シルクロード紀行(中央アジア編 2019年5月)

 

5月にシルクロードの中心地、中央アジアのウズベキスタンに行って来ました。

この国ではサマルカンド、ブハラ、タシケントなどが交易路の町として繁栄しました。

シルクロードは紀元前から中国と地中海地域の交易路として発展してきました。

大きく分けて、「オアシスの道」(ウズベキスタン経路)、「草原の道」(カザフスタン経路)、「海の道」(東・南シナ海~インド洋経路)の三つのルートがあります。

 

そして絹・銀・胡椒などの交易品の輸送だけでなく、当然ながら学術、文化、宗教も交流しました。

絨毯、刺繍、陶器、紙すき、天文学などもシルクロードの産物です。

宗教では仏教は当然ですが、古代ペルシャのゾロアスター教が古代ホラズム王国や唐代の中国で、キリスト教(景教)も中国で信仰されました。

 

中央アジアはイスラム教ですが、これは8世紀のアラブの侵略により「剣かコーランか」と武力で改宗させられたものですので伝来ではありません。どの町でも高度に発達したイスラム建築・イスラム文化を見ましたがやはりシルクロードの交易による文化の交流と富の蓄積があったからでしょう。

 

≪ サマルカンド ≫

サマルカンドは紀元前から交易の中心地として栄えましたが、13世紀にジンギスカンの侵略により破壊され壊滅状態になりました。しかし14世紀にチムールが西は黒海から東は天山山脈まで大帝国を築き、その都となってから再建が進みイスラム文化が花開きました。

 

シャーヒズインダ廟群、グリ・エミル廟、レギスタン広場のメドレセ(神学校)などブルーを基調としたモザイクタイルを貼った建造物は素晴らしいものでした。

イスラム世界における“ブルー”は聖なる色とされ、黄金色よりも尊いとされています。

これは“悪霊を追い払う”とも“天空(天国)への憧憬”とも謂われています。

 

【 シャーヒズインダ廟群 】

チムールゆかりの人々の霊廟が建ち並び、ブルーを基調としたモザイクタイルの装飾は圧巻です。

ブルーは“コバルトブルー”と“ターコイズ”でデザインされています。

【 グリ・エミル廟 】

チムールとその一族が眠る霊廟

【 レギスタン広場のメドレセ 】

レギスタン広場はサマルカンドの商業の中心地で、バザールが開かれていました。

また公共広場の役割も持ち、謁見式、閲兵や罪人の処刑なども行われました。

(ライトアップされたレギスタン広場)

(シェルドル・メドレセ)

(ウルグベク・メドレセ)


(ティラカリ・メドレセ)

(中庭のモザイクタイル)



(礼拝所)

【 ビビハニム・モスク 】

チムールが建設したイスラム世界最大のモスク

(ビビハム・モスク)

(圧倒的なボリューム感のあるファサード)


≪ ブハラ ≫

 

サマルカンド・メルヴなどのオアシス都市を結ぶ交易の十字路として栄え、9世紀にはイスラム王朝の庇護のもとで優秀な宗教家、神学生、科学者、詩人などが集まり、イスラム世界の文化的中心地となりました。

この町もジンギスカンにより破壊されたが、16世紀に再びよみがえり、多くのモスク(寺院)やメドレセ(神学校)が建設されました。

 

【 イスマイール・サーマーニ廟 】

9世紀に建てられたイスラム初期の建築様式の霊廟、中央アジアで現存する最古の建築物で焼きレンガだけの組み合わせ文様がすばらしい。

(スマール・サーマーニ廟)

(外壁の文様)



(内部)

【 チャシュマ・アイユブ廟 】

預言者ヨブがここを杖で叩いたら泉が湧き出たと伝えられている。

(チャシュマ・アイコブ)

【 バラハウズ・モスク 】

1712年に建てられたブハラ王専用のユニークな様式のモスク

【 アルク城 】

18世紀に再建された歴代ブハラ王の居城


【 カラーン・モスク 】

(高さ46mノカラーン・ミナレット)

(モスクの中庭)


【 ミル・アラブ・メドレセ 】


【 アブドウールアジス・ハン・メドレセ 】

17世紀に建てられた神学校、装飾にインドやオスマントルコの影響がみられる。

偶像崇拝を禁ずるイスラム教では、壁画などに動物を描かないがここではクジャクが描かれている。


≪ シャフリサーブス ≫

チムールの生まれ故郷で、彼が造った最大の建造物アク・サライ宮殿、ドルティロヴァウト建築群や生前に造ったお墓(ここには埋葬されていない)などがあります。

しかし、16世紀後半にブハラ王によってチムールの遺産はほとんど破壊されたのであまり残っていません。

(アク・サライ宮殿の遺跡)

(モザイクタイルの装飾)


(チムールが戦死した長男のために造ったジャハンギール廟)

(ドームの天井)


≪ ヒヴァ ≫

 

交易路としては脇道であったためシルクロードとしての発展はあまり見られなかったが、16世紀から20世紀初頭まで存在したヒヴァ・ハーン国の都として栄えました。

ヒヴァの町は外敵を防ぐため外壁と内壁の2重の城壁で守られ、内側の内城イチャン・カラはほぼ完全に残されており、多くのモスク(寺院)、メドレセ(神学校)、ミナレット(塔)があり、中世の面影を色濃く残しています。

 

【 イチャン・カラ 】

(イチャン・カラの西門)

(内城の城壁)


(イチャン・カラの中世の街並み)

(キョフナ・アルク宮殿の城壁)


(ヒヴァで一番高いミナレット:45m)

(モスクのドーム)


未完成のミナレット:カルタ・ミナル)

(カルタ・ミナルのモザイクタイル)


(多柱式建築のジュマ・モスク)

(多柱式建築のジュマ・モスク)

(ヒヴァの王様)


≪ タシケン ト≫

タシケントはウズベキスタンの首都で人口230万人の大都市です。

シルクロードの中継点として11世紀頃最も栄えたが、その後19世紀に帝政ロシアの支配下になり統治機関がここに集中して都市化が進んだためシルクロードの面影はあまり残っていません。

ジュマ・モスクのメドレセにはチムールがダマスカスから持ち帰った世界最古のコーランがあります。

(カファリ・シャーシ廟)


(ジュマ・モスク)

(バラク・ハン・メドレセ)


(英雄 チムール像)

≪ キジルクム砂漠 ≫

ウズベキスタンは東西に細長い国でその南側と北側にパミール高原や天山山脈から流れ出る大河が走っています。

この両大河から一番遠い、すなわち水が届かない中央部が帯状に砂漠になっています。

しかし両大河の水蒸気が少しは雨を降らせますので、砂漠といってもブッシュ(ラクダグサ)がはえています。

中国のタクラマカン砂漠やアラビアのようにきれいな砂山ではありません。

この砂漠の西部にシャー・ウシ朝の城都トプラク・カラ(紀元前後)や古代ホラズム王国の城都アヤズ・カラ(6,7世紀)の遺跡があります。

(キジルクム砂漠)

(ひとこぶラクダ)


(トプラク・カラ遺跡)

(トプラク・カラ遺跡住居跡)


(アヤズ・カラ遺跡)

(遺跡で仲良くなった子供たち)


(遊牧民の移動住宅:ヤルタ)

(砂漠の中の大ブランコ)


次はタクラマカン砂漠を経由する天山南路と西域南道に行きます。

 

ウズベキスタンあれこれ

 

ウズベキスタンは紀元前から国土の南側を流れるアムダリア川の肥沃なデルタ地帯に人が住み始め、シルクロードを中心にした交易により発展しましたが、大陸の宿命である他民族の侵略により色々な王国が盛衰しました。

特に紀元前には古代ギリシャのアレクサンドロス大王が侵略、8世紀にはアラブの侵略によりイスラム化し、13世紀にはジンギスカンの侵略により町々は破壊されました。

14世紀にはこの国の地方豪族だったチムールにより、西は黒海から東は天山山脈に至るチムール帝国(1370年―1507年)が築かれました。

その大帝国も分裂・衰退し、ヒヴァ・ブハラ・コーカンドに王国ができますが、19世紀には帝政ロシアに侵略され、社会主義国ソ連に引き継がれ1991年まで支配されました。

 

【出入国】

前大統領は親ソ連派で国家秘密主義をとっていたので、ビザ発行・税関審査・国内での宿泊証明・写真撮影などにかなり厳しいチェックがありました。

現大統領に代わってからは観光事業に力を入れ、2018年2月から日本やヨーロッパ諸国に対しては30日以内の滞在であればノービザ、税関もフリーパス、係官もニコニコと友好的で出入国に全く緊張感がありません。

この国では大統領の意向により制度が簡単に変わるそうなので、大統領が変われば注意が必要です。

 

【両替と物価】

お金の単位はスムで、2019年5月の両替相場は1,000スムが約15円でした。

発展途上国はどこでもそうですが、現地人と外国人旅行者では商品価格やサービス料金が異なります。

旅行者向けのホテル・レストランや刺繍・絨毯・陶芸などの土産物屋では値段が高いです。

例えばスーパーで買うビール瓶は約3,000スム(45円)ですが、レストランで飲むと20,000(300円)~25,000スム(400円)でした。

その他、観光地の撮影料は10,000スム(150円)、ミネラルウォーターは現地人3,000スム(45円)・外国人5,000スム(75円)、公衆トイレ使用料は現地人無料・外国人1,000スム(15円)でした。

スーパーは現地向け料金なので、チーズ(450g)を14,000スム(200円)で、ウォッカを35,000スム(530円)で買いましたが安かったです。

(ウォッカとチーズ)

【工芸品】

 

シルクロードの文化交流で、絨毯・刺繍(スザニ)・陶芸・紙すきなどの工芸品があります。

絨毯・刺繍・機織りは手作りで、陶器は青を基調としたものが多いです。

紙の製法は中国から伝わり、クワの樹皮(日本ではミツマタ・コウゾウ)を使い,和紙作りと同じ技法で紙すきをしていました。

(絨毯を手作り)

(機織り)


(モザイクタイル、コーヒーカップ、飾り皿)

(紙すき:樹皮はぎ)


【食べ物】

 

油はヒマワリ油を、香料はパクチをスープ、サラダ、麺料理、肉料理などにふんだんに使います。

東西に細長いウズベキスタンの西に行くほど油とパクチの使用量が多いように感じました。

油に弱いセニョールは初日から下痢をし、またパクチが苦手なので料理の美味しさをあまり楽しめませんでした。

美味しかったのは、串焼きの肉、プロフ(中央アジア風ピラフ)、サマルカンド ナンなどでした。

プロフの作り方を教わって来ましたので時々作って食べています。

(炭火で串焼き)

(サマルカンド・ナン)


(プロフを作るおばあちゃん)

(レストランの食事)


【お酒】

イスラム教の戒律では禁酒ですが、宗教否定のソ連の支配下にあったのでお酒には寛容です。

町にはチャイハナ(喫茶・居酒屋)があり、男たちはお茶やお酒を飲みながら談笑しています。

国産のビール・ワイン・ブランディ・ウォッカがあり、ビールはアルコール度が11~12%で強いです。

(チャイハナ:喫茶・居酒屋)

【産業・資源】

主要産業は綿花栽培で、輸出量は世界第2位です。

天然ガスや金・銀など地下資源が豊富で、ほとんどの車の燃料はメタンガスです。

街道を走っているとガス・スタンドをよく見かけます。

 

【環境問題】

ソ連の政策で綿花栽培が主要産業となり、アムダリア河からドンドン水が引かれ

世界第4位だった流末のアラル海が干上がり消滅寸前になっています。

かっての漁村は寂れ、干上がった砂浜には錆びた船が並び、まるで墓場のようだそうです。

 

 【 対日感情 】

第2次世界大戦後、ソ連に抑留された旧日本兵の一部はウズベキスタンに回されました。

そしてこの地で強制労働により没した約70名の墓地がタシケントにあります。

彼らは勤勉に労働に励み、ナヴォイ オペラ バレイ劇場などを建設しました。

この劇場は1966年の大地震のときも倒壊せず、「日本人が造った建物は壊れなかった」と称賛されました。

ウズベキスタンの人々は親日的で、よく「写真を一緒に撮らせてくれ」とスマホで自撮りします。

(ナヴォイ・オペラ・バレー劇場

(劇場の壁に取り付けられているプレート)