲラなどがこれに属します。

 

 

モミの木 (12月更新分)

秋になると待ちかねたように、木々は自己主張を始めます。

白樺・ミズナラは黄色に、カエデ・ナナカマドは赤色に、カラマツはオレンジ色に・・・。みんな、それぞれにオシャレを競う中で、モミの木だけはひとり寝ボケ顔でボーと佇んでいました。

それを見て、まわりの木々は「ボクたちは、春は柔らかな新緑、夏は爽やかな緑、秋は色とりどりの装いに衣替えするのに、モミの木さんだけは一年中、同じだね」

「ダサいよな」、「芸がないよね」、「モミの木さんがいなければ、森はもっと美しくなるのに」と、モミの木をバカにして、悪口を云いました。

人間も、美しく紅(黄)葉した木々をホメても、モミの木に目を向ける人はいませんでした。

モミの木は、なにを云われても、どんなに無視されても、ジーッと黙っていました。

やがて、木枯らしが吹き始めました。

あのきれいに色づいた葉はサラサラと散り始めました。

そして、とうとう丸裸になり、枯れ木のようになりました。

「ワアー、ちょっとみっともないかなア」

「これから寒くなるのにどうしよう」

 雪が降り始めました。

「アッ、イタい、雪で枝が折れちゃった」

「ボクなんか、幹が裂けちゃって死にそうだよ」

「オー、寒い、寒い。モミの木さんはいいなアー、葉っぱに包まれて温かそうで」

モミの木は、目を覚ましました。

自己主張する季節が来たのです。

どんなに吹雪いても、どんなに凍てついても、微動だにせず“凛”と立っていました。

そして、枝に積もった雪の“白”と葉の“深緑”のコントラストが美しく、神々しくさえ見えました。

モミの木は云いました。

「サア、みんな、ボクの枝の陰においでよ。ボクが守ってあげるから」

 モミの木は、厳しい冬の間、踏ん張って、枝を広げてみんなを守りました。

「モミの木さんは強いなア」

「モミの木さんがいるから、ボクたちも冬を越せるんだね」

「モミの木さん、ありがとう。悪口を云ってごめんね」

春が来ました。

無事に冬を乗り越えた木々は、元気よく芽を吹き始めました。

「夏の暑いときには、今度はボクたちが木陰を作ってあげるからね」

モミの木は頷いて、静かに眠りにつきました。

ボビーは云いました。

「みんな、それぞれに“美しさ”を持っているけど、厳しい環境の中でも生き抜く“強さ”が一番美しいんじゃあないかなア。

 案外、“バンカラ”の中に本当の“美しさ”が潜んでいるかも知れないね。セニョールもモミの木さんを見習って、もっと強くならないと・・・」と。

 

 

ボビーとのこと (10月更新分)

ボビーが死んで1年になります。

想い返せば、14年前、ボビーは生後1ヶ月半でセニョール家の一員になりました。

体長は15センチ位、まだ足腰がこころもとなく、1センチの段差も上がれず、タタミの上をズルッ、ズルッと腰砕けになりながら歩いていました。

セニョーラは、早速、ボビーを抱き上げて「よし、よし」と母親気分になっていましたが、セニョールは直ぐには父親気分になれませんでした。

多分、初めての子供が生まれたとき男はまごつき、直ぐには父親気分になれないのと同じだろうと思います。

そのセニョールが父親気分になったのはボビーのフッとした行動からでした。

ある朝、目覚めるとセニョールの布団の上でチョコンと寝ていたからです。

その頃は、高さ10センチ位のダンボール箱に入れて寝かせていましたが、家族の温もりが恋しくなったのか必死にダンボール箱から這い出て布団まで来たのです。

1センチの段差も上がれないボビーのそのけなげな姿にさすがのセニョールもまいりました。

急にいとおしくなり、抱き上げて「オー、よし、よし」と父親気分になりました。

それから13年間、随分楽しい時間を与えてくれました。

これから折に触れ、その一コマ、一コマをお話しましょう。

 

≪ ピントはずれのセニョール ≫

ペットを飼ったことのないセニョーラは、早速、セニョールに頼みました。

「犬の育て方を書いた本を買ってきてくれない」

「ヨシ、分かった」

仕事が終わると本屋さんに直行して、ペットコーナーの棚を探しました。

色々たくさん並んでいるのでどれにしようか迷っていると、隅っこに“シーズーの歴史”という本がありました。

パラパラッと斜め読みをすると、“シーズー犬はチベット原産の犬で・・・、ヨーロッパでペット化され・・・、中国清王朝時代には貴族の間でモテはやされた、云々”というようなウンチクが長々と書かれていました。

“これは面白い、勉強になる”と早速その本を買い、勇んで家に帰りました。

ところがセニョーラは「なによ、この本。育て方がなにも書いてないじゃない」と、ムクれました。

 ボビーも「そうだ、そうだ。こんな歴史の本なんか役に立たない。セニョールはピントがジュレてる。ボクをころちゅ気か!」と、小さな体で精一杯抗議しました。

セニョールはあまりの風当たりの強さに戸惑い、読み直してみると確かに、“ウンチク”ばかりで“育て方”など書いてありませんでした。

「これはちょっとマズかったかな」と思い翌日、“ペットの育て方、12ヶ月”と”ペット医学辞典”の2冊を買って帰りました。

セニョーラはやっと納得しました。

ボビーも「アア、よかった。これでボクもなんとか成長できるかな。最初からこの本を買ってくればいいのに、ホントにモー。

大変な家に貰われちゃった。セニョールはむじゅかしそうな顔をしてウンチクを云うだけでちっとも頼りになりそうもないし・・・。でも、セニョーラがやさしくて、しっかりしてるからマア、ガマンちゅるか」と、ちょっと安心しました。

このときから、ボビーとセニョーラの間に同盟ができたようです。

何かというと、セニョーラの傍に行き

セニョールの方にはおあいそ程度しか来なくなりました。

「アアー、男はつらいよ、寅さん!」

 

 

セニョール家の家宝 (9月更新分)

「ボビー、今日はいいものを見せようか」

「何なの? いいものって」

「ウン、セニョール家に代々伝わっている家宝だよ」と云って、セニョールは物置から大きな箱を引っ張り出してきました。

 そして、おもむろにフタをとりました。

 中には古めかしいものが入っていました。

「何なの? これ! 相当、古いものだね」

「これは、お茶を立てるときの茶釜だよ」

「フーン、どうしてこれが家宝なの?」

「ウン、この茶釜は“後醍醐天皇”が愛用していたものなんだ」

「エーッ! ホント? どうして?」

「ホラ、ここを見てごらん。ここには家紋が入ってたんだ。それが削りとられて、粘土で埋めてあるだろう。おかしいと思わないかい」

「ウン、確かにおかしいね」

「昔、天皇家は南朝と北朝に分かれて争ったことがあるんだよ。そのときの南朝の天皇が“後醍醐天皇”で、敗れて、島根県の隠岐ノ島に流されたんだ。生活に困って、島民に払い下げたのかも知れないね。この茶釜は隠岐ノ島から渡ってきたのは確かなんだ。家紋が削りとられているということはきっと、高貴な家紋が入っていたに違いないんだ。だから、その家紋は“菊のご紋”で“後醍醐天皇が愛用していたものだ”と云う、言い伝えがあるんだよ」

「フーン、本当かなア、話が随分、都合のいいように飛躍してると思うんだけど・・・、テレビの番組で鑑定をやってるから

 一度、出してみたら」

 セニョールは頭をゆっくりと横に振りながら「イヤイヤ、伝説に真実のメスを入れてはいけない。伝説は伝説として、ソッとしておく方がロマンがあっていいじゃないか」と云って、茶釜の前に座り、瞳孔の開いた目で遠くを見ていました。

ボビーは、“妄想にとらわれやすいのはセニョールの個性か”と思っていましたが“どうやらこれはセニョール家の血筋だな”と考え直しました。

ということで、セニョール家にはドエライものがあるのです。

 

 

セニョールへの禁句 (8月更新分)

「サーテと、今月は何を話そうか、ボビー」

「エッ?! もう忘れたの? 先月の続きでしょ。

ホラ、ボクが『頑張ってね』と云ったら、急にヘナヘナッとなったじゃない」

「アアー、そうだった、そうだった」

では、その訳は・・・、セニョールがまだ、みず々しい黒髪に覆われていた遠い昔、夏の信州を20日間旅行したことがありました。

旅行といっても、貧乏学生だったので、野宿しながらの無銭旅行です。

北アルプスを登山し、志賀高原をブラブラし、草津温泉に向かったときのことでした。

熊の湯から草津まで有料道路を約20km歩いたのです。

なぜ、バスに乗らなかったのかッて?

乗るお金がなかったからです。

有料道路も歩く分には無料なのです。

テント、シュラフ、コッヘル、バーナーなど登山道具一式(約15kg)を背負っての行軍は大変なものでした。

朝は元気よく出発し、横手山で信州を見下ろし“藤村”を想い、また歩いて、白根山ではコバルト・ブルーの火口に“別世界”を感じ、そして、草津に向かって黙々と歩きました。

10km歩いた頃から疲れが出始め、15kmでは相当に疲れ、最後の2~3kmは、ヒザと太ももをガクガク振るわせて

10分歩いては15分休憩し、また、10分歩いては15分休憩して、もう、ヨロヨロになりながら辿り着きました。

この一生懸命歩いている最中、無常にもバスが何度も通り過ぎ、そのたびに、「頑張れよ―!」と激励の声が飛んできました。

最初、元気な頃は手を上げて照れくさそうに応えていましが、段々と疲れるにつれて一々応えるのが面倒になり、ヨロヨロになった頃には、「頑張れよ―!」と云われるともう、無性に腹立たしく、同時に猛烈に“ミジメ”になりました。

“なにも好き好んで歩いてるんじゃアないぞ。本当は俺だってバスに乗りたいんだ。人のことは放っといてくれ”と、心の中で涙しました。

激励するときは、よくよく考えてからしないとかえって、人の心を傷つけることもあるのです。

それ以来、「頑張れよ―!」と云われると、その時の“ミジメ”さが蘇えってきて“頑張る”どころか、イジけて、ヘナヘナッとなるのです。

「フーン、そんなことがあったの。マアー、“ミジメ”になる気持ちも分かるけど・・・、じゃあ、セニョールを励ますときはどう言ったらいいの?」

「ウーン、そうだなアー、“ネヴァ・ギブ・アップ”かな」

「“ネヴァ・ギブ・アップ”? 

英語と日本語の違いだけで、同じことだと思うけどなアー。

マアーいいや、これからはそう言うよ。

ところでセニョール、草津のお湯はどうだった?」

「お金がないから入らなっかた。その代わり、川で行水しながら♪草津よいと~こ、一度はおいで~、ドッコイショ~♪と、唄を唄った。いい水だった」

という訳で、セニョールに「頑張れよ―」、「頑張ってね」は禁句なのです。

 

≪ 余  談 ≫

思い返せば、このときの1歩、1歩も『一成一減』でした。

これが我が人生最初の放浪で、「1週間位で帰って来るよ」と云って出かけたまま20日間音信不通だったので家族は“捜索願を出そうか”と大騒ぎだったそうです。

それ以来、北海道を40日間旅行しようが、スペインを半年間放浪しようが、だれも心配しなくなりました。

さびしいことです。

 

 

雑草と戦うセニョール (7月更新分)

この時期になると、セニョールは何やらブツブツ、ブツブツ云いながらフィールドに這いつくばっています。

“何を言っているのだろう”とボビーがソーッと近づいてみると、「一成一減、一成一減、・・・」と念仏のように唱えながら芝生の中の雑草を抜いていました。

「何なの? その『一成一減』ッて」

「これはね、“一つ、事を成せば、その成すべき事の総量は必ず一つ、減る”という意味だよ。

雑草を1本抜けば、雑草の総量は必ず1本減るだろう。

セニョールも難行苦行の末、とうとう、“悟り”を開いたんだ」

「そんなの、当たり前じゃアない。また、大風呂敷を広げて・・・、悪いクセだよ」

「ウーン、だけどね、この当たり前の事がなかなか大変なんだぞ。

雑草は抜いても抜いても、次から次から生えてくるだろう。

抜かなかったら、ドンドン増える一方だし。

セニョールも人間だから、この気の遠くなるような作業を前にするとクジけて逃げ出したくなるときがあるけど、その時、この『一成一減』を唱えると、勇気づけられて、ヤル気になるんだ」

「フーン、困難な仕事や膨大な作業量を目の前にすると、避けて楽な方に流れたがるのが人間だけど・・・、そこでグッと踏ん張って一つ、一つ、成し遂げていけば、いずれは必ず解決するという事だね。

それは分かったけど、ゴルフ場のように除草剤を撒けばもっと楽できるのに・・・」

「ウーン、ここでは、小さな子供も遊ぶだろう。

人間にやさしいフィールドであるためには、化学薬剤など使わないで大変でも、手で、1本、1本、抜くのが一番だと思うんだよ」

「なるほどね・・・、最近、下界では『五増五減』とか云ってるけど、これはきっとセニョールの『一成一減』をマネたんだね」

「でもないと思うよ。

 人間の考えることは、似たようなものだから。

ただ、頭で考えるだけではなんの意味もないんだよな。

大切なことは、“考えたことを実行する”ということなんだよ」

「フーン、今日のセニョールはいい事を云うね。

 エラいッ! 見直しちゃった!」

 ボビーにほめられて、気を良くしたセニョールは、「俺はグレート・アスリートだッ! サアー、雑草と戦うぞッ!」と、張り切ってフィールドに這いつくばりました。

セニョール、頑張ってね!」とボビーが励ますと、なぜかセニョールは青菜に塩をぶっ掛けたように急にヘナヘナッと腰砕けになり、イジけてしまいました。

実は、これには訳があるのです。

その訳は来月、話しましょう。

 

 

いよ々、“畑デビュー”(6月更新分)

セニョール一家は、いよ々、“畑デビュー”しました。

お客さんにみず々しい高原野菜をご馳走するために・・・、そして、やがて来るであろう食糧難の時代に備えて・・・。

車で20分、山を下りた村の空き畑を借り、土を耕し、雑草を除き、堆肥と石灰を混ぜて土壌改良しました。

そして、トマト、キュウリ、ピーマンなど10種類の野菜を植付けました。

日ごろ森の中に住んでいると、のどかな田園風景も気持ちが良いものです。

お昼に畦道に座って、おむすびを頬張りながら眺める山々は白っぽい新緑、黄色っぽい新緑、赤っぽい新緑に覆われ、ファジーな世界を創っていました。

森の中では主観的に感じる四季の変化も、ここでは客観的に感じます。

そして、夕方、帰る頃にはカエルが大合唱で見送ってくれます。

セニョールは植付けが終わると、さっそく、収穫用の竹の大ザルを買ってきました。

それを見てボビーは、「そんなに大きなザルを買ったの?! どれだけ収穫があるか分からないのに・・・」と、目を丸くして云いました。

「イヤ、道具は揃えておかないと・・・、何事も形が大事なんだから。

トマト、キュウリ、ピーマンは1本の苗から50~60コの収穫があるんだぞ。

ナスは1000コ採れる“千両ナス”を植えたし、ネギは1本が千本に増える“千本ネギ”を植えたんだから」

「そんなの、品種の名前にすぎないよ。素人のセニョールにそんなにできる訳がないじゃアない。第一、そんなにできたら、食べきれなくて困るよ。」

「イイヤ、この夏は“朝市”を開いて、完熟で、もぎたての高原野菜を1袋100円で売ろうと思っているんだ。そして、そのお金をプールして、スペインに行くんだア~!」

「フーン、スペインにー? 100円でー?ガソリン代にもならないと思うんだけどなアー」

 ・・・・・・・・・

セニョールは、今日も張り切って、セッセ、セッセと土を耕しています。

ひとクワごとに、「スペイン、スペイン」と気合を入れながら・・・。

ボビーは、セニョールと目が合えば「ボビーも手伝え」と云われそうなので、“タヌキ寝入り”を装っていました。

そして、時々、うす目を開けて「生きてるうちにスペインに行けるのかなアー、疲れるなアー」と、気の毒そうに見ていました。

 

 

エンジンのバカヤロー (5月更新分)

行楽の春、セニョールは1人で高速道路を気持ち良く突っ走っていました。

すると“エンジンの体温を表示する目盛盤”の針が真中から右に右にと傾きだしました。

 “アレ?! エンジンの体温がおかしい”と思い、スピードダウンしました。

ダウンしても関係無く、針はほとんど右側にクッつきそうになりました。

こうなると、いくら呑気なセニョールでも“異常事態だ”と緊張しました。

そこで、ハザードを点滅させながら60キロで路側帯を走りました。

次のインターまでまだ距離があるので、とにかく、車が走るところまで走ろうと“エンジン、がんばれ、がんばれ”と励ましながら運転しました。

エンジンもセニョールの願いが分かったのか、なんとか踏ん張って走りました。

やっと、インターに着いたので、料金所に向かいました。

“やれやれ、なんとか辿り着いた”とホッとして料金所で止まりました。

と、止まった途端、針が右側にペッタンとクッついてエンジンが白い煙をモーモーと吹き上げ出しました。

 “これは爆発するぞ”と思いセニョールは急いでシートベルトを外し、静かに、威厳をもって、遠くに逃げました。

料金所のおじさんや周りの車の人達は、皆、アワテふためいて逃げていました。

そして、みんなで、“どうなることか”とジーッと遠巻きに見ていました。

さすがのセニョールもカッコウ悪いので“アレは、誰の車だ!”というような迷惑顔を装っていました。

幸い煙もおさまり、爆発する様子もなくなったのでセニョールは手で顔を隠しながら、肩をすぼめて車に引き返しました。

そして、エンジン・キーをひねりました。

が、エンジンはもうウンとも、スンとも云いませんでした。

仕方が無いので料金所のおじさんに手伝ってもらい、車を押して移動しました。

押しながら、“挫折感”と“みじめさ”と“恥ずかしさ”からググッと怒りが込み上げ、車を蹴飛ばしたくなりましたが周りに人がたくさんいるので、我慢して“エンジンのバカヤロー、々、々”と口のなかでソッと呟きました。

結局、エンジンを修理してこの車にはしばらく乗りましたがそれ以来、高速道路で70キロ以上も出そうものなら、針が右に右にと傾いていきました。

この車は“日本の名車”と云われていましたが、こうなると鉄クズと同じです。

「なにが名車だッ、欠陥車だッ、クレームをつけてやるッ!」と息巻きましたが、ボビーに「なに云ってるのッ! 元々2万5千円で買った車でしょ。それも17万キロも走って・・・ 、恥じの上塗りだよ」と軽蔑され、渋々断念しました。

が、転んでもタダでは起き上がらないセニョールは、このトラブルで“エンジンが焼けても、とにかく走れば、車は空冷で走る”ということを勉強しました。

ただし、煙を吹き上げ出したら、アワテて脱出した方が賢明だと思います。

 

 

ザゼンソウ物語 (4月更新分)

ポカポカと暖かいある日、ボクとセニョーラは森の中に散歩に出かけました。

4月といっても”ウンチクの世界”はツボミがまだ固くって”芽吹きの気配”を感じさせる季節なんだよ。

と、ある場所でザゼンソウの群生地を見つけちゃった。

ザゼンソウの花って面白いね。

ジーッと見てたら、それぞれに、いろんな表情があることに気がついたんだ。

まるで”五百羅漢”みたいに。

アッ、ボクのザゼンソウ、見ーつけた。

どう、若くて、ハンサムで、どこか知性に溢れているでしょう。

エーッと、セニョールとセニョーラは、どれかな。

アア、これこれ、セニョールに言わすとなんでも、セニョーラに頼まれて結婚したらしいけど・・・

本当かなア。

ボクにはセニョールの方が懇願してるように見えるんだけどなア。

結婚することになってセニョールは「婚約旅行に行って来る」と云って、1人でスペインに行ったらしいよ。

セニョーラは横浜から出港する船を丘の上から見送ったんだって。

「 ♪ あ~る晴れた~日~ 、 ワンワンっと♪ 」

― アレ?!聖犬ボビーも今回はちょっと酔ってるな ―

半年間放浪して、”一文無し”で帰って来たんだって。

お金がないから二人で手造り結婚式をあげたらしいよ。

勝手だなア。

でも、セニョールがセニョーラを裏切らなくて本当によかった。

 

( 中  略 )

セニョールは 「俺はグレート・アスリートだッ!、まだ々、若い者には負けんぞ」 と云ってスキーをバンバンしてるけど・・・。

セニョーラがこっそり云うには、あれは”カラ元気”なんだって・・・。

夜、寝る頃になると 「あそこがイタい、ここがイタい」 と云って、セニョーラを困らすらしいよ。

今ではセニョールもすっかり”濡れ落葉”になって、セニョーラが払い落とそうとしてもピッタリくっついて落ちないんだって。

 

ー おしまい ー

 

中略の部分は、今年、写真を撮って完成させる予定でしたが、撮影時期を逸してしまいました。

皆さんもザゼンソウの花に何かを見つけては・・・。

 

タイヤのバカヤロー (3月更新分)

ある年の冬、セニョールは姪っ子2人を連れて鳥取県・大山にスキーに行きました。

国道からスキー場目指して雪の山道を上って行く途中、急に車がガタガタと揺れ始めました。

”おかしいな”とは思いましたが、小さなことを気にしないセニョールはそのまま運転して上って行きました。

そのうち、ゴットン、ゴットンと水車のような音がし始めました。

丁度、トイレに行きたくなったので、車を止め林の中で用をたし、そのついでに車を点検しました。

すると、左側の後輪がなぜかペッタンコになっていました。

「アッ、これはイカン」と、スペアータイヤとジャッキを引っ張り出しました。

ところが、何処を探しても工具が見つかりません。

思案のすえ、”よし、指でボルトのナットを外そう”と考えました。

”ウーン、ウーン”と指先に満身の力を込めて回そうとするのですがナットはビクともしませんでした。

”なんだこの車はッ!、欠陥車だッ!、メーカーに文句をつけてやるッ!”と憤慨しました。

辺りには民家も公衆電話もなく、成すすべがないので結局、Uターンして国道まで引き返すことにしました。

左側のサイドミラーを後輪が見えるように角度を変えユックリと下山し始めました。

運転しながらミラーで後輪を見ると”これでもタイヤか”と思うぐらい、グニャグニャになりながらだらしなく回転していました。

そのうち黒いものがゴロゴロと車を追い越していきました。

タイヤが外れて勝手に転がったのです。

セニョールはとうとう怒って”タイヤのバカヤロー”と怒鳴って、谷底に蹴落としました。

それからが大変です。

トロッコのようにゴロゴロ、ゴロゴロと転がっていきました。

少しでも左側の加重を軽くしようと「皆、右側に固まれ」と云ってセニョールもドアーウィンドに頬っぺたをクッつけて運転しました。

それでも車はゴロゴロ、ゴロゴロと悲鳴をあげていました。

やっと国道に下りたので、近くのガソリンスタンドに駆け込みました。

すると、スタンドの係員が血相を変えて飛んで来て、後輪を指差しながら「お客さん、タイヤがないッ!タイヤがないッ!」とわめきました。

給油中のお客さんが一斉にこちらを見ました。

セニョールはおもむろに云いました。

「騒ぎなさんな、パンクしてタイヤがどこかに行ったから来たんじゃないか。

タイヤをハメ込んでくれたらそれで済むことだよ」と。

ヒマな人はわざわざ覗きに来て、「フーン、フーン」と感心していました。

姪っ子たちは恥ずかしかったのか、車から出ようともせずうつむいていました。

タイヤを交換し、それからまたスキー場へと向かい、結局その日は半日滑って帰りました。

実家で留守番していたボビーが「セニョール、ダメじゃない、タイヤの点検ぐらいしておかないと」と云いました。

「タイヤを見て、いつパンクするかなど分かるもんか」

「分かるよ。スリップラインが出てきたら、もう交換時期なんだから」

「スリップライン?! なんだそれはッ!」

「エーッ!スリップラインを知らないの!、タイヤが磨り減ってきたら赤いマークが出てくるんだよ」

「赤いマーク?! そんなもの見たことないね。

車は前進すればそれでいいんだから」

「スリップラインも知らないで、よく車を運転してるよ。

 セニョールの運転は”暴走族”より怖いね。

 そんな車にボクやセニョーラを乗せて今までドライブしてたの?

よくマアー、生きてたもんだ。

もう、セニョールの車に乗るのはごめんだね」と、ボビーは半歩づつ後すざりしながら云いました.。

 ボビーの忠告がピンと来てないセニョールは、人生の苦難を乗り越えて”充実した、面白い一日だったな”と満足げに煙をゆっくりと吹き出しました。

そして、”タイヤがなくても車は走る”ということを勉強しました。

 

 

たまにはマジメに一言(2) (3月更新分)

冬季オリンピックを見ていて”国、民族とは何だろう”と考えました。

各種目で日本選手が出れば我々は日本人を応援する。

それは”同じ国、同じ民族”だからであろうか。

確かに、それもある。

が、他国の選手より日本選手の方が自分により身近な存在だからではなかろうか。

もし、外国選手の中に自分と親しく、係わりを持つ選手がいたとしたら日本選手よりその外国選手を応援するのではないだろうか。

ある”乳がん”と戦うボブスレーの選手に対して同じ境遇の人達が国境、民族を超えて応援している姿が見られた。

結局、国とか民族という単位ではなく、より身近な選手を応援しているということではないだろうか。

”国とは何だろう”

同一の経済圏を構成する範囲であり、可変的だと思う。

”民族とは何だろう”

同一のアイデンティティを共有する集団であり、これも可変的だと思う。

なぜなら、国境は力関係で動くし、アイデンティティも混血や文化交流で変化する。

日本人は島国で純血種だと錯覚している人もいると思うが、実際は南方民族や北方民族などが入り交ざった混血種である。

過去においては交通が地球を分断し民族の交流に限界があったが、世界どこにでも容易に移動できる現在・将来にあっては

民族の交流が益々盛んになり、混血はドンドン進むだろう。

そして、1万年後、10万年後にはアフリカ人もアジア人もヨーロッパ人も無くなり、地球上の人間は全て同じ肌色、同じ顔となり、国も民族も無くなるだろう。

その時まで人類が存続していればの話である。

大切なことは、現在の姿が不変的なものではないということである。

 

 

銀ギツネに化かされたセニョール (2月更新分)

ある年の冬、セニョールは世にも不思議な体験をしました。

親戚の法事に出席するため、鳥取の実家に帰ったときの事です。

その親戚は、山を二つも三つも越えたところにあり、車で2時間かかります。

その日は10年に一度の大雪が降り、朝早く出発したのですが遅れて、到着したときには仏事が既に終わっていました。

が、「酒宴はこれからだ」と聞いて、”アア、間に合ってよかった”と思いました。

田舎の事ですから、お昼から酒宴が始まり、延々と続きました。

気が付くと夜9時を過ぎていたので「そ、そろそろ、お、お暇します、ヒック」とモツれた舌で云うと、「そんなに酔っ払って、あぶないから今夜は泊まっていきなさいよ」と引き留められました。

でも、仕事の都合があるので「く、車は、よ、四輪だから、ひ、ひっくり返る事は、な、ないでしょう、ヒック」と強引に出発しました。

外は相変わらず吹雪で真っ暗で、真っ白な山道はヘッドライトだけで走っていると、どこまでが道路でどこから谷なのかよく分かりませんでした。

酔っ払い運転も手伝って、何度も何度も除雪した雪の塊の中に突っ込みました。

「よ、よく谷に、お、落っこちないもんだ、ヒック」と感心しながら、注意して運転しました。

”もう着くころだな”と思って辺りの風景を見渡すとそれがどうもおかしいのです。

親戚のある町並みに似ていました。

”これはおかしい!”と思い、町名表示を見るとそこは親戚のある町でした。

山の中の一本道をまっすぐ走ったのに元に戻ったのです。

”そんなバカな!一本道なのに!どうして?”

酔っ払った頭でいくら考えても分かりませんでした。

とにかくUターンして実家目指して引き返しました。

運転しながら”なんとも不思議なことがあるもんだ、雪の夜道でキツネに化かされたかな?

いや、きっとそうだ!キツネに化かされたんだ”と思い込み、お酒で充血し瞳孔が半分開いた目を皿のようにして、”今度は化かされないぞ”と吹雪の中を運転しました。

そして、やっとこさ、実家に辿り着きました。

通常の倍の時間がかかったので、ボビーもセニョーラも心配顔で出迎えました。

「今日、こんな不思議なことがあったんだ。キツネに化かされたとしか思えない」とセニョールは話しました。

最初、ボビーもセニョーラも酔っ払いの戯言と半信半疑で聞いていましたがどうも本当らしいので、「フーン、不思議なことがあるもんだね。あの道は一本道だから、元に戻るハズはないのに・・・、昔からキツネが夜道で人を化かすと云うけど本当なんだね」とボビーが不思議そうに云いました。

「ボビーも気を付けなきゃ」と、セニョールが云うと「ボクは大丈夫だよ。暗くても目は見えるし、嗅覚や聴覚も鋭いから、キツネも化かしようがないよ。ところが人間は文明の発展とともに、段々と横着になり、ケモノとしての機能が退化してきたからキツネも化かしやすいんじゃない」と憐れむように云いました。

それから数日が過ぎました・・・。

「でも、不思議だなア、本当にそういう事ってあるのかなア」とボビーはしばらく考えて、「セニョール、運転していて”何度も雪の塊の中に突っ込んだ”って云ったよね?」

「アア、そうだよ」

「そのとき、フロントガラスが雪で真っ白にならなかった?」

 「アア、その都度車から降りてフロントガラスを掃除したよ」

 「突っ込んだとき、急ブレーキを踏まなかった?」

 「アア、思いきり踏んだよ。なんせ谷に落っこちそうになったんだから」

 名探偵ボビーの誕生!、「分かった!それだよ。急ブレーキを踏んだとき車がスピンしたんだよ。

 フロントガラスが雪をかぶって密室状態になったからスピンしたのが分からなかったんだよ」

「スピンか、そういえば、雪を払ってまた車を運転したら、対向車が同じ車線を向かって来たな。

 ”ふざけたヤツだ”と思ったけど、自信ありそうに向かって来るもんだから”飲酒運転がバレたらまずい”と思い、仕方なく反対車線によけたんだよな。

そうか、スピンしたのか!そうか、そうか、これでナゾが解けた。

”銀ギツネ”か、”銀ギツネ”に化かされたか!」セニョールはやっと納得しました。

「でも、同じ化かされるんだったら、”雪女”の方がよかったなア」とちょっと残念そうに云いました。

 「そんなこと有り得ないよ。セニョールは女性にモテないんだから・・・、”雪女”だって相手にしないよ。そんな分不相応な妄想にとらわれちゃダメだよ」とボビーはセニョーラの目を見てウインクしました。

 

 

 

 

 

華麗なるジャンプをめざして (2002年 1月更新分)

 

 

 

昨シーズンの最終日、セニョール一家はブランシュに滑りに行きました。

 

この日のスキーには目的がありました。

 

ホームページのトップにセニョールの華麗なスキー写真をのせるためです。

 

そこで何度も何度も滑り、写真を撮りました。

 

勿論、カメラマンはセニョーラです。

 

スラロームの写真を撮り終わったところで

 

セニョールはおもむろに云いました。

 

「次はジャンプをするから、その瞬間を撮ってくれ」と。

 

そこでジャンプする位置や方向、カメラアングルなどを入念に打ち合わせをし

 

いよいよ滑り始めました。

 

そしてジャンプしました。

 

ところが着地に失敗して転んでしまいました。

 

そのとき右肩をガーンと強く打ちました。

 

「ウーン」と唸りました。

 

痛みが和らぐのを待って、やおら立ち上がり、セニョーラのところに行きました。

 

「ちゃんと撮ってくれたか? イテテッ!」

 

セニョーラは自信なさそうに「撮れたと思う」と云いました。

 

セニョールはジャンプした瞬間が撮れていれば

 

転んだ姿は写っていないから”マアー、いいか”と満足しました。

 

そして急いでフィルムを写真屋さんに出しました。

 

待つこと40分、やっと出来あがったので楽しみに写真を1枚1枚見ました。

 

ジャンプの写真を見たとき、セニョールは「アーッ!」と悲痛な叫び声をあげました。

 

そこにはカッコウよくジャンプした瞬間ではなく、転んだときの姿が写っていたからです。

 

急に肩がズキズキと痛み出しました。

 

セニョールはセニョーラを責めるように云いました。

 

「シャッターチャンスが遅れてるじゃあないか。

 

写真は何百分の1秒の瞬間を捉えるんだから

 

ジャンプの瞬間を撮らないとダメじゃあないか。

 

せっかく人が痛い思いをしたのに、転んだときにシャッターを切って・・・」

 

セニョーラは何か云いたそうでしたが黙っていました。

 

するとボビーが目を三角にして

 

「何云ってるのッ!   ボクもあのとき見てたけど

 

とても絵になるジャンプじゃあなかったんだから。

 

第一、カッコウいいジャンプだったら転んだりはしないよ。

 

崩れて、バラバラだったから転んだんじゃあない。

 

自分がヘタなのを棚に上げてセニョーラを責めるなんて

 

ボクは許さないッ!」

 

とセニョーラをかばいました。

 

スキーがうまいと思っていたセニョールは”グウ”の音も出ず、ひどく傷つきました。

 

傷ついて、益々、肩が痛み出しました。

 

それから8ヶ月・・・

 

いつまでも肩の痛みがとれないので

 

”骨折したに違いない。これはえらい事になった”とアワてて整形外科に行きました。

 

ところがお医者さんは「マアー、”五十肩”でしょう。お大事に ! 」と軽く受け流し

 

まともに診察してくれませんでした。

 

セニョールは皆から見放されて、みじめになりましたが

 

生来の”負けず嫌い”がググッと頭を持ち上げ

 

「何が”五十肩”だッ!  やぶ医者めッ!

 

ヨシ、今年こそ華麗なジャンプをしてトップページを飾るぞ。

 

今度こそ、肩の骨を折って、あのやぶ医者の鼻をあかしてやる」

 

と息巻きました。

 

ボビーはあきれてしまい

 

「アーア、年甲斐もなくよくやるよ。

 

自分が何歳なのかも分かってないんだから

 

ボケの始まりだね。

 

モウー、面倒見きれないね」

 

と、ウンザリしてセニョーラに云いました。

 

早春、晩秋の出来事でした。

 

 

 

セニョールも初滑り (2001年12月更新分)

 

 

 

今日、8日、スキー場がオープンしました。

 

この日をムズムズと待ち焦がれていたセニョールは

 

早速、エコーバレーで初滑りをしました。

 

昨晩は気温がー10度まで下がり、スキー場も一生懸命雪を降らせたので

 

パウダースノーのいいゲレンデが出来上がっていました。

 

踏み込んだときの、板から足の裏に伝わるグググッという感触を楽しみながら

 

2時間、バンバン滑りました。

 

帰って、お風呂にアゴまでドップリつかり、一年ぶりの心地よい疲労感を味わいながら

 

”ヨシ、肩の骨を折っても頑張るぞ”と向上心を掻き立てました。

 

セニョールの自己流スキーは今年も健在です。

 

また、ゲレンデでお会いしましょう!

 

 

 

レディーファーストが生む不平等 (12月更新分)

 

 

 

先日、セニョールとセニョーラは急に思い立ってスペインに行ってきました。

 

ボビー死んで”館”にポッカリとアナが空き

 

空虚な毎日が続くのでそのアナを埋めるために・・・

 

そして同じ行くなら、今のスタンスで

 

スペインをもう一度見直してみようと・・・

 

そこで、大いに食べ歩き、飲み歩き、見歩いて来ました。

 

その中で改めて感じたことを一つ。

 

ご存知のとおり、ヨーロッパはレディーファーストの国です。

 

ドアを開けて女性を先に通したり、エレベーターも先に乗せたり

 

足元が悪いとエスコートしたり、レストランではイスを引いて先に腰掛けさせたり。

 

日本ではそうでないセニョールも

 

スペインに行くと取って付けたようにこれをやります。

 

この程度のレディーファーストなら何ら問題はないのですが

 

不平等を感じるのはレストランでの食事です。

 

”スープ”とか”煮込み料理”をオーダーすると大きなボールに入れてきて

 

テーブルでプレートにサービスしてくれます。

 

そこで問題が起きるのです。

 

”魚介類のスープ”をサービスするとき

 

大きくておいしそうなエビ、カニ、魚などはセニョーラに

 

残りの痩せてまずそうなエビ、カニなどをセニョ-ルに

 

そしてスープの量もセニョーラに多めに入れました。

 

肉料理もそうでした。

 

以前、セゴビアで名物の”子豚の丸焼き”を食べた時など

 

ジューシーでおいしそうなロースの部分はセニョーラに

 

セニョールにはパサパサしてまずそうなモモの部分をサービスしました。

 

グルメで食い地の張っているセニョールは、このときばかりは男であることが哀しく

 

女性が恨めしく思われます。

 

食べ物ぐらいは平等に分配して欲しいと・・・

 

納得できないセニョールはボーイが下がった後

 

「おいしいところを半分寄越せ」と云って

 

セニョーラのプレートにフォークを突っ込み、半分取って食べました。

 

「セニョール、そんなみっともないことをしないでよ。

 

人格が疑われるよ」

 

突然、ボビーの声がしました。

 

「アレ?! ボビーも付いて来てたの?」

 

「ウン、 前回のスペイン旅行では、3ヶ月間、日本で留守番させられたけど

 

今のボクは何処にでも自由に行けるから、コッソリ付いて来ちゃった」

 

「アー、そうかそうか、ボビーも一緒なら心強いな」

 

「でも、セニョールはどうしてそんなに”食い地”が張ってるの?」

 

「それはねー、ボビー、セニョールは終戦直後に生まれたろう。

 

その頃の日本には食べ物がなくて、皆、貧しい生活をしてたんだよ。

 

セニョールのお母さんは栄養不足で母乳が出なくて

 

よそのお母さんの母乳を吸って育ったぐらいなんだから。

 

少年時代も貧しい食生活の中で育ってきたから

 

だからおいしいものをお腹一杯食べたいという欲求が強いんじゃないかな。

 

これはセニョールと同世代の人に共通したサガかも知れないよ」

 

「フーン、大変な時代に育ったんだね。

 

でも、そんないじましいことをしないでよ。

 

仙人は”たなびくカスミ”を食ってればいいのッ」

 

「カスミ? そんな殺生な! 

 

ボビーが何と云おうと食べるときだけは仙人を返上だ。

 

お腹が一杯になるまで、食べて、食べて、食べまくるぞ」

 

「ヤレヤレ、この頑固さは死んでも直らないね。

 

それはそれとして

 

ボクは初めてスペインを見たけど、面白いところだなと思ったよ。

 

セニョールはどうしてスペインにハマリ込んだの?

 

ボクはそっちの話の方が聞きたいな」

 

「ウン、スペインには、他のヨーロッパ諸国とは違って

 

イスラムとカトリックが融合した面白い文化があるからなんだよ。

 

でも、それを話し出すとウンチクが長くなって、読む人が疲れるから

 

その話はこの次にしよう」

 

「そうだね。楽しみにしてるから、いつかきっとしてよ。

 

じゃー、またね~」

 

とボビーはどこかに行きました。

 

正義感の強いセニョールは、ボビーが行った後も

 

”あの食事の不平等は「自由・平等・博愛」の精神に反する”とか

 

”あれは差別だ”とか

 

”あれはあまやかしだ”とか

 

”・・・・・・・・・・・・・・・”とか

 

ブツブツ、ブツブツ云っていました。

 

 

 

天国は本当にあるんだから!(11月更新分)

 

 

 

ある晴れた秋の1日、セニョール一家は蓼科山(標高 2,530m)に登りました。

 

この山は遠くから見ると富士山をまるく、やさしくしたような姿をしていますが

 

頂上付近は火山岩がゴロゴロと積み重なった山です。

 

ボビーは最近、前足を痛めてビッコを引いているので

 

”歩かせるのはちょっと無理かな”と思い

 

リュックに入れて背負って登りました。

 

すれ違う人が「アレ、縫いぐるみを背負ってる?! 変なおじさん」

 

とクスクス笑うので、ボビーが怒って”キッ”と睨むと

 

「アッ、動いた、本物だ」と云って驚いていました。

 

ボビーはこんな高い山に登るのは生まれて初めてなので

 

一歩一歩登るにつれて広がる下界を眺めながら

 

「ワアー、きれいだなア! なんか、一歩一歩天国に昇って行く感じだね」

 

と感動して云いました。

 

「天国?!、 ボビーはラクチンかも知れないけどセニョールは大変なんだぞ。

 

天国どころか地獄だよ」

 

と、ゼーゼーと荒い息でセニョールが云いました。

 

「地獄じゃあないよ、天国だよ。

 

だって、こんなきれいなところは天国に決まってるもの!」

 

やがて、頂上に着きました。

 

頂上からは、雲海に浮かぶ山々が秋の太陽を背にやさしく漂っているのが見えました。

 

「ホラ、やっぱり天国だ! 天国は本当にあるんだから」

 

とボビーが得意そうに云いました。

 

無神論者のセニョールは

 

「天国なんてないよ、死んだら全てが”無”に帰するんだから。

 

第一、ここは岩がゴロゴロしてるだけで、お花も咲いてないし、小鳥も飛んでないよ」

 

と云いました。

 

「ダメだなアー 人間は・・・、目に映るモノしか見ようとしないんだから。

 

目に映らないモノで、もっともっと大切なことが沢山あるのに・・・

 

ホラ、目を閉じて、肩の力をスーッと抜いて、雑念を振り払って

 

全身で感じてごらんよ。

 

ここにはお花もたくさん咲いてるし、小鳥も飛んでるのが見えるから」

 

セニョールはボビーが云うようにやってみました。

 

でも、やっぱり天国は見えませんでした。

 

「ねー、ねー、セニョーラ、セニョーラには見えるよね、天国が」

 

ボビーは、じれて、セニョーラに助け舟を求めました。

 

セニョーラはソーッと目を閉じました。

 

「アラ、本当だ、 ボビーが云うように天国が見えてきたわ」

 

「ホラごらん、天国は本当にあるんだから!

 

地獄はないけどね。

 

だって、本当に悪い人間や動物っていないもの。

 

みんなどこかに一つは良いところがあるんだから。

 

一つでも良いところがあると地獄には行かないんだよ。

 

だから、地獄はないのッ!

 

セニョールは仙人面をしてるけど、まだまだ修業が足りないね」

 

とボビーは勝ち誇ったように、そして、ちょっとさびしそうに云いました。

 

分が悪くなったセニョールは

 

「サアー、サアー、お腹も空いたし、おむすびを食べよう、食べよう」

 

と云って弁当をリュックから出しました。

 

そして、三人(?)で仲良く分け合っておむすびを食べました。

 

とっても楽しい秋の一日でした。

 

それから1週間後・・・

 

ボビーは静かに息を引き取り、天国へと旅立ちました。

 

「ボクはこれからも”ウンチク話”に登場するからね」

 

と、言い残して・・・

 

今のセニョールには、目を閉じると

 

お花畑の中をピョンピョン跳び回って遊んでいるボビーの姿が見えるようになりました。

 

 

 

”手に頬を のせて昼寝の チンくしゃみ” (セニョールのお父さんの俳句)

 

 

 

 10月13日夜7時、ボビーは静かに息を引き取りま

 

 した。

 

 後で蓼科山の写真を焼いて見ると、自分の死がせ

 

 まっているのを知っているかのように、さびしそうな

 

 顔で写っていました。

 

  ここにボビーを可愛がっていただいた多くの皆様に

 

 お礼を申し上げます。

 

 

 

 

 

この秋、一番の収穫 (10月更新分)

 

 

 

この時期、セニョールは天気が良い日にはよく森の中に入っていきます。

 

クリ、ヤマブドウの他に何か食べ物がないかと・・・

 

お腹を空かしたクマのようにウロウロとヤブの中を探し回りますが、なかなかありません。

 

と、ある場所できれいに咲いた”トリカブト”に出会いました。

 

あの有名な”保険金サギ事件”に使われた花です。

 

この花は、古代のカブトのような紫色の花をスズなりにつけ

 

”ヤナギラン”が貴婦人の如き”華やかさ”を持つとしたら

 

”トリカブト”は貴婦人の如き”気高さ”と”妖しさ”を備え、見る人を魅了します。

 

でも、根っこには猛毒があります。

 

その花は、根っこが40センチ位の株で、花をつけた茎が40本もある立派なものでした。

 

日頃から、この”幻の花”に出会いたいと思っていたセニョールは、カーッと頭に血が上って

 

前後不覚になり、無我夢中でヨイショ、ヨイショと掘り起こしました。

 

そして、花や株を傷めないようにヨイショ、ヨイショとヤブの中を車まで運び下ろし

 

持ち帰って、フィールドの一角に移植しました。

 

植え終わって、ホッとし、しばらくは静かな満足感に浸っていましたが

 

急に猛烈な空腹感に襲われました。

 

ボビーは

 

「お腹が空いてるんだったら、ジーッとしてたらいいのに!

 

”猛毒不法所持”で警察に捕まるかも知れないのに!

 

思い込んだら分別が無くなるんだから・・・、モウー!」

 

と、白い目でセニョールを睨みました。

 

「 そうかなアー

 

訪れる人が喜ぶと思ってヨイショ、ヨイショと運んで来たんだけどなアー

 

マズかったかなアー 」

 

と、セニョールは自信がなくなり、落ち込みました。

 

ボビーは、セニョールの落ち込み方があまりにひどいので、可哀相になって

 

「ウン、分かった。 ボクも腹を決めたよ。

 

警察が来ても、ボクが体を張って守ってあげるから

 

セニョールの行為には、悪意がないものね!」

 

と、云いました。

 

これを聞いて、気の弱いセニョールも急に元気百倍になり

 

”ヨシ、今度はもっとスゴいものを探して来よう”

 

と、思いました。

 

この秋、一番の収穫は、この”トリカブト”でした。

 

 

 

毒キノコに挑戦 (9月更新分)

 

 

 

今、森の中は自然の恵みで一杯です。

 

クリ、イチイ、ヤマブドウ、コケモモ、チョウセンゴミシなどの木(草)の実が真っ盛りです。

 

そして、キノコも・・・

 

今日、地元の人からキノコを貰いました。

 

「このキノコはうまいずら」

 

「なにキノコ?」

 

「イッポンシメジずら。 毒キノコだで!」

 

「エーッ、毒キノコ! ちょっと待ってよ」

 

「このキノコは、お湯が煮こぼれるくらい煮沸すると、毒が消えておいしく食べられるずら」

 

「本当? ウーン・・・、ありがとう。 食べてみる」

 

キノコ図鑑を調べると、確かにイッポンシメジが”毒キノコ”の欄に載っていました。

 

”毒性あり。腹痛・吐き気を伴い、沢山食べると死ぬ場合がある” と

 

どこにも”煮沸すると毒が消える”とは書いてありませんでした。

 

人の好意を無視できないセニョーラは、一生懸命、グツ々、グツ々煮沸しました。

 

そして夕食

 

イッポンシメジが食卓を飾りました。

 

ここまでくるとセニョールも後には引けません.

 

おもむろに、ハシでつまんで、一口、食べました。

 

と、意外や意外、シャリシャリとした食感がとてもおいしいキノコでした。

 

でも、おいしいことと、毒があることとは別問題です。

 

別問題ではあるが、お酒にとても合う味でした。

 

もう一口、食べました。

 

”ウーン、やっぱりうまい”

 

こうなると、食い地の張っているセニョールは止まりません。

 

お酒を呑みながら、一生懸命、毒キノコを食べました。

 

食べながら、呑みながら、顔がなんとなくムクんでくるような感じがしました。

 

それでも、ヒルまず、食べて、呑みました。

 

ただひたすらに、お酒が毒消しになることを、固く信じて・・・

 

もし、明日の朝、いつものように爽やかに目が覚めれば

 

お客さんにもご馳走しようと・・・

 

いつもはおねだりするボビーも、今日だけは、ジーッと心配そうに見つめていました。

 

では、明朝、爽やかに目が覚めるかどうか、乞うご期待! おやすみなさい。

 

 

 

 

 

たまには、マジメに一言 (9月更新分)

 

 

 

人間、ちょっと”損”をするぐらいの生き方が丁度いい

 

あまり大きく”損”をすると、「あの人は人がいい」とバカにされる

 

”得”をしようとする人は、「あの人は強欲だ」と後ろ指を指される

 

人間、ちょっと”損”するぐらいが丁度いい

 

 

 

女は”子供”を産むとき、死ぬほどの苦しみを味わうという

 

であるならば

 

男は”仕事”を産み出すとき、血ヘドを吐くぐらいの苦しみを味わってもよい

 

 

 

”ボビー”も一言

 

ボクは”ペット”として人間社会に生きて、本当に幸せだろうか

 

確かに外敵から身を守る必要もないし

 

食べ物を自分で探す必要もない

 

でも、”アレをしてはイカン、コレをしてはイカン”と人間社会のルールを押し付けられる

 

”自由人の館”と云うけれど、ちっとも”自由”じゃない

 

ボクのキャラクターは、どこに行ったの

 

ボクは、もっと”犬”らしく生きたい!

 

 

 

 

 

悪友 来る  (8月更新分)

 

 

 

先日、学生時代の悪友共が群れをなしてやって来ました。

 

皆、学生寮の仲間で30年ぶりの再会でした。

 

当時の寮にはまだ”バンカラ気風”が残っていて

 

セニョールは大学へは行かないで、大酒ばかり呑んで、バカ騒ぎをし、汚い恰好をして

 

有意義に学生時代を過ごしました。

 

そのセニョールの”ダンディ”な変わり様に、皆、一様に驚き

 

セニョーラがにこやかに出迎えると

 

一瞬、唖然として

 

「オッ、竹田(セニョールの本名)に奥さんがいるぞ」

 

― なぜか当時は女性にモテなかった ―

 

と叫び、さらに観察眼を働かせて

 

「チェックのシャレたシャツを着とるぞ」

 

― ヨレヨレの破れかかったものしか着ていなかった ―

 

「クツ下をはいとるぞ」

 

― クツを買うお金がなくて、素足で下駄をカラン・コロンと履いていた ―

 

「アナがあいとらんぞ」

 

― 友達にお下がりを貰うと、うれしくて、アナがあいても大切にはいていた ―

 

この辺まではまだいいとして、そのうち

 

「パンツはいとるかなア」

 

― 洗濯をしたことがなかったので、はかない日が多かった。

 

今はセニョーラに管理されて、毎日、小奇麗にしている ― 

 

「竹田の料理 食えるかなア」

 

― 寮食の残飯をかき集めて、雑炊にして食べていた。

 

今は本格的なスペイン料理を作っている ―

 

「竹田が勉強しとる姿を見たことがなかったなア」

 

― 本当は人目を忍んで、陰で一生懸命、勉強していた ―

 

「竹田の部屋はゴミ箱みたいに汚かったなア」

 

― セニョールは綺麗好きだったが、皆がゴミを捨てて汚くした 。

 

ただ、掃除をしなかっただけ ―

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

― ・・・・・・・・・・・・・ ―

 

セニョーラに聞かれてマズい事は「手話で話そう」と云いながら

 

マア、好き勝手なことを云って、セニョールの恥部をあばき

 

一晩中、大酒を呑み、バカ騒ぎをしてサッサと帰って行きました。

 

人間とは思えない異様な光景に、ボビーは恐れをなしてイスの下に潜って震えていました。

 

これから、折に触れて我が”青春記”でも書こうかなと思っています。

 

 

大事件発生 (7月更新分)

巣作りを終わったオナガ鳥は卵を産んだらしく母鳥が一日中、巣の中に篭り始めました。

そして、父鳥は雛がかえるまで動けない母鳥のためにセッセ、々と食べ物を運んでいました。

母鳥は強い雨に打たれても、強い風で木がユサ々揺れしても、ジーッと耐えてけなげに卵を抱いていました。

やがて、雛がかえったのか母鳥も巣から飛び立って動き回るようになりました。

「セニョール、赤ちゃんだよ。赤ちゃんが生まれたよ」と云って、ボビーが嬉しそうにグルグル回って喜びました。

セニョールも食べ物をセッセと運ぶ親鳥の様子を見ながら、「そのようだね」と鼻から煙をゆっくりと吹き出しました。

ところがある日、”グィーッ、グィーッ”とけたたましく鳴き叫ぶ声がしました。

いつもと違う鳴き声に”今日はどうしたのかな”と巣を見ると、カラスの集団が巣の周りをゆっくりと旋廻していました。

そして、枝に止まり、ジーッと様子を覗っていました。

そのうち、1羽が巣に向かって動き出しました。

親鳥は近寄って来るカラスに体当たりするように突っ込んでいきました。

カラスはちょっとヒルんで空に舞い上がりました。

別のカラスが近づこうとするとそのカラス目掛けて突っ込み、旋廻してはまた突っ込み、旋廻してはまた突っ込んで必死に赤ちゃんを守ろうと勇敢に戦いました。

あまりの抵抗にカラスもビックリしたのかそのうちどこかに飛び去っていきました。

親鳥も撃退してホッとしたのか、食べ物を探しに巣から離れました。

ところが、カラスもそう簡単には諦めません。

また集団で飛んで来て巣の近くの枝に止まり、様子を覗っていました。

今度は親鳥がいないので、セニョールもボビーも”早く帰って来ないと赤ちゃんが襲われちゃうよ”と、ハラハラして見ていました。

すると、カラスはジワッ、ジワッと巣に近づき始めました。

気が気で無いボビーが「よし、ボクがカラスを追い払って、赤ちゃんを守ってやる」とテラスに飛んで出ようとしました。その時親鳥が矢のように帰って来て、体当たり戦法で反撃し始めました。

今度はカラスもそう簡単には引き下がらず執拗に襲撃するチャンスを覗っていました。

親鳥も旋廻してはまた突っ込み、旋廻してはまた突っ込んで必死に赤ちゃんを守ろうとしました。

多勢に無勢、疲れてクタクタになってもそれでも親鳥は”グィーッ、グィーッ”と泣き叫びながら悲しいまでに必死に突っ込んでいきました。

修羅と化した親鳥に、さすがのカラスも成すすべが無くとうとう諦めて飛び去っていきました。

今度は親鳥も巣の近くに留まって警戒体勢を張っていました。

「あア、よかった、よかった。あの、親鳥が帰って来たときは月光仮面みたいだったね」とボビーは胸を撫でおろし親が子を必死に守る姿に感動したのか、大きな目を潤ませていました・・・。

ところがそれからニ日経っても、三日経っても親鳥の姿が現れませんでした。

 ”これはちょっとおかしいんじゃない”とボビーは心配そうにセニョールの目を見ました。

セニョールも”ちょっとおかしいな”と思って窓際のイスに腰掛けてズーッと見ていましたが、四日経っても、五日経っても親鳥の姿が現れませんでした。

「ボク達、気付かないときに、赤ちゃん、襲われちゃったのかな」とボビーが気落ちしたように云いました。

「ウン、きっとそうだッ」とセニョールは怖そうな顔をして鼻から激しくバッ、バッ、バッと煙を吹き出しました。

それを見て、ボビーはセニョールを慰めるようにシミジミと語り始めました。

「オナガの赤ちゃんが襲われたのはかわいそうだし、残念だけど・・・、ボクはカラスを責めることはできないよ。だって、小鳥は虫を捕らえて赤ちゃんを育てているし、人間だって生きるために魚や動物を捕らえているのに、”カラスだけが生きるために他の小鳥や虫を捕らえてはいけない”とは云えないもの・・・、とかく、人間はカラスを悪者扱いするけどそれはカラスの行為が人間にとって不都合なだけでカラスからみればごく自然な行為で善悪の問題では無いと思うもの。それよりも、カラスが自由に羽ばたける環境を人間が奪っていることの方がもっと問題だよ。ボクもカラスを追い払おうとしたけどそれはカラスが悪い奴だからではなくて、目の前で弱い赤ちゃんが襲われるのを黙って見ていることが出来なかったからなんだよ。もし、カラスが”真っ白”な鳥だったら、少々不都合なことをしても”ピース、ピース”と持て囃されて、食べ物を与えられたと思うけど

”真っ黒”なゆえに”悪い奴”と決め付けられて・・・、そういうのは、人間中心の勝手な決め付けにすぎないよ」

セニョールは「ウーン・・・」と考え込みました。

窓の外ではオナガの巣が悲しそうに雨に打たれていました。

でも、でも、森の中はこういう悲しいことばかりではありません。

無事に育ったムクドリやコムクドリの新しい命が兄弟連れで、元気に、バタバタと、まだギコチなく飛び回っています。

 

 

オナガ鳥が巣作りを始めました (6月更新分)

 

 

 

森の中では今、小鳥達が巣作りのため、忙しそうに飛び交っています。

 

我が館でも、テラスから手の届きそうな木の枝に

 

オナガが巣作りを始めました。

 

最初、6羽のオナガがその枝のまわりで賑やかに遊んでいましたが、

 

そのうち、どこかに飛んで行ってしまいました。

 

しばらくしてフッと見ると、2羽のオナガが小枝をクチバシに挟んで

 

セッセ、セッセと運んでいました。

 

セニョールは“さっきのオナガ達はどのカップルがここで巣作りするかを

 

クジ引きで決めていたんだな”と思いました。

 

そこで、窓際のイスに腰掛け、タバコをくゆらせながら

 

何時間もボーッと見ていました。

 

すると、運んできた小枝が木の枝に引っ掛らないように

 

巧みに潜り抜けながら巣の基礎・床・壁を築いていました。

 

そのうち、1羽が巣の中に残り、もう1羽が飛び立って行きました。

 

そして、綿のような柔らかいものを運んで来て、巣の中のオナガに渡し、

 

また飛び立って行きました。

 

この作業を何回となく繰り返して、巣はやっと完成したようです。

 

巣の中にいたのはたぶん母鳥で、自分が卵を産みやすいように

 

温めやすいようにマイホームを作っていたのでしょう。

 

セニョールと一緒に見ていたボビーが云いました。

 

「あのオナガさんは、きっと、スペインから飛んで来たんだね」

 

「どうして?」

 

「だって、午前中セッセ、セッセと働き、

 

昼間はどこかに行ってシェスタ(昼寝)をして、

 

夕方からまたセッセ、セッセと仕事をしてるんだもん。

 

スペイン人と同じだよ。」

 

“なるほど、 ボビーもインターナショナルになったナ”と

 

セニョールは満足そうに鼻から煙をゆっくりと吹き出しました。

 

ボビーとセニョールは、卵が雛にかえって、育って、そして巣立っていくのを

 

楽しみにしています。

 

 

 

車山、霧ケ峰のレンゲツツジの見ごろは6月中旬頃かナ (5月更新分)

 

 

 

我がフィールドのレンゲツツジが満開になりました。

 

この時期、フィールドには他のツツジやボケ、グミ、ヤマブキ、

 

エニシダ、ハナモモ、スズランなどの花が咲き乱れています。

 

そして、ドウダンツツジ、ベニサラサドウダン、

 

ライラック、マロニエ、バラ、サツキなどが

 

”次は私達の出番だ”と緊張して花芽を膨らましています。

 

”苦節3年”

 

”石の上にも3年”

 

”焼酎、呑んだくれて3年”

 

やっと、セニョールのイメージする”ユートピアの世界”が

 

少しづつ形になり始めてきました。

 

 

 

≪学説その1≫ (5月更新分)

 

 

 

”植物相乗効果の法則”

 

セニョールは色々な植物の生態系を観察する中で

 

次のような法則を発見しました。

 

その法則とは・・・

 

「廻りに咲いているきれいな花を見て、他の植物には

 

“より一層頑張ってきれいに咲こう”という緊張感・ライバル意識が生まれる」

 

 

 

懺悔 その2 (5月更新分)

 

 

 

タラの芽、ゼンマイが真っ盛りです。

 

タラの木は厳しい冬を必死の思いで乗り切り、

 

“今年こそ大きくなるぞ”と張り切って芽を出します。

 

それを心無い人間は”コッキン”と摘み採り、

 

テンプラにして食べます。

 

ボビーはそれを見て悲しそうな目で云いました。

 

「人間はどうしてそんなヒドい事をするの。

 

タラの芽だってノビノビと生きる権利があるのに・・・」

 

セニョール

 

「ムムム・・・」

 

でも、セニョールは良心の呵責に堪えながら

 

”コッキン、コッキン”とたくさん摘み採りました。

 

そして、良心の呵責に堪えながら

 

テンプラにして、お酒をたくさん飲みました。

 

タラの木は今年もまた、大きくなれませんでした。

 

 

 芝の種とキジバト (2001年 4月更新分)

セニョールは青々としたフィールドを造ろうと腰を“く”の字に曲げて、7日間、セッセ、セッセと耕し、芝の種を蒔きました。

ある朝、フッと見ると一羽のキジバトが蒔いた種をおいしそうにツイばんでいました。

太っ腹なセニョールは“小鳥も食べ物が無いと生きていけないからしょうがないか”と、やさしく微笑んで見ていました。

ところが、次の朝見ると今度は友達を5、6羽連れて来て、セッセ、々、セッセ、々、ダツ、ダツ、ダツ、ダッ、ダッと機関銃のようにツイばんでいました。

さすがのセニョールも“これは堪らん”と思い、ボビーを呼んで云いました。

「もうちょっと、遠慮して食べるよう話してきてくれないか。決して、怒ったり、脅したりしてはいけないよ。ワシはもう腰が痛くて、々・・・」

「ウン、分かった」と、ボビーはセニョールに同情してお尻を振りながらチョコ・チョコとキジバトに近づいて行きました。

「キジバトさん、キジバトさん、せっかくセニョールが腰を“く”の字に曲げて苦労して蒔いたんだから、もうちょっと遠慮して食べてよ」

キジバトは“ククッ”と振り向き、ボビーに云いました。

「だって、おいしいんだもん・・・、こんなにたくさん食べ物が有るところを見つけたのは久しぶりなんだよ。人間はドン々、ドン々自然を壊していくから僕達の食べ物はドン々、ドン々少なくなって困っているんだ。君は人間に飼われているから苦労は無いだろうけど僕達は自分で食べ物を見つけて生きて行かなきゃいけないんだよ」

“ウッ”とボビーは一瞬、言葉を失い、“これはちょっと手強いぞ”と思いました。

そして、“なにか良い方法がないかナア”と考えて気を取り直して云いました。

「キジバトさん達のためにバードフィーダーをセニョールに作ってもらうから・・・、セニョールもアスファルトやコンクリートに変えようとしてるんじゃあないんだから、この程度の自然改良は許してあげてよ」

 キジバトはちょっと不満そうでしたが、ボビーが“板ばさみ”になって困っているので、しぶしぶ飛び立って行きました。

セニョールは約束通りバードフィーダーを吊るして食べ物を入れて置きました。

ところが、人間に不信感を持っているキジバトは“毒が盛られているかも・・・”と警戒してか、今だに一羽も近づいて来ません。

ボビーは、“今回の判断はちょっと人間よりだったかな”とちょっぴり反省しながら、“セニョールはヒゲをはやして怖そうな顔をしてるけどあれで結構やさしいんだから・・・、悪い人じゃないから安心して早く食べに来てくれないかなア”と大きな目をさらに大きくして毎日、々、バードフィーダーを見上げています。

 

 

 懺悔 その1 (4月更新分)

今日、雪の間から、かわいらしい゛フキノトウ″が顔を出し、厳しい冬の終わりを告げました。

残酷にも、早速テンプラにして、そのほろ苦さ・ほろ香りに早春の鼓動を感じています。

いよいよ、山菜採りの季節がやってきました。

 

 

クリタケ栽培を始めました (4月更新分)

カラマツの原木40本に種菌1500個を植え込みました。

これを土中に埋め、じーっと心静かに待つこと1年半、やがて立派なクリタケが誕生するハズです。

成功すれば来年の秋には、なべ料理・テンプラ・ケンチン汁などに秋の味覚を添えられそうです。  

お楽しみに・・・。

もちろん、スペイン料理もつくります。

 

 

セニョールの叫び (2001年 4月更新分) 

下界を離れ、神々の世界に移り住んで3年、なんの未練もなく心静かに暮らしていますが、ただ一つ、カラオケを思う存分唄いた~い。

何々、「唄いたかったらカラオケ・セットを買ったら」って、イヤイヤ、ヴィラ・アビエルタにはカラオケは絶対に置かない。

 

セニョーラの嘆き

なによ、カラオケなんて。

私なんか未練がたくさんあるのに、無理やりこんな処に連れて来られて・・・、一生懸命順応しようと思ってるのに・・・。

カラオケは絶対ダメ。

唄いたければ、森に向かって大きな声で唄いなさい。

 

ボビーの悟り

ウーン、寒い、寒い・・・。

でも、ここは空気がきれいだし、シカやキツネやタヌキやキジなど友達もたくさん居るし、居心地は下界よりもイイかな・・・。